月狼聖杯記
2章:饗宴の涯て - 10 -
驚異的な回復力で、ラギスの外傷は早々に塞がったが、熱が引けても意識は戻らなかった。
その間、シェスラは献身的に世話をした。
静かに眠る番 の隣に侍り、躰のどこかに触れて、ひたすら霊気を送り続けた。
飢えと渇きでこと切れぬよう、日に何度も、温めた汁を口から流しこんだ。
皮膚が痛まぬよう、一日おきに躰を清めて、向きを変えさせ、命を繋ぎとめるために、何度も声をかけて……
今だかつて、これほど自分を無力と感じたことはない。
神をも拉 ぐ月狼の王 として、どんな戦局も乗り切ってきた。
全能と感じるほどに、シェスラの前に敷かれた覇道は揺るぎなく、完璧だった。
怖いものなどなかった。
帝国を敵に回した時ですら、自信に満ち溢れ、笑みを浮かべていられた。
それなのに――
たった一人の番 を目醒めさせられないことが、シェスラをかくも怯懦 にさせている。
心にまとわりつく哀しみ、無力感を拭えない。
日が経つにつれて、不安は募っていく。
このまま目を醒まさないのでは……己の考えに戦慄しては、恐ろしい考えを振り払っている。
番 の傍を離れようとしないシェスラを見かねて、臣下達は寝台で休むよう何度も勧めてきたが、シェスラは動けなかった。
彼の手を離して、癒しの霊気の供給を断つことが恐ろしかった。
一日、一日が過ぎてゆく。
七日が過ぎても、ラギスは目を醒まさない。
黄昏が濃くなり、二月の夜の淡いしっとりとした陰影 が部屋のなかに忍び入っている。
シェスラはラギスの手の上に、己の手を重ねたまま、静かな時を過ごしていた。
無限の静寂が流れて、やがて、アミラダが部屋に入ってきた。美貌の少年達の手を借りて、煎じ薬の準備を始める。
古 の英知を秘めた呪い師であるアミラダは、シェスラが物心ついた頃から同じ姿でいる。二人の美しい少年も然 り。
彼女の全てを見透す神秘の瞳、助言には、これまで幾度も助けられてきた。
あの日、気が進まぬ闘技場へ足を運んだのも、焔と運命が待っている――そう予見したアミラダの言葉があったからだ。
「……ラギスは目を醒ますか?」
眠っている男の容体を見るアミラダに、シェスラは今日も同じことを訊ねた。
「強い精神と躰を持った男です。眠りのあとに、意識は戻ってくるでしょう」
彼女の答えは変わらない。その言葉に、シェスラは安堵すると同時に、それはいつになるのだろう、と不安を覚えもした。
「これを、ラギスに飲ませてください」
アミラダの差しだす小鉢を、シェスラは黙って受け取った。
「……お辛いですか?」
静かな問いに、シェスラは沈黙で答えた。
「彼の生い立ちは複雑です。お傍に置けば、我が大王 の気苦労は増すでしょう」
「……判っている」
「それでも、お傍に置きたいのですか?」
「置きたい」
重々しく、だがはっきりとした口調でシェスラは答えた。
「この男は、我が大王 の宿命です。二人の運命は、複雑に絡みあっている」
「……」
「彼はまだ、聖杯であることを受け入れられていません。復讐の念に囚われて、苦しんでいます」
「ヤクソンか……」
「急かさず、見守っておあげなさい。肉体だけでなく、魂も癒してさしあげるのです」
賢者の言葉に、シェスラは視線を落とした。
「……奴隷剣闘士から召しあげて、ラギスには感謝されると思っていた」
「いかがでしたか?」
静かな問いかけに、シェスラの透明度の高い美貌に、陰惨な影が射した。
「……酷く苦しんでいた。聖杯の身を憂いて……十七年経った今も、復讐の灯を消していなかった」
「彼は十五歳で奴隷剣闘士になりました。どのような境遇であったか、想像できますか?」
叡智 の瞳を見て、シェスラは答えを躊躇った。シェスラにも過酷な幼少時代はあるが、比較はできない。
「……想像もつかぬ。傍に置いておきながら、私は一度もラギスに訊こうとしなかった」
「山村で育った少年には、想像を絶する暴力が待ち受けていたことでしょう。殺しあいを強要され、生き延びても尚、地獄が続く」
「……十七年か」
「そうです。彼は十七年もの間、奴隷剣闘士として過ごしてきました」
アミラダは幻惑の呪いを唱えると、水晶球にラギスの過去――不衛生で薄暗い石牢のなかで、暗がりを睨むようにして座っている子供の姿を映しだした。悲惨な光景を覗いて、シェスラの表情は翳る。
「……よく無事だったものだ」
