月狼聖杯記

4章:月光の微笑 - 8 -

 六月、夏の盛り。
 王は百あまりの小隊を率いて、山間の向こう、ネロアへと出立した。
 詳細は知らないが、交易の為だろうとラギスは思っていた。
 三年ほどネロアの闘技場で剣闘士をしていた経験があるので、平原の都市、ネロアについてある程度知っている。
 毎年夏になると、北の霊峰ネヴァール山脈に暮らす山岳部族は、ネロアまで行商にやってくるのだ。彼等は手に入りにくい高山の品々を多くとり揃えており、北の動向を知る、貴重な情報源でもある。
 シェスラのいない間、ラギスは剣の練習をしたり、アミラダから言葉を教わって過ごしていた。文字はかなり読めるようになった。今はセルト国の歴史書を与えられている。
 本から学ぶことは多い。
 数百年続く王家の歴史に、ラギスは驚きを隠せなかった。
 今でこそ絶対的な立場に君臨しているが、シェスラの子供時代は、なかなか壮絶だ。
 彼の華々しい功績を見ると、判を押したような順風満帆な狼生と思いがちだが、実際はかなり波乱万丈だ。
 覇権争いで母と兄弟を失い、父王亡きあと、十歳にして権力の傀儡に祭りあげられている。
 帝国に野蛮といわれる所以の一つでもあるが、月狼の王位は血筋による継承ではなく、力ずくで奪いとるものだ。基本的に嫡子、非嫡子といった考え方はない。
 その時代、群れで最も力のある月狼が王、或いは女王になる。
 幼王シェスラは、十五歳で牙を剥いた。
 内乱で、摂政を筆頭にして、名だたる幕僚が大量に姿を消している。
 記録を読むだけでも、過酷な少年時代であったことはうかがえる。才覚でのしあがるまで、相当な地獄を見たはずだ。
(……あいつも、殺してやりたいほど憎い相手がいたのかな)
 激する感情は、抱えているだけで疲弊するものだ。
 冷厳としている彼にも無力な子供時代があった。力の抑圧に、どのように立ち向かっていったのだろう?
 アミラダの部屋で教養を師事する際、ラギスはそれとなくシェスラの過去を訊ねてみた。
「ばーさん、あいつの子供の頃を知っているか?」
「……お主達は、もう少し話しをすべきだな」
 アミラダは少々呆れたようにいった。彼女は、ラギスの文字の練習を見る傍らで、古文書や薬草学書を広げ、数十種類もの薬草を精妙に調合している。
「ところで、さっきから何を作ってるんだ?」
「秘密とまがつ奇跡の結晶さ」
「は」
「猛毒だよ」
「……何に使うんだ?」
「攻城兵器さ。大王様に頼まれていてな」
 ラギスは鼻で嗤った。
「そんなもので敵を倒せたら、誰も苦労しねぇよ」
「一雫垂らせば、一個隊を滅ぼす死の息吹となる。試してみるか?」
 緑色の液体の入った小鉢を向けられて、ラギスは顔をしかめた。
「物騒なばーさんだな」
 アミラダは意味深長にほほえんだ。ややしてから、大王様は、と思いだしたように口を開いた。
「……母思いの優しい子供だったよ。だが、生き残る為に冷酷にならざるをえなかった。お主が闘技場で生死を懸けていたように、大王様は王城ここで闘っておられた」
「母親か……」
 その声には懐かしむ響きがあった。アミラダは手を休めると、白に近い銀色の瞳でラギスを見つめる。
「……私も、昔は怒りと憎しみに満ちていた。そのせいで大罪を犯して、大切なものを失くしたことがある」
 老いてなお美しい女は、叡智の瞳を半ば伏せ、複雑奇妙な影を顔に落とした。
「何をやらかしたんだ、ばーさん」
「遠い昔に、水霊族の男と恋に落ちてね。添い遂げようとしたが、混血を嫌う水霊族に恋人を殺された。嗟嘆さたんは復讐の焔となり、悪魔に魂を売り渡してしまった」
 ラギスは驚きに目を瞠った。
「ばーさん、水霊族の恋人がいたのか」
「綺麗なひとだったよ。私も若い頃は美貌でね、お互いを一目見た瞬間に、恋に落ちたのさ」
 老いてなお美しい横顔から、彼女の若かりし頃の美貌はたやすく想像がついた。
「……復讐は果たせたのか?」
「果たしたよ。けど、そのために自ら課した制約で、簡単には死ねなくてね。後ろの二人も、心を手放すことになってしまった」
「……心? 魔性じゃないのか?」
 アミラダは、背後に立つ少年達を見て目を細めた。
「綺麗な双子だろう? 恋人の忘れ形見だよ。私の復讐の犠牲になってしまった、かわいそうな子供達さ」
 ラギスは仰天して、まじまじと女と子供を見比べた。
「ばーさんの子供かよ」
「禁断の呪術に手をだした代償に、私は若さを、子供達は心を喪った。もう千年も同じ姿で生き永らえている」
「千年?」
 ラギスは頓狂とんきょうな声で鸚鵡返した。
 アミラダは失われた世紀の涯てまで見透すかのように、遠い虚空にじっと目を凝らし、
「千年だよ」
 と、繰り返した。思慮深い眼差しでラギスをじっと見つめる。
「幾星霜もの間、負の感情を抱えていることはできない。往時おうじ、抱いていた憎しみや怒りはとうに褪せたよ」
「……」
「ラギス、復讐は虚しいものだよ。何も残らない、渇きが増すだけさ」
 静かな賢者の言葉に、ラギスは黙って視線を伏せた。
「お主は若い。展望がある。王と並んで、歩いていけるんだよ」
 ラギスの手の上に、皺がれた暖かな手が乗せられた。
「……あんたに、救いはないのか」
 アミラダは優しくほほえんだ。
「お主と王の未来が視える。悪くないよ。久しぶりに、毎日が少し愉しいのさ」
 硬くて厚い手を、肉の薄い手でぽんぽんと軽く叩いてから、アミラダは手を離した。小鉢を引き寄せて、妖しげな毒薬の生成に戻る。
 彼女と、人形のように美しい少年達を見て、ラギスは自問した。
 彼女のいうように、復讐以外の生き方があるのだろうか……
 過去に決別し、まっとうな月狼として、生きていくことができるだろうか?
 あの夜から、未来に希望を持つことはなかった。
 望めば手に入るのだと諭す言葉に、耳を傾けようともしなかった。
 けれど今は、迷っている。
 復讐を忘れて、未来に手を伸ばせるのか。そうすべきなのか――遥かなる狼生の岐路に立たされているような気がした。