月狼聖杯記

3章:魂の彷徨い - 5 -

 昼過ぎ。ラギスは城内の練兵場を訪れた。
 ロキはすぐに見つかった。磨きあげた黒檀のような肌の大男は、嫌でも目につく。どうやら、剣技の基礎ともいえる型を復習しているらしい。
 ドミナス・アロの闘技場にきてから、毎日のように一緒に稽古をしてきたから、互いの癖は知り尽くしている。
 ロキはずば抜けて強いが、左に重心を預けすぎる弱点ともいえる癖があった。
 初見では先ず見抜けない癖だ。
 ラギスも彼の剣術を何度か見るうちに気がついた。指摘したこともあるが、彼は判っていながら直そうとしなかった。下手に型をいじって、生死をかけた場面で命を落としくなかったのだろう。
 だが、じっくり剣技を見つめ直す時間ができたので、長年の癖を見つめ直す気を起こしたらしい。
 彼は一心に剣を振っていたが、やがてラギスの視線に気がついて顔をあげた。
「――見ていたのか」
「ああ」
 汗を拭きながら、ロキはラギスの方へやってきた。
「見学したいなら、堂々と見ていけばいいだろう? こんな隅でどうした」
「目立つのはご免だ」
 こうして話している今も、四方から視線を感じる。居心地の悪そうなラギスを見てロキは笑った。
「すっかり有名人だな。大王様の寵愛をほしいままにしているって噂だぞ」
「うるせぇよ」
「不満そうだな」
「当たり前だろ。俺は王に恨みがあるんだ」
「召しあげられたってのに、お前は相変わらずだな」
 ロキは呆れたようにいった。
「ふん……騎士になったんだな」
「ああ。前線に志願したら、騎士団に配属されたんだ」
「奴隷剣闘士がよく騎士団に入れたな」
「上層が炯眼けいがんで助かる。あとはラギスのおかげだ」
「俺?」
「あの日に運命が変わったんだ」
 そういって、ロキは思案げにラギスを見つめた。
「少し痩せたな……大王様のつがいという噂は本当なのか?」
「ちげぇよ、あいつが勝手にいっているだけだ」
 舌打ちするラギスを見て、ロキは目を瞠った。
「あいつって……まさか、大王様のことか?」
「他に誰がいるんだよ――てッ」
 軽く頭をはたかれて、ラギスは不服げにロキを睨んだ。ロキは慌てたように前後左右を確かめてから、ラギスの方に顔を寄せた。
「こんな所で滅多なことを口にするな。誰かに聞かれてみろ、首が飛ぶぞ」
「ヘッ、今更だな」
 暴言どころか、唾を吐く、殴る、蹴る、噛みつく、斬りかかるの不敬の極みを一通りやっている。
「お前、今まで何やってたんだ?」
「……いいたくねェ」
 苦虫を潰した顔でラギスが沈黙すると、それ以上は追及せずに、ロキは引きさがった。
「姿を見かけなかったから、心配してたんだ」
「まぁな」
 ラギスは言葉を濁した。
 ついこの間まで、脱走を繰り返しては監禁されていたので、ロキと顔をあわせる機会もなかった。
「これからどうするんだ?」
「こんなとこ、でていけるならでていきてぇけどよ……」
 ラギスが頭をかりかりかきながら、視線をめぐらせると、ロキもその視線を追いかけた。少し距離を置いたところに、ラギス専属の護衛が立っている。
「えらく気に入られているんだな」
 ロキは肩をすくめていった。
「ったく、勘弁してほしいぜ」
「お前も望めば、騎士になれるんじゃないか?」
「もう断った」
 ロキは目を丸くした。
「なんで?」
「誰が騎士なんざやるかよ。第一、俺はあいつを殺したいん――」
 ロキは焦ったようにラギスの口を手で塞いだ。誰かに聴かれやしなかったか辺りを警戒してから、ラギスに鋭い視線を戻した。
「その口の悪さをどうにかしろ! そのうち死ぬぞ」
 ラギスは顔を寄せると、声を抑えて囁いた。
「いっておくが、あいつは控えめにいっても、最低最悪のくそ野郎だぞ。死んでも騎士は御免だ」
 ロキの唇が、ぴくっとひきつった。頭痛を堪えるように、こめかみを指で押さえている。
「そんな台詞を他所で零すんじゃないぞ」
「ふん……そうしていると、本物の騎士に見えるぜ」
 しみじみというラギスを見て、ロキはにやっと笑った。
「俺は今、騎士団で多くを学んでいる。剣にしてみても独学とは違う。体系立てて学べる環境は素晴らしいな」
「ふん」
「どうだ、ラギスも訓練してみないか?」
「何?」
「学ぶことは多いぞ」
 ラギスは顔をしかめた。
「騎士なんざ、やらねぇよ。必要もない」
「確かにお前は強いよ。だが、驕りは剣を鈍らせるぞ。俺も最近身に沁みている」
「……癖を直しているのか」
「ああ。いい機会だからな。目を瞑ってきた癖なんかも、見直している」
「そうか」
「お前も騎士になるかはおいておいて、鍛錬に参加してみるといい」
 顔をしかめるラギスを見て、ロキは真面目な顔でいった。
「覚えておいて損はないぞ。環境を活かせ。牙を研ぎ澄ませ――闘技場にいた頃と同じだ」
「……闘技場か。俺は確かに剣闘士だった。だが、今はどうだ? 自分が何者なのか、よく判らなくなってきている」
 悄然と呟くラギスの肩を、ロキはぽんと叩いた。
「大海に目を向けろ。無情な命の取りあいから、解放されたんだ。得られるものは大きいはずだ」
「……そうは思えん。あの頃と今と、どっちがマシかと訊かれたら、俺は間違いなく前者だと答える」
「それはどうかと思うぞ。あんなのは只の殺しあいだ。これからは違う。真に立身を望める」
 ロキはかぶりを振りながらいった。
「あんたはな」
「お前だって望めるはずだ。幸運を祈っているよ――親友」
 親友という言葉にラギスは驚いた。いった本人をまじまじと見つめる。ロキは白い歯をこぼして笑った。
「二人共、生きて闘技場をでられたんだ。もう、殺しあわずに済むんだ。お前を殺さなくていいんだ。なら、親友になるしかないだろう?」
「……そうだな」
 胸に暖かなものが流れて、ラギスは久しぶりに少しだけ笑った。
「そろそろ歩哨ほしょうに就かないと。またな、ラギス」
 立ち去っていく迷いのない背中を、ラギスはしばらく見送っていた。