月狼聖杯記

3章:魂の彷徨い - 4 -

 死の縁から生還を果たして、一ヶ月。
 ラギスの待遇は飛躍的に改善された。
 格子窓のついた部屋ではなく、露台にでて、自由に空を仰げる部屋に移されたのである。逃げだす体力が戻っていないこともあるが、首輪と手足の枷も外された。閨を強要されることはなくなり、辟易していた媚香も部屋に焚かれることはなくなった。
 料理人がラギスの好む味を覚えたようで、当初に比べたら、素朴な料理に変わった。(それでも、卓には瑞々しい薔薇が活けられ、庶民では先ず手に入らない、数十種類もの香草が並んでいたが)
 自由に動ける範囲も、拡がった。
 城内の最深部、王の居住区と一部の共用施設に限り、護衛を連れていれば自由に歩くこと許されている。
 王は変わった。
 目が醒めてから、まだ一度も無理強いをされていない。夜に訪ねてこなくなったのだ。そのせいもあって、昼に彼が部屋にやってきても、以前ほどには絶望を感じない。
 ある日、ジリアンを連れて廊下を歩いている時にシェスラと鉢あわせた。彼の後ろには、凛々しい騎士服を纏ったアレクセイとラファエルもいる。
 咎められるかとラギスは躰を強張らせたが、シェスラはほほえんだ。
「お早う」
「……他の二人はどうした?」
 なにげない口調で問うと、哨戒しょうかいにでている、とシェスラは端的に答えた。
「そなたは、どこへいくつもりだ?」
 ラギスの顔が緊張に強ばる。
「咎めているわけではない。私の居住区であれば、自由に歩いてよい」
「いいのかよ」
「構わぬ。今度、練兵場を覗いてみるといい。ロキもいるぞ」
「ロキ?」
「そうだ。騎兵隊に編成されたから、昼は城内で鍛錬しているはずだ」
 意外な思いで、ラギスは目を瞬いた。ロキが騎兵隊に配されたということも驚きだが、平の兵士に関して、わざわざシェスラが報じてきたことにも驚いた。
「気分転換になるだろう」
 どういう肚積もりかと疑ったが、シェスラは平常通り、むしろ機嫌が良さそうに見えた。
「……ところで、風呂には入っているか?」
「覚えてねェな」
 てっきり自分が悪臭を放っていると思って、にやっとラギスは笑ったが、シェスラの熱の籠った瞳を見て、笑いを引っこめた。
「甘い香りがする」
「……おい」
 一歩を詰められて、ラギスは後じさった。
「ふふ」
「寄るんじゃねぇよ」
「そなたの臭いに、そこら中の男が引き寄せられであろうな」
「何だと……」
「自分が聖杯であることを、もう忘れたのか?」
 ラギスは訝しげに、自分の腕の臭いを嗅いだ。どうとも感じず、怪訝そうな顔のままシェスラを見る。
「自分では判るまい。だが、雄を引き寄せる匂いだ。それが嫌なら、毎朝、石鹸で躰を洗え」
 ラギスはうんざりしたあと、ふと気になったことを口に乗せた。
「……あんたは、毎朝風呂に入っているのか?」
「どう思う?」
「は」
 ラギスは訝しげな顔をした。
「ほら……確かめてみればいい」
 腕を伸ばされ、ラギスは少し仰け反ったが、仄かに香る魅惑的な香りに鼻孔を膨らませた。
「……臭くはねぇけど」
「そなたは、どう感じる?」
「別に」
「何も感じない?」
「……臭くはねぇって」
「なら、好きか?」
「は」
 居心地が悪くなり、ラギスはそっぽを向いた。
「湯浴みは嫌いか?」
「好きな奴の気が知れねぇよ」
「ほぅ?」
「巷じゃ大衆浴場が流行っているらしいが、理解不能だ。あんなに躰に悪いことを、よく金払ってまでする気になれるな」
「ほぅ? 躰に悪いのか?」
「当たり前だ。知らねぇのか?」
「知らぬな」
「火傷する危険があるし、臭いつけもできなくなる。石鹸の臭いなんぞ漂わせてみろ、他の臭いを察知できずに、あっという間にられるぞ」
 大真面目にのたまうラギスを見て、シェスラは小さく噴きだした。
「……なるほど?」
「常識だろ」
「ふっ……だが、匂いを抑えねば、他の雄につけいれられるぞ」
 熱のこもった視線が背けた頬に突き刺さる。よっぽど黙殺しようかと思ったが、ラギスは頭をがりがりと掻いて、唸った。
「……今度から入る」
「うむ。そなた専用の浴室だ。自由に使うといい」
 シェスラは満足そうに笑った。
「……本当に、城内を自由に歩いていいのか?」
「うむ」
 シェスラは即答したが、ラギスはまだ半信半疑だった。
「広いからな。ジリアンに案内をしてもらうといい」
「……」
「夜は共に食事しよう。何を見たか、話を聞かせてくれ」
 顔を強張らせるラギスを見て、シェスラは淡く笑んだ。
「そういう意味じゃない。そなたの赦しなく、触れるつもりはない」
 正気を疑うような眼差しを向けられて、シェスラは自嘲めいた笑みを浮かべた。そなたを失うのは嫌だからな、とつけ加える。
「……本気か?」
「約束しよう。発情がきても、閨を強要するつもりはない」
 ラギスは薄気味悪いものを見るように、シェスラを見つめた。彼は頓着せず、またな、といってラギスの前を平然と通り過ぎた。