月狼聖杯記

3章:魂の彷徨い - 2 -

 天蓋を仰いでいると、何者かの近づいてくる気配が感じられた。
 王だ。
 香りが強まるにつれて、ラギスの躰は強張っていった。クッションに背を預けて身構える。部屋に入ってきたシェスラは、奇跡を目の当たりにしたかのように、ラギスを見て目を見開いた。
「ラギス」
 驚いたことに、彼は寝台の傍に駆け寄ってきた。腰を屈めて、茫然としているラギスの頬を撫で、額に唇を落とす。信じられないほど優しい仕草だった。
「触るな」
 ラギスは我に返って、手で振り払おうとしたが、大した力はでなかった。
「動くな、傷に障る……そなたは十四日も目を醒まさなかったのだ」
 水晶の瞳の奥に、深い安堵のような、或いは一杯の水を求める遭難者のような、かつえる光がうかがえた。
 馬鹿な――ラギスは顔をしかめて疑問を捻じ伏せた。
 シェスラは、慣れた仕草で繻子を張った椅子を引き寄せると、腰をおろして純銀の水差しを傾けた。
「飲め」
 渡された杯の中身を覗くラギスを見て、シェスラは小さくため息をついた。
「ただの水だ」
 ラギスはちょっと躊躇ってから、口をつけた。喉に流しこむと、生きかえった心地がした。飲み干してから、はっとして腹を見下ろすと傷はやはり塞がっていた。皮膚は再生して、朱く引きつった痕しか残っていない。
 困惑しているラギスを、シェスラは水晶の瞳でじっと見つめている。
「傷は良くなってきたが、完治はしていない。体力も落ちているはずだ。待っていろ、消化の良い食事を用意させる」
 穏やかな気遣いの滲んだ口調に、ラギスは眉をひそめた。戸惑いを感じとっているであろうシェスラは、何もいわずに部屋をでていった。
 間もなく戻ってくると、湯気の立つ器を乗せた盆を手にしていた。彼自ら給仕するとは思っておらず、ラギスは面食らった。
「おい……」
「これなら、弱った躰でも飲めるだろう」
 妙に慣れた仕草で寝台の傍に卓を寄せて、真鍮の盆を乗せる。冗談ではなく、本当に給仕をするつもりらしい。
「……正気か?」
 ラギスは、不気味なものを見るように顔を強張らせた。
「無論」
「俺に、給仕するのか?」
「そうだ」
「お前が?」
「そうだが?」
 匙をすくう手つきを見て、ラギスは喉をうならせた。
「自分で食べる。よこせ」
 匙を奪い、汁を一口喉に流しこむと、腹の底がカッと燃えるように熱くなった。
 馴染みのある味だ。
 不思議だが、寝ている間もこの汁を口にしていた気がする。腹に食料を流しこんでも、心配していた内臓の痛みはやってこない。
 少しの汁と蜂蜜酒は、あっという間にラギスの胃に納まってしまった。
「……おい、もっとまとまな食事はないのか?」
 奴隷宿舎にいた時でさえパンは毎食あったのに、これはそれ以下だ。不服げなラギスを見て、シェスラはかぶりを振った。
「胃が弱っているのだ。一度に、多くを食べてはならぬ」
 ラギスは舌打ちをした。これっぽっちの食事では、少しも胃に溜まらない。
 この傲慢な王は、ラギスを生かすと見せかけて、実は餓死させるつもりなのだろうか?
 悪態をついていたが、彼の指摘はその通りだったようで、吐き気と共に、流しこんだばかりの汁が喉をせりあがってきた。慌てて嚥下すると、諦めて器を卓に置く。
「……もういい」
 シェスラは黙って器を片付けた。
 決死の覚悟で腹を刺したのに、再び目を醒まして、食事をしていることに、ラギスの胸に遣る瀬無い念がこみあげた。
「どうした?」
 黙すラギスを見て、シェスラが問うた。
「……俺はどうなる?」
「どうとは?」
「お前を殺そうとしたんだぞ」
「そうだな」
「咎めないのか?」
「今更だな」
 淡々とした返しが勘に触り、ラギスは針のような眼差しを向けた。
「俺は本気だった。刺し違えてでも、お前を殺るつもりだった」
「判っている」
「そうかよ。てめェは自分を殺そうとした相手を、十四日間も生かしておいて、食事を与えて、元気になったら、また組み敷くっていうのか」
 憎悪の眼差しで睨みつけるラギスを、シェスラは静かな眼差しで見つめ返した。
「……もう、無理に抱くつもりはない」
「!?」
 ラギスには信じられなかった。この男に、これまでどれほどの無理を強いられてきたか、数えあげればきりがない。
「躰を休めろ」
「何のために?」
「そなたのために」
「どういう魂胆だ? 何を考えていやがる」
「……信じられないかもしれないが、私はただ、そなたを癒したいだけだ」
「は」
「……まだ死にたいか?」
 物憂げな美貌を仰いで、ラギスは正気を疑うかのように眉をひそめた。
「てめェの子を孕むくらいなら、何万回でも死んでやるよ」
 忌々しげに吐き捨てると、シェスラは瞼を半ば伏せた。銀色にけぶる睫毛が、形容し難い陰影を顔に落としている。
「……もう、目を醒まさないかと思った。眠っているそなたを見て、私は――」

 シェスラはその先を躊躇うように、言葉を切った。
 その控えめな様子に、ラギスは眉をひそめた。妙なことだが、彼の本心からくる言葉のように聞こえる。
「いっそ、目醒めなけりゃ良かったんだ」
 ラギスが悪態をつくと、王の顔に深く神秘的な陰影が射した。重々しい沈黙のあとに、彼は顔をあげた。ゆっくりと席を立つ。
「……休むといい」
 扉は、静かな音を立てて閉められた。
 一人になると、ラギスは天蓋を見つめながら、途方もない無力感に襲われた。
「……ちきしょうッ」
 何も変わらなかった――殺すこともできず、死ぬこともできず、ここを抜けだすこともできない。
 なぜ、黄泉よみじを渡れなかったのだろう?
 こんな現実に戻ってくるくらいなら、二度と目醒めたくなかった。