月狼聖杯記

5章:閃く紋章旗 - 7 -

 垂れ布が左右に開き、戸口に美しい少年を従えた老女が現れた。
「ばーさん、こんな時間にどうした?」
 ラギスは訝しげに訊ねた。
「私が呼んだのだ。先もいったが、ネロアに出向く。運勢を占ってもらおうと思ってな」
 と、シェスラ。
「ほーぅ?」
 ラギスは間延びした声でいった。明晰めいせきな思考回路を持つ王が、霊的な超自然の類に頼るとは意外である。
「我が大王きみの仰せの通りに」
 アミラダは卓に錦紗きんしゃの布を敷いて、水晶球を置いた。表面は雲がかり、線条が走っている。
 彼女が手を翳すと、蝋燭の明滅する朧な焔のように、不思議な光が球体に浮かびあがった。ラギスの聞きなれぬ言語で、まじないの文句らしいものを呟いている。
 水晶のなかに蒼と緋色がいりまじり、黄金色が踊っている。千もの声が音楽のように囁いているようだ。
 神秘を目の当たりにして、ラギスは驚きに目を瞠ったが、彼女の集中を乱さぬよう声にはださなかった。
 やがて、球体の光は凝縮し、広漠とした闇夜を映しだした。
 全てを見透す銀色の瞳は、凄まじい集中力で水晶を凝視している。アミラダは半ば瞼を伏せ、視えたものを語り始めた。
「東風の吹く地の眺め……涯てしなく続く草原の闇……月は姿を隠し、拡がる深い闇に槍と斧も姿を隠し、戦は影の如し…獰悪どうあくな相が視えます」
「ほぅ?」
 シェスラは、どこか面白がるようにいった。
「……ネロアの夜、月が翳ります。霊力は弱まり、狂気と死、凄惨な絶望の夜を運んでくる」
 不吉な言葉にラギスは眉をひそめ、呟いた。
「呪いかよ」
「可能性の一つだよ。だが、かの地で殺戮と死闘が起こることは間違いない。鋼と鋼が触れあう、合戦の物音が鳴り響いておる」
 アミラダは重々しくいった。じっと耳を傾けていたシェスラは、臆することなく不敵な笑みを浮かべた。
「ラピニシアの前哨戦にふさわしい情景のようだな。視えたのは、奇襲の先触れだろうか?」
「夜陰に紛れる者は、いつでも疚しい心を持っております」
「いかにも」
「黄金の月の下、突き刺さる剣……王家を揺るがす、因果のしるしです」
 一拍の間をあけて、アミラダは確信めいた口調で続けた。
「前王を討ち滅ぼした男かもしれませぬ」
 シェスラは息をのんだ。
「……アルセウスか! 表にでてくるのは五年ぶりだな」
「時間が経てば、もっとはっきり見えるかもしれませぬ」
「では頼む。敵将に彼がいるのだとすれば、父を討った腕前、拝見させてもらおうか」
 シェスラは面白がるような、挑むような口調でいった。
「油断なさらぬことです。あれは危険な仇敵です」
 決然と告げるアミラダは威厳に満ちており、ラギスの胸に霊的なものへの畏怖、或いは敬意がこみあげた。
「……ばーさん、本当に呪術師なんだな」
 アミラダは呆れたような視線を投げてよこした。
「なんだと思っていたのだ?」
「年齢不詳の怪しいばーさんだと……いてっ」
 後頭部を杖で叩かれ、ラギスは呻いた。聖杯への暴挙だが、シェスラは愉快そうに眺めている。
「お主も油断せぬよう。これが初陣となるのじゃ」
 ラギスは驚いた顔つきでアミラダを見、次にシェスラを見た。彼は口角をあげて頷いた。
「そなたも連れていく。日頃の成果を見せてみろ」
 ということは、ラギスも戦力のうちに入っているのか――それは信頼の証のようにも思えて、ラギスは高揚する心に戸惑いつつ、曖昧に頷いた。
「北の動向に異変はあるか?」
 シェスラの言葉に、アミラダはかぶりを振った。
「膠着が続いております」
「……連中、思ったより冷静だよな。アレッツィアの裏切りに、もっと腹を立てているかと思ったぜ」
 ラギスの呟きに、シェスラは頷いた。
