月狼聖杯記

5章:閃く紋章旗 - 3 -

 くだんの大衆浴場は、大勢の市民で賑わっていた。
 真新しい石造りの建物で、壁面には美しい装飾が施されている。なかは広々としていて、天井も高い。
 脱衣所で服を脱ぐ時、革の胴衣を身につけているラギスを見て、オルフェは不思議そうな顔をした。
「訓練の時でも、着用しているんだね」
 まぁな、とラギスは曖昧な返事をした。聖杯の匂いを抑止するほか、頻繁にシェスラに吸われるせいで、乳首が敏感になってしまったせい……なんて、口が裂けてもいえない。
 腰布を巻いて浴場に入ると、暖かい乳白色の蒸気に包まれた。ハーブの石鹸や精油の匂いが辺りに充満している。中央には大理石の台が設けられており、静かに寝そべっている者、会話を楽しんでいる者、有料の洗髪を受けている者など、様々な客がいた。
「あれは気持ちがいいんだ」
 ラギスの視線を辿り、オルフェは上機嫌にいった。
「へぇ」
「私は毎回やってもらっている。興味があるなら、腕のいい施術師を紹介しようか?」
「いや、俺はいい」
「そうかい? 私はやってもらうことにするよ。ロキはどうする?」
「やってもらおう」
 そういって、オルフェとロキは施術師に声をかけにいった。
「ジリアンはいいのか?」
 ラギスが声をかけると、少年は控えめにほほえんだ。
「私は結構です。ラギス様、先ずはかけ湯を浴びましょうか」
「そうするか」
 二人で洗い場に向かう途中、ジリアンを見て口笛を吹く男がいた。ラギスが立ち止まり、威嚇するように睨みつけると、男はぎょっとしたように目を瞠った。
「ラギス様、いきましょう」
 緊張している様子のジリアンを見て、ラギスは大人しく従った。こうなることは予想していたが、やはり麗しい少年の裸体は目をひく。よく気をつけてやらねばならないだろう――保護者めいた感情を抱くラギスだったが、ジリアンも全く同じことをラギスに対して感じていた。石鹸や精油の匂いが充満していても、聖杯の匂いを嗅ぎとる雄もなかにはいて、そのうちの幾人かは実際にラギスに秋波しゅうはを送っていたのだ。
 洗い場でぱぱっとかけ湯を流して終わりにしようとするラギスに、ジリアンはすかさず石鹸を手渡した。
「これをお使いください」
「……石鹸か」
「はい」
 嗅ぎなれない匂いに鼻をひくつかせているラギスに、ジリアンは気遣うように声をかけた。
「先ほど、ラギス様を見ている者がおりました。お嫌かもしれませんが、一応、石鹸で洗われた方が安全かと……」
 途中でラギスが舌打ちをしたので、ジリアンは怯んだように言葉を濁した。
「お前に腹立てたわけじゃねぇよ……判ったよ、仕方ない。洗うとするか……」
 ラギスは嫌そうな顔で石鹸を泡立てた。彼が全身を洗い終えると、このあとどうするのか、主の意向をうかがうようにジリアンは長身を仰いだ。
「さてと……」
 ラギスは周囲を見回した。大抵の温浴施設に浴槽はないが、ここには屋内と、湖畔に面した外に浴槽がある。
「ロキ達はまだ時間かかりそうだしな。俺達は露天風呂にいってみるか」
「畏まりました」
 ジリアンは先回りして硝子戸を引いた。ラギスが巨躯を屈めて外にでると、涼しい風が全身に吹きつけた。
 湖畔の眺望は素晴らしく、風呂に興味のないラギスでも気分が高揚した。
 石で囲んだ浴槽に腰を沈めると、ジリアンのぴんとしていた三角の耳が、へたりと緩んだ。湯の下で尾が少し揺れている。
(こいつも、風呂が好きなんだな……)
 そういうラギスも、全身の筋肉が弛緩し、生き返る心地を味わった。
 たまには風呂で寛ぐのも悪くない。ラギスは少年が満足するまでつきあってやることにした。暇つぶしに周囲を眺めると、精緻に彫られた床や天井の装飾が目に留まった。評判になるだけのことはある。公衆浴場とは思えぬほど行き届いた施設だ。
 これがドミナス・アロの力――
 王都では、奴隷剣闘士の宿舎ですら、水洗排泄場と風呂が完備されていた。ちょっとやそっとでは病気も怪我もしない月狼だが、日々致命傷を負う危険のある剣闘士達は、感染病にかからぬよう、意外なほど衛生面で気を使われていた。
