月狼聖杯記

4章:月光の微笑 - 1 -

 夜明け前である。
 ラギスが眠りから醒めた時、部屋の中ほどに仄白い明りが射しこんでいた。
 妙に頭がはっきりしていて、再び目を閉じても眠れそうにない。しとねを抜けだすと、ラギスは上着を羽織って露台にでた。
 仄白い空を仰いで、深呼吸をする。
 城の人間はまだ眠っている。
 壁を伝って地上に降りると、気配を殺して、ロキが歩哨ほしょうに就いている東の城壁を目指した。
 早いもので、城へきて四ヶ月が経とうとしている。
 城塞の最深部にいても、うまく人目を誤魔化す方法、抜け道を見つけていた。
 茫漠の空にきざす淡い曙光しょこうが、石造りの城壁を照らしている。
 壁をよじ登って鋸壁きょへきに立つと、心地よい涼風に吹かれた。
「どこの刺客かと思ったぞ」
 暗がりから姿を現したラギスに気がついて、ロキは呆れたようにいった。
「よう」
「また抜けだしてきたのか」
「土産だ」
 黄金の酒瓶を見せると、ロキは苦笑を浮かべた。
「ありがたいが、俺はこれでも歩哨に就いているのだがな」
「誰も襲っちゃこねぇよ」
「お前がいうなよ……厳戒態勢を敷いているが、油断はできん。人目を忍んで賊がやってくるかもしれん」
「こんな時間に?」
「反対勢力の動きが活発になっているからな」
 ラギスは軽く頷いた。
 シェスラは大戦に向けて資金繰りを進める傍らで、各家門の族長達との外交に力を注いでいた。
 詳細は公表されていないが、ラピニシア攻略を目的にしていることは明らかだ。
 反シェスラ派は、王の失脚を望んでいる。
 先日のラギスを狙った不沈城グラン・ディオ事変もその一端だ。
 彼等は凄惨な同志の末路に怯み、真昼間のドミナス・アロで騒動を起こす真似はやめたが、王への不満をぶつける集会はやめなかった。だが、耳を貸す者はごく一握りしかいない。
「反対派の集会なんざ、シェスラは痛くも痒くもない。暗殺でもしない限り、あいつを止めることはできないぜ」
 ラギスはいった。
 反対勢力の活動は、はっきりいって裏目にしかでていない。
 彼等が声高に不満を叫ぶほどに、シェスラの人気が不動であることを印象づけてしまうのだ。
 民衆の圧倒的な支持を集め、貴族院の評判も高いシェスラが聖地攻略を為せば、英雄の名は神格化する。大陸制覇に王手をかけることになる。
「王の人気はもちろんだが、お前が不沈城に召しあげられたことで、拍車がかかったのさ」
 ラギスは憮然とした表情を浮かべた。
「癪に障るぜ」
「なにせ、奴隷あがりの聖杯だからな。民衆の好む恰好の英雄奇譚ってわけだ」
「勘弁してくれ」
 ロキは少し笑ってから、真面目な顔をした。
「ところで、ここにきていることを王は知っているのか?」
「知るわけないだろ」
「やれやれ……俺は間男を疑わるのはご免だぞ」
「は」
「王に嫉妬されたら、命も危うくなるからな」
 顔をしかめるラギスを見て、ロキは自棄を起こしたように酒を煽った。
「自覚がない奴は困る」
「……ふん。馬鹿をいえ」
 星々の薄れた夜明けの空を、二人は黙って眺めた。
 空は刻一刻と明るくなり、豊かな色合いの光に包まれている。
 なぜ、この男に会いたくなるのか、ラギスにはなんとなく心当たりがあった。
 何もかも一変してしまったラギスの世界で、ロキは不偏の象徴なのだ。
 彼の本質は、闘技場にいた頃と変わらない。
 毅然と前を向くロキを見ていると、毎回、不安定な精神が凪いでいくの感じる。
「暇なら、錬兵場にこいよ」
 ロキの言葉に、ラギスはかぶりを振った。
「騎士の真似事なんざ、やってられるか」
「剣の鍛錬をしろってことだ。せっかくの腕が鈍るぞ」
「……」
「ここなら、剣を師事する相手には事欠かさない。いい経験になると思うぞ」
「気が向いたならな」