「新人は悲惨な思いをします。一番酷い部屋を与えられ、害虫と寝起きを共にし、黴 の生えたパンと、少しの汁しか与えられません」
水晶球に、蟲のたかる僅かな食料を口に入れるラギスが映る。
「……」
「稽古では他の剣闘士に嬲られ、気に食わないことがあれば、監視役にも殴られます。彼の気性を考えると、その頻度はとても高かったことでしょう」
複数の見張り人達から、一方的に嬲られるラギスを見て、シェスラは裡 なる獣性が昂るのを感じた。
「……ッ」
叶うことなら今すぐその場に割って入り、全員を引き裂いてやりたかった。
ラギスを救いだし、彼に必要な全てのものを与えてやりたかった。安心して眠れる場所を。清潔な褥を。十分な食事を。
激情を堪えるシェスラを、アミラダは銀眼でじっと見つめている。
「一杯の水に餓えて、壁にしみでる水を舐め、傷を負った躰で、硬い石床に横になる苦痛を想像できますか?」
飢えを癒そうと、壁を舐めるラギスを見て、シェスラは言葉がでてこなかった。
「我が大王 の番 は、そのようにして、地獄から這いあがってきた男です」
永い、永い沈黙のあとに、シェスラは絞りだすような声でいった。
「……私は、間違っていた」
アミラダは思慮深い眼差しでシェスラを一瞥してから、静かに部屋をでた。
静寂のあとに、シェスラは動いた。
眠るラギスの上体を少し起こし、背中にクッションを幾つも挟みこむ。閉じた唇を指で開くと、小鉢の中身を自ら口に含み、ラギスの唇に押し当てる。
「ん……」
無意識に零れるラギスの吐息に安堵しながら、少しずつ、小鉢の中身を口移して与えていく。
暖かい汁も与えて口の周りを綺麗にすると、躰と髪を湯に浸した麻布で拭いてやり、寝室着も変えてやった。全て終えると、姿勢を横向きにして、褥に寝かせる。
一通りの世話を終えたあとも、シェスラは昏睡するラギスの枕元に侍っていた。
今なら判る。過酷な日々を耐える為にも、彼は復讐の焔を絶やさなかったのだろう。そうでもしないと、正気を保てなかったに違いない。
ラギスは、眠り続けている。
目を醒まさない。
精気の失せた蒼白い顔を見ていると、胸が痛む。弱々しさとは対極にある男が、今はなすすべもなく横臥 している。
初めて交わした視線の力強さが思いだされる。
勇敢にシェスラに挑んでみせた。
闘志に燃える金色の瞳。憎悪の眼差し。服従を跳ねつけ、己の腹に刃を突き立てた。
ラギス。
流血。蒼白い唇。
苦悩。
ラギス。
番 だ。
彼は唯一無二の番 、魂の伴侶だ。
力なく躰に添う乾いた手を、シェスラは両手で包み、己の額に押し当てた。
守るべき番 に対して、十分な力と立場を手にしていながら、正しく使おうとしてこなかった。
高潔な精神を辱め、苛み、血を流させ、絶望と死の淵に追いやった……
眠るラギスを見つめながら、シェスラは深い悔悟 を噛みしめた。
その間、シェスラは献身的に世話をした。
静かに眠る
飢えと渇きでこと切れぬよう、日に何度も、温めた汁を口から流しこんだ。
皮膚が痛まぬよう、一日おきに躰を清めて、向きを変えさせ、命を繋ぎとめるために、何度も声をかけて……
今だかつて、これほど自分を無力と感じたことはない。
神をも
全能と感じるほどに、シェスラの前に敷かれた覇道は揺るぎなく、完璧だった。
怖いものなどなかった。
帝国を敵に回した時ですら、自信に満ち溢れ、笑みを浮かべていられた。
それなのに――
たった一人の
心にまとわりつく哀しみ、無力感を拭えない。
日が経つにつれて、不安は募っていく。
このまま目を醒まさないのでは……己の考えに戦慄しては、恐ろしい考えを振り払っている。
彼の手を離して、癒しの霊気の供給を断つことが恐ろしかった。
一日、一日が過ぎてゆく。
七日が過ぎても、ラギスは目を醒まさない。
黄昏が濃くなり、二月の夜の淡いしっとりとした
シェスラはラギスの手の上に、己の手を重ねたまま、静かな時を過ごしていた。
無限の静寂が流れて、やがて、アミラダが部屋に入ってきた。美貌の少年達の手を借りて、煎じ薬の準備を始める。
彼女の全てを見透す神秘の瞳、助言には、これまで幾度も助けられてきた。
あの日、気が進まぬ闘技場へ足を運んだのも、焔と運命が待っている――そう予見したアミラダの言葉があったからだ。
「……ラギスは目を醒ますか?」
眠っている男の容体を見るアミラダに、シェスラは今日も同じことを訊ねた。
