月狼聖杯記

3章:魂の彷徨い - 7 -

 不沈城グラン・ディオにきて、二ヶ月。
 日々を穏便に過ごしていても、ラギスは決して復讐を忘れたわけではなかった。
 最も気懸かりなのは、次の発情だ。
 口では抱かないといっていても、発情で頭の螺子が緩んでいる状態のラギスを見たら、王も気が変わるかもしれない。
 今度こそ、孕むかもしれない。
 考えるだけでも身の毛がよだつ。
 圧しかかるような恐怖は、ラギスのなかに燻る復讐の焔をきつけた。
 思いだせ――どんな目にあった?
 故郷と家族を奪ったかたきに、聖杯にさせられた。つがいうそぶき、子を孕めと尻に精液を注ぎこまれた。
 これほどの屈辱と絶望があるものか。
 故郷を焼き払い家族を殺した相手に、奴隷として扱われ、魂までも辱められたのだ。
(絶対に許すものか。必ず復讐してやる。王を殺してやる)
 声なき声で呪詛を吐きながら、ラギスはじっとその時を待った。
 王のお召しで移動する際、ついに千載一遇の機会に恵まれた。
 居住区の外にでて、外壁に近い、窓辺の廊下を歩かされたのだ。高所だが、外は比較的なだらかな斜面で、獣化すればどうにかなりそうに見えた。
 護衛の一瞬の隙をついて、ラギスは窓の外へ飛びだした。そのまま獣化を試みるが、彼等の反応も早かった。
「――待てッ!」
 慌てた兵士が、鞭をしならせてラギスの尾をとらえた。
「ぐぁッ」
 態勢を崩したラギスは、急斜面に向かって背中から落下した。運悪く巨岩に躰がぶつかり、脳漿のうしょうを揺さぶられた。
「が、はッ」
 血を吐きながら、ラギスの獣化は解けた。視界に盛大に星が散って、何も見えない。
 慌ただしい物音と共に駆けてくる複数の足音を聴きながら、意識は暗闇に沈んだ。