 そういって背を向けると、いくのか? と声をかけられた。
「またくる」
「錬兵場にこい」
 後ろを向いたまま手を閃かせ、ラギスは城壁を下りた。
 きた道をひき返し、露台を登って部屋に入ると、不機嫌そうに壁にもたれているシェスラが待っていた。
 ぎくりとしたが、ラギスはなんでもない風を装って上着を脱いだ。
「……遅かったな。どこにいっていた?」
 低めた声で、不機嫌そうにシェスラが問うた。
「外の空気を吸っていただけだ」
「こんな時間に?」
「目が醒めたからな」
「ロキの所か?」
「……」
 何も疚しいことはしていないはずなのに、正体不明の後ろめたさに襲われた。
「褥を共にするほどとは、仲が良いな」
「何いってやがる」
 呆れたようにシェスラを見ると、針のような視線に射抜かれた。
「違うのか?」
「当たり前だ。向こうは城壁の上で歩哨しているんだぞ」
「では人目を忍んで逢瀬を愉しんでいたわけか」
「……どうかしてるぜ。寝直すから、でていけよ」
「私を追い払えるとでも?」
「なら、俺がでていく」
 苛立たしげにでていこうとするラギスの腕を、シェスラは掴んで引き留めた。引き寄せられて、頬を掌に包まれる。拒む間もなく唇を重ねられた。
「――ん」
 驚いで離れようとするが、腰を強く引き寄せられた。
 腕の強さや荒々しい唇が、怒りと所有欲を伝えてくる。唇を強引に割られ、舌を挿し入れられそうになり、ラギスは顔をもぎ離した。
「……よせっ」
 峻烈な青い瞳と視線がぶつかる。シェスラは濡れた唇を拭うと、ラギスに迫った。吐息が触れるほど近づく。
「今度、護衛をつけずに黙って抜けだしたら、そなたが何といおうと抱く。相手は殺す」
 声に本気を嗅ぎ取り、ラギスは顔をしかめた。
「何を疑っているのか知らんが、ロキとはそんなんじゃねぇよ。考えたこともないぜ、気色悪ィ」
 鳥肌の立つ腕を摩り、露骨に嫌悪するラギスを見て、シェスラは訝しげに眉根を寄せた。
「……本当だろうな?」
「俺を聖杯扱いするのは、あんたしかいねぇよ」
「ふん」
「……というか、なんだってこんな時間にいるんだ?」
「先ほどまで、斥候せっこうから報告を受けていたのだ。疲れを癒そうとそなたの元へきてみれば、褥は冷たくなっている……私がどれほど落胆したか判るか?」
 苛立った口調にラギスは内心で怯んだ。動揺したことを悟られまいと、厳めしい顔をつくる。
「知るかよ。発情は終わったんだ。一緒にいる必要はないだろ」
「隣で眠りにつきたかっただけだ」
 なんともいえぬ沈黙が流れた。
「……あのよ」
 いいかけて言葉を切るラギスを、シェスラはじっと見つめてきた。なんでもない、とかぶりを振ると、腕を掴まれた。
「なんだ? いってみろ」
「……練兵場で、剣を振ってもいいか」
「ほぅ?」
「躰を動かしたい。このままじゃ腕が鈍る」
 シェスラは納得したように頷いた。よかろう、と鷹揚に応えると、苛立ちを霧散させてほほえんだ。
「そなたがいるなら、私も今度様子を見にいこう」
 今度はラギスが顔をしかめる番だった。
 もういいな、とシェスラは会話を切ると、ラギスの腕を掴んで寝台に引っ張りこんだ。
「おい……ここで寝る気かよ」
「よかろう? 疲れているのだ、休ませてくれ」
「一人で寝ろよ」
「煩い。ロキがどうなってもいいのか?」
 相変わらず尊大な態度だが、シェスラはどこか拗ねたような、奇妙な口調で脅した。
 反論する気力を削がれ、ラギスも背を向けて寝に入った。
 シェスラはしばらく、ラギスを逃がさないとばかりに腰に腕を回していたが、間もなく腕の力を緩めた。どうやら、本当に疲れているらしい。
 静かな寝息を耳にするうちに、ラギスも緩やかな眠気に襲われた。ただ並んで眠る行為に疑問を抱いたが、考えるのが面倒になり、思考の隅に追いやった。