月狼聖杯記

6章:眠れぬ夜に - 4 -


 発情が明けた。
 寝室に続いている露台で、夜風に吹かれながら、ラギスはの蒸留酒をあおり、胃まで流れこんでいく焼けつくような感触を味わっていた。
 発情が明けたあとの、恒例になりつつある自棄やけ酒である。
 毎度、理性を取り戻した瞬間に、淫らな饗宴を思いだして身悶える羽目に陥っている。それも回を重ねるごとに悪化しているような。発情している間は、もはや別人格が降臨しているとしか思えない。
(あれは俺じゃない……畜生、聖杯にのっとられていたんだ)
 弁解がましく胸中に呟き、次々と酒杯を煽る。
 しかし、酔っぱらって記憶を振り払おうと試みるも、脳裏にこびりついた醜態は、なかなか離れてくれそうにない。
 シェスラもシェスラだ。快楽を嫌う雄などこの世にいやしないだろうが、よく飽きもせず、ラギスのような巨漢と何度も交われるものだ。
 発情を迎える度に、もうこれ以上はないだろうと思っていた新たな快楽の扉を開けている気がする。恐ろしい……終わりのない無限の扉だ。
 だらしなく卓に伏せっていると、優美な衣擦れの音が聴こえた。ラギスは耳をそばだてたが、顔をあげようとはしなかった。
 部屋にやってきたシェスラは、酔い潰れているラギスを見て、呆れたようにいった。
「またか」
「こっちの台詞だ。またきやがったのか」
 卓に頬を押しあてたまま、だらしのない姿勢でラギスは呻いた。
「そう威嚇するな、様子を見にきただけだ。気分はどうだ?」
「最悪だ」
 シェスラは微笑をこぼした。
「元気そうではないか」
 シェスラは優雅に椅子を引いて、ラギスの隣に腰をおろした。ぐったりしているラギスの黒髪に指をさしいれ、労わるように上から下へと梳いた。その優しい仕草に誘われるようにしてラギスは口を開いた。
「……思うんだが、七日ほど俺を放っておいてくれれば、発情期なんてものは、どうということないんじゃないか?」
つがいが傍にいながら、なぜ我慢しなければならない?」
 ラギスは上体を起こすと、シェスラを睨みつけた。顔を手で擦り、低く罵りながら肘をついて額を手で押さえる。
「毎度毎度、正体不明になるまで抱かれる身にもなってみろ。俺は自分で自分が信じられん……」
「そろそろ慣れたらどうだ? 月狼ならば発情期の交歓は自然なことであろう」
「畜生、あんたは涼しげな外貌によらず、意外と性欲が強いな……ちょっとは禁欲をしたらどうだ?」
 シェスラは鼻を鳴らした。
「断る。なぜ禁欲せねばならぬ」
「俺をつがいだというなら、大切にしろ! 今ここに誓え!」
「大切にしているではないか」
「るせぇ、誓え!」
「何に誓えばいい?」
「知るか、聖なるもの全てに誓えよ。毎度、つがいを疲労させていることを悔い改めやがれ」
「何をいう、大事に労わっているではないか」
 呻くラギスの髪を、シェスラは優しく撫でた。ラギスはその手を弾いて、髪をくしゃくしゃと掻きむしった。
「どこかだよ! あんたのせいで、俺は開いてはいけない未知の扉を、何度もくぐり抜ける羽目になったんだぞ!」
「甘美なる世界を知ることができて良かったではないか。更に探求せねばな」
「この糞野郎」
「ははは」
 シェスラは愉しそうな顔をしている。ラギスは喉の奥で唸り声をあげると、シェスラの首に腕を搦めてしめつけた。
 シェスラは驚いたように耳をぴんと立て、尾を膨らませた。もちろん、ラギスは力の加減をしている。苦しいのかと顔を覗きこむと、予想に反して、シェスラは楽しそうな、嬉しそうな顔をしていた。
「怒るな、ラギス」
 首にからめた腕を、宥めるように叩かれる。ラギスはまだ唸っていたが、少し気が晴れて腕の力を緩めた。
「全く、かわいい真似をしてくれる。そなたが愛おしくて、つい構いすぎてしまうのかもしれぬ」
「ッ!?」
 ラギスはぎょっとして、飛びのいた。着座して、まじまじとシェスラの顔を見た。
「どうした?」
「い、愛おしいだと?」
「うむ」
 シェスラは愛情に満ちた甘やかな眼差しでラギスを見つめた。ラギスは全身をわなわなと震わせ、呻いた。
「おかしいだろ……俺は、俺は、そんな台詞は絶対に口にしないぞ」
 突然の脅迫観念に駆られ、ラギスは戦慄したように呟いた。シェスラは口角をもちあげると、酒杯に口をつけながらいった。
「ならば、そなたの分まで私がいおう。いつかは聞かせてほしいがな」
「いわなくていい!」
「照れるな」
「照れてねぇよッ!」
「ははは……」
 楽しそうに笑うシェスラを、ラギスはきつく睨んだ。
「大王様、仕事がたまってるんだろ。さっさとでていけよ」
「今夜はもう十分に働いてきた。甲斐甲斐しく様子を見にやってきたつがいを、そのように邪険に追い払うな」
「何いってやがる――」
 唇に人差し指を押しあてられ、ラギスは言葉を遮られた。
「私とそなたは、運命に惹かれ合うつがいだよ」
 冴えわたる水晶の瞳に反駁はんばくを封じこめられ、ラギスは黙るしかなかった。だが心の中では宙を仰いで大声で喚きたい気分だった。
 心をかき乱す指が離れていき、ラギスは身を震わせるようにして大きく息を吸いこんだ。冷静になろうとする傍から、うなじのうしろを掌に撫でられた。ぞくりと肌が粟立つ。
 シェスラはラギスの顔を優しく引き寄せ、唇を重ねた。ラギスは戸惑い、一瞬全身に力をこめたが、表面を触れ合わせるだけの繊細な口づけに、やがて肩から力を抜いた。
 シェスラはゆっくり顔を離すと、ラギスの瞳を覗きこみ、無精ひげの浮いた頬を指の背でそっと撫でた。
「ラギス……」
 吐息のように名を囁かれ、ラギスは両の耳を伏せた。シェスラを前にするといちいち心を乱される。悟られまいと悪態をつくのはもはや習性だが、本当は、発情のあとでもラギスを気にかけ、様子を見にやってきたことを心のどこかで嬉しく感じていた。
「ううむ」
 眉間に皺を寄せて唸るラギスの顔を、シェスラは不思議そうに覗きこんだ。
「どうした?」
「別に……」
 シェスラが傲慢不遜なだけの月狼の王アルファングであれば、ラギスもここまで複雑怪奇な煩悶はんもんに苦しむことはなかっただろう。彼は、意外と誠実な男で、ラギスを城へ召しあげてからというもの、ラギス以外の男も女も閨に呼んでいないのだ。
 今夜はラギスが応じるはずがないと判っていながら、それでもラギスの寝室へやってきた……何のために?
 捻った答えを探そうとして、やがてラギスはかぶりを振った。どう考えても、シェスラが今ここにいる理由は、果てしなく純粋な何か、思い遣りや優しさといった類であるとしか思えない。
 卓に突っ伏すラギスの耳に、シェスラはそっと触れた。毛づくろいするように、上から下へ撫でおろす。
 そのうちとろとろとした眠気がやってきて、ラギスは考えるのをやめた。シェスラに促され、寝台に横になる頃には、胃がねじれるような煩悶は失せ、不思議と満ち足りた気分になっていた。