 意識が戻った時には、夜の帳が降りていた。
 見慣れた褥の上で、うつぶせの状態で、手首と足首に枷をつけられていた。
 傍にはシェスラがいて、背中に触れて癒しの霊気を送りこんでいる。
 彼のおかげなのか、背中に痛みを感じない。そう思って起きあがろうとすると激痛が走った。
「うぐッ」
 呻くラギスを見下ろして、
「……そなたにはもう、うんざりだ」
 疲れた顔でシェスラがいった。
「気があうな。俺もだ」
「何度逃げだせば気が済む? 傷をつけたくないのに、いつまで経っても治らぬ」
「俺は逃げることをやめねぇぞ」
「……どうすれば、大人しく私の傍にいる?」
 いつになく、覇気のない声でシェスラはいった。ラギスはちらりと視線を投げると、再び虚空を睨んだ。
「俺を自由にしろ」
「駄目だ」
「なら、殺せ」
「できぬ」
「俺を孕ませてみろ、腹に刃を突き立てて死んでやる」
 血走った目で睨みつけるラギスを見て、シェスラは表情を消した。
「……それほど、私が憎いか」
「自分が何をしたか忘れたか?」
 ラギスは可聴域すれすれの重低音で答えた。
「そなたがどう思おうと、私のつがいであることに変わりはない」
「それだってイカれてるとしか思えねぇが、それ以前の問題だろう」
「何?」
「てめェは俺の故郷を奪ったんだ。全員殺された。俺の両親も兄も小さな妹までな」
「……ヤクソンのことは、今調べさせている。警告はあったはずだ。国を敵に回す覚悟で、従軍に背いたのはお前達だろう」
 淡々と答えるシェスラを、ラギスは忌々しげに睨んだ。
「男を全員連れていかれたら、ヤクソンは越冬できずに餓死するしかないんだぞ」
「全員を求めてはいないはずだ。集落の存続を脅かすほどの従軍は、法で禁じている」
「ヤクソンにきた官吏は、そうはいわなかったぞ。くそッたれの法とやらで、男は子供でも連れてもいくとはっきり脅したんだ」
 眉をひそめるシェスラを見て、ラギスは悪態をついた。
「辺境の集落なんざ、雲の上で坐掻いてるてめェに見えてるのかよ」
「前王の時代は終わった。私の目の届くところで、もうそんな勝手な真似はさせない」
「るせェ、詫びなら俺の故郷と、死んだ家族にいえ。俺は、てめェが土下座したって、赦しはしねぇよ!」
 シェスラは青い瞳に、怒りを燃やした。
「よくも、王に向かってそのような口がきけるな」
「てめェが誰であろうと、関係ねぇ! 紙面の記録で勘定すんじゃねぇよ。俺はこの国にされたことを、死んでも忘れねぇぞ」
 心の底からの魂の叫びだった。シェスラも激昂に駆られ、
「優しくしてやれば、どこまでつけあがるッ!」
「俺が気に食わないなら、今すぐ闘技場に連れていけよ。ぶッ殺してやらァッ」
 シェスラは唸り声をあげた。
「そなたがつがいでなければ、とっくに殺しているッ!」
「おぉッ、ってみろよ!」
 勁烈けいれつな視線がぶつかり、火花を散らした。
 毛を逆撫で、ラギスは横になったまま喉の奥で唸った。シェスラも苛立ったように唸り声を発する。
 一触即発のように空気は張りつめたが、シェスラは覇気をほどいて、己を抑制するように視線を伏せた。長い銀色の睫毛が、憂いのある陰影を美貌に落としている。
「……殺せるくらいなら悩んだりしない。私もそなたが憎い。だが、そなたを失うことの方が恐ろしいのだ」
 シェスラは、ラギスに烈しい怒りを覚えながら、同じくらい欲望を抱いてしまうことに苛立っていた。膨れあがる感情を制御できないのも初めてのことだ。
「理解できねぇ。百歩譲って俺が聖杯だとしても、お前のつがいはない。俺はお前を殺そうとしているんだぞ」
 シェスラは憂慮を振り払うようにかぶりを振った。
「自分でも愚かしいと思っている。どんな美姫でも手に入るのに、なぜ、よりによって、そなたでなければならないのか……」
 愁眉をよせるシェスラの美しい顔を、ラギスは忌々しげに見つめた。
「ごちゃごちゃ面倒くせぇ。大王様、俺と勝負しろよ。どっちかが死ぬば、すっきりするだろ」
 シェスラは頭痛をこらえるように、こめかみを抑えた。
「その短絡的思考をどうにかしろ。聖杯を否定しても無駄だ。共に生きようとは、少しも思わないのか?」
「反吐がでる」
 王の眼差しに憎しみが灯る。ラギスも増悪をこめて、めつけた。
「……どうすれば、傍にいるかと訊いたな」
 ぞっとするほど低めた声に、シェスラは眉をひそめた。金色の瞳には、煉獄の焔めいた昏い輝きが揺らめいている。
「俺と同じ苦しみを味わえ」
「何?」
「この国を焼き払って、大切だと想う者を全員殺せ。そのあとで、俺の目を見て、もう一度同じ台詞をいってみろよ」
 陰惨な呪詛の言葉を、シェスラは表情を変えずに受け留めた。
「私怨で国を滅ぼせるわけがなかろう」
 唇から零れる声も、表情と同様に冷静なものだ。
「てめェが俺をつがいにしようってのも、相当な無理だぜ」
「なぜ拒む? そなたも私に惹かれているはずだ」
「てめェをつがいだなんて、これっぽっちも思わねぇよ。俺のなかにあるのは、故郷を滅ぼされた恨みと、番にさせられた屈辱と怒りだけだ」
「私を殺せば、それで満足するのか?」
「ああ」
「そのあとはどうする? 私を殺せば、そなたは最も残酷な方法で処刑されるだろう」
「脅そうったって無駄だぜ! 十七年も前から、俺は想像のなかで、何度もあんたを殺してきたんだ。今更処罰にびびって、躊躇ったりしねぇよ」
 沈黙が流れた。二人共、黙ったままでいた。やがてシェスラは疲れたようにため息をついた。
「もういい……今夜はもう十分だ。そなたと話していると、頭痛が酷くなる」
「気があうな。俺もだ」
 シェスラは氷のような一瞥をラギスに向けた。彼にしては珍しく、口汚く罵りながら部屋をでていこうとする。
 銀色の髪を揺らす背中に向かって、ラギスもありったけの罵詈雑言を喚き散らした。