 この大衆浴場は、広くて清潔な上に眺望も素晴らしい。
 ラギス達がのんびりしていると、人が増えはじめ、ロキとオルフェもやってきた。
「いよぉ、十年来の垢は落ちたのか?」
 ラギスがからうかうと、ロキはにやっと口角をもちあげた。
「ぴかぴかになったぜ。風呂に通う奴の気持ちが少し判った。気持ちいいものだな」
 満足そうにしているロキの横で、オルフェも満足そうに寛いでいる。
「まぁな、面倒は面倒だが……しかし、眠くなってくるな……」
 目を閉じて寛いでいたラギスだが、異様な空気を察知して目を開けた。周囲の男達は、奇妙な顔でラギスを見つめていた。オルフェも心なし頬を上気させている。あのロキまでもが、愕然とした目つきでラギスを見ていた。
「……なんだ?」
 ラギスは戸惑い、彼等の顔を順番に見た。だが、頬を赤らめ、不自然に視線を逸らされる。
「……俺はそろそろでる」
「もう? 随分早いな」
「ああ、外で待っている。ラギス、お前もさっさとあがれ」
 ロキは微妙そうな顔でいうと、返事も待たずに湯船をでた。
「あいつ、俺よりせっかちだな」
 ラギスは呆れたように呟くと、オルフェの顔を見て眉をひそめた。
「どうした? 顔が赤いぞ」
「……私は馬鹿だ。君はただのオメガじゃない。王の聖杯ということを忘れていた」
 ラギスはむっとした。
「聖杯だから、なんだというんだ」
「大王様とつがっていても、君の肌から立ち昇る匂いは、そうそう薄れやしないようだ……全く、月狼の嗅覚ときたら」
 オルフェは低い声で呻くと、ばしゃっと湯を顔にかけた。
「おい、しっかりしろよ。よく見ろ、俺だぞ? 絶対に気の迷いだから安心しろ」
 ラギスはうんざりしたようにいった。だが、オルフェもジリアンも、複雑そうな顔をしている。オルフェは視線を逸らすと、ジリアンを見ていった。
「君は平気なのか?」
「平気というわけでは……ですが、慣れるものですよ。あとは気合いです」
「すごいな君は。私はちょっと頭を冷やしてくる」
 そういって、オルフェはふらふらしながら水風呂の方へ歩いていった。不安に駆られたラギスは自分の腕の匂いを嗅いでみた。しかし、自分では何も感じない。
「……匂うか?」
 ラギスが声を落として囁くと、少年はさっと頬を染めた。
「少し……屋外だと蒸気が消えるので、ラギス様の香りが際立つようです」
「うーむ……」
 周囲を見回せば、熱の籠った瞳を向けていたことを誤魔化すように、さっと視線を伏せるものが相次いだ。
(おいおいおい……)
 うんざりしてラギスは浴槽をでた。着替えて外にでると、壁にもたれてロキが待っていた。少し経ち、最後にオルフェがでてきた。
「待たせたかい?」
 ラギスは肩をすくめてみせた。
「そうでもない」
「そうか、君が一人で待っていなくて良かったよ」
 安堵のため息をつく青年を見て、ラギスは肩眉をひそめた。
「あ?」
「よく判ったよ。君には、護衛が必要だってね」
「何いってる。風呂で頭まで湯であがっちまったのか?」
「本当にそう思うんだよ」
「ふん、俺はこれでも最強の剣闘士のつもりなんだがな」
 オルフェは弱ったように頭を掻いた。
「もちろんそうなんだけど……」
 やりとりを見ていたロキは、やれやれ、とため息をついた。
「聖杯も難儀だな。もう大衆浴場にいくのはやめておいた方がいいんじゃないか?」
「まぁ、次は遠慮しておく。混んでるし、じろじろ見られて落ち着かないしな」
 オルフェは苦笑いを浮かべた。
「すまないね。疲れてしまったかい?」
「いや、なかなか面白かったぞ。汗を流してさっぱりしたし、一杯飲んでいくか」
 とりなすようにラギスが提案すると、ロキは困った表情を浮かべた。
「いや、すぐに城に戻るべきだ。さっき伝令がきて、大王様のお召だといっていたぞ」
「うげぇ」
 露骨に顔を顰めるラギスの肩を、ロキは励ますように叩いた。