「そもそも、チャヴァルの連邦制は、共同戦線を張る為ではない。互いの領土を侵さない為の、便宜上のくくりに過ぎないからな」
 その他人事のような口ぶりをラギスは訝しんだ。
「不満か?」
 シェスラの問いかけにラギスは頷いた。
「四都市はアレッツィアに味方していて、おまけにアルトニアが後ろに控えている。肝心のペルシニアはどっちつかずで、我がセルトの圧倒的な不利であることに変わりはないんじゃないか?」
 シェスラは不敵な笑みを浮かべた。
「四都市以外は、必ずセルトにつく」
「どこからくるんだ、その自信は」
「ネロアだ。ネロアの闘いを見て、彼等の平和ボケも醒めるだろう」
「おい、ばーさんの言葉をちゃんと聞いていたのか? ネロアの出兵は絶望的みたいじゃねぇか」
 吐きだすようにラギスがいうと、そうでもない、とアミラダは口を挟んだ。
「希望はある。苦難と忍耐の末に、夜明けの光を視た。王ならば、ときの声をあげることができだろう」
 シェスラは満足げに頷き、尊大な笑みを浮かべた。
「大陸制覇を掲げる以上、困難を伴うのは当たり前だ。だが、攻略できぬ闘争も政争もない」
「よくいうぜ。現時点で、ペルシニアの助力はもらえないのだろう?」
「布石は打ってある。私の城で、饗宴に興じている阿呆に用はない。目の利く者には釘を刺しておいた」
「あんたは興じてなかったのか?」
 ラギスが口を挟むと、シェスラはじろりとひと睨みし、黙らせた。
「感謝してほしいものだ。私が先陣を切らねば、彼等は態度を明らかにしないまま、ラピニシアの行方を静観するという、愚かな誤りを犯すところだった」
「確定事項かよ。というか、アレッツィアはそれでも構わないんじゃないか? 彼等にしてみれば、最も最悪な状況は、連邦都市の全てがセルトに味方することだ」
「違う。アレッツィアは、最終的に全ての都市を裏切る」
 確信に満ちたシェスラの言葉に、ラギスは眉をひそめた。
「なぜだ?」
「戦争は勝っても負けても、金がかかる。火蓋を切って落としたアレッツィアは特にな。四都市が敵だろうが味方だろうが、負債を清算する肚積はらづもりだろう」
「他の都市は、本当にセルト側につくと思うか?」
「それ以外に選択肢はない。アレッツィアに未来はない……少しでも冷静に考えることができれば判るものだ」
「あんたは計算高いな」
 ラギスは白けた目を送ったが、シェスラは微笑を浮かべた。
「褒め言葉と受け取っておこう。そなたが都市の指導者なら、どういう選択をした?」
 ラギスは胸を反らし、腕を組んだ。
「先ず、アレッツィアとは手を切る。他の都市に呼びかけて、武装する。で、セルト国は無視して自衛する」
 単純明快な回答にシェスラは笑った。アミラダも口角をもちあげて愉快そうに見ている。
「大英断だ」
 笑いのいりまじった声でシェスラがいうと、ラギスは鼻を鳴らした。
「ふん。アレッツィアは帝国に利用されているだけだ。追従する都市といい、帝国を盟友国だと本気で思っているなら、考えが甘すぎる」
「同感だ。帝国の威信に惹かれたのだろうが、この貪婪どんらん過酷な月狼の地で、そんな面構えでは生き残れぬ」
「全面戦争になるな」
 ラギスの言葉は、静かな部屋に厳かに満ちた。
 現在、連邦九都市のうち、北方の二都市、ノア、ルクィーセがシェスラの同盟に応じている。
 五都市はアレッツィア陣営で、残りのニ都市、チェル・カタとペルシニアは迷っている風を装い、言明を避けている。
 ペルシニアは聖地ラピニシア、またチャバル連邦の行軍の最大の要衝であるが、老獪なペルシニアの二枚舌外交を知っているシェスラは、彼等を盟友国にする難度の高さは承知していた。アレッツィアに追従する四都市にも親書を送り、会談を申し入れているが、断られるであろうことも。
 遠距離の情報戦は、セルト国とアレッツィア間で既に烈しい火花を散らしているのだった。