「強い精神と躰を持った男です。眠りのあとに、意識は戻ってくるでしょう」
彼女の答えは変わらない。その言葉に、シェスラは安堵すると同時に、それはいつになるのだろう、と不安を覚えもした。
「これを、ラギスに飲ませてください」
アミラダの差しだす小鉢を、シェスラは黙って受け取った。
「……お辛いですか?」
静かな問いに、シェスラは沈黙で答えた。
「彼の生い立ちは複雑です。お傍に置けば、我が
「……判っている」
「それでも、お傍に置きたいのですか?」
「置きたい」
重々しく、だがはっきりとした口調でシェスラは答えた。
「この男は、我が
「……」
「彼はまだ、聖杯であることを受け入れられていません。復讐の念に囚われて、苦しんでいます」
「ヤクソンか……」
「急かさず、見守っておあげなさい。肉体だけでなく、魂も癒してさしあげるのです」
賢者の言葉に、シェスラは視線を落とした。
「……奴隷剣闘士から召しあげて、ラギスには感謝されると思っていた」
「いかがでしたか?」
静かな問いかけに、シェスラの透明度の高い美貌に、陰惨な影が射した。
「……酷く苦しんでいた。聖杯の身を憂いて……十七年経った今も、復讐の灯を消していなかった」
「彼は十五歳で奴隷剣闘士になりました。どのような境遇であったか、想像できますか?」
「……想像もつかぬ。傍に置いておきながら、私は一度もラギスに訊こうとしなかった」
「山村で育った少年には、想像を絶する暴力が待ち受けていたことでしょう。殺しあいを強要され、生き延びても尚、地獄が続く」
「……十七年か」
「そうです。彼は十七年もの間、奴隷剣闘士として過ごしてきました」
アミラダは幻惑の呪いを唱えると、水晶球にラギスの過去――不衛生で薄暗い石牢のなかで、暗がりを睨むようにして座っている子供の姿を映しだした。悲惨な光景を覗いて、シェスラの表情は翳る。
「……よく無事だったものだ」
「新人は悲惨な思いをします。一番酷い部屋を与えられ、害虫と寝起きを共にし、
水晶球に、蟲のたかる僅かな食料を口に入れるラギスが映る。
「……」
「稽古では他の剣闘士に嬲られ、気に食わないことがあれば、監視役にも殴られます。彼の気性を考えると、その頻度はとても高かったことでしょう」
複数の見張り人達から、一方的に嬲られるラギスを見て、シェスラは
「……ッ」
叶うことなら今すぐその場に割って入り、全員を引き裂いてやりたかった。
ラギスを救いだし、彼に必要な全てのものを与えてやりたかった。安心して眠れる場所を。清潔な褥を。十分な食事を。
激情を堪えるシェスラを、アミラダは銀眼でじっと見つめている。
「一杯の水に餓えて、壁にしみでる水を舐め、傷を負った躰で、硬い石床に横になる苦痛を想像できますか?」
飢えを癒そうと、壁を舐めるラギスを見て、シェスラは言葉がでてこなかった。
「我が
永い、永い沈黙のあとに、シェスラは絞りだすような声でいった。
「……私は、間違っていた」
アミラダは思慮深い眼差しでシェスラを一瞥してから、静かに部屋をでた。
静寂のあとに、シェスラは動いた。
眠るラギスの上体を少し起こし、背中にクッションを幾つも挟みこむ。閉じた唇を指で開くと、小鉢の中身を自ら口に含み、ラギスの唇に押し当てる。
「ん……」
無意識に零れるラギスの吐息に安堵しながら、少しずつ、小鉢の中身を口移して与えていく。
暖かい汁も与えて口の周りを綺麗にすると、躰と髪を湯に浸した麻布で拭いてやり、寝室着も変えてやった。全て終えると、姿勢を横向きにして、褥に寝かせる。
一通りの世話を終えたあとも、シェスラは昏睡するラギスの枕元に侍っていた。
今なら判る。過酷な日々を耐える為にも、彼は復讐の焔を絶やさなかったのだろう。そうでもしないと、正気を保てなかったに違いない。
ラギスは、眠り続けている。
目を醒まさない。
精気の失せた蒼白い顔を見ていると、胸が痛む。弱々しさとは対極にある男が、今はなすすべもなく
初めて交わした視線の力強さが思いだされる。
勇敢にシェスラに挑んでみせた。
闘志に燃える金色の瞳。憎悪の眼差し。服従を跳ねつけ、己の腹に刃を突き立てた。
ラギス。
流血。蒼白い唇。
苦悩。
ラギス。
彼は唯一無二の
力なく躰に添う乾いた手を、シェスラは両手で包み、己の額に押し当てた。
守るべき
高潔な精神を辱め、苛み、血を流させ、絶望と死の淵に追いやった……
眠るラギスを見つめながら、シェスラは深い