月狼聖杯記
12章:ラピニシア - 8 -
星暦五〇三年十ニ月十七日。
兵力を粉砕され、四都市の講和も空しく、ペルシニアの援助もない――孤立無援となったオルドパは、アレッツィアの城砦都市まで軍を後退し、籠城した。
シェスラは追撃の手を緩めず、開けた大河の前に布陣し、アレッツィアに流れる全ての物資を断った。
古来より伝わる最強の戦術、兵糧攻めである。
シェスラも論じていたが、戦争は、金と物が全てだ。大所帯を養わねばならぬ戦場で、兵糧が尽きることほど恐ろしいことはない。
必然的に、民衆の不満は蓄積されていく。
そうでなくとも、彼等の心はとうに離れていた。アレッツィアは、帝国の威光を笠にきて、九都市調和を破っておきながら、総力で劣るシェスラに屈辱的なほど惨めな敗戦を蒙 ったのである。
オルドパは、暴動を扇動したとして、どうにか民衆の怒りをシェスラへ向けようとしたが、失敗に終わった。
支配者面 は通用せず、ついには餓えに喘ぐ市民によって、城に火が放たれたのだった。
此の世の春と謳われたアレッツィア宮殿は天まで届く火柱があがり、大炎上の憂き目にあった。
星暦五〇三年十ニ月二十七日。深夜。燃え盛る焔のなか、オルドパは自害した。
九都市宗主の威光も虚しく、アレッツィアは、最後は市民の手によって滅び、セルトに無条件降伏したのである。
セルト軍が都市へ足を踏み入れた時、そこには惨憺 たる光景が拡がってた。
兵士たちは痩せ細り、道々に伏して、家畜や鼠の骨が散乱していた。肉は、全部食ってしまったのだ。
華々しい合戦は、幾つもの悲惨を生む。
餓 える苦しみを、多くの貴族将校らは知らない。ラギスは知っている。よく見ておけ、ジリアンに声をかけると、育ちの良い少年従卒は、地べたに蹲った餓死寸前の子供たちを眺め、目を伏せた。
死と殺戮、血と屍 に慣れてきていても、胸の悪くなる光景であった。
三万の市民のうち生き残ったのは、僅か八千人ほどだった。
かつては文明の中心と謳われ、化粧漆喰 を塗られた美しい建築様式の街は、死の息吹によって覆われていた。
餓えきった民は、セルト軍を歓呼で迎え入れた。
窓という窓から、降伏の赤い旗“月狼の王万歳”と記された大きな布が垂らされた。
シェスラは、饒舌な口上も広告的な支援も必要とせず、ただ群衆を魅了する笑みを浮かべ、手を振るだけで良かった。
無条件降伏したアレッツィアが、正規軍で応戦することは、月狼の掟として許されない。
領主の調印は得られずじまいだが、事実上の崩壊である。
星暦五〇三年十ニ月ニ十九日。
シェスラは迅速に人事の穴を埋めた。カリオスという民衆指示の官吏が宗主代理を務め、その他の残った参事の多くはアレッツィアに留まり、古参として新体制を支える運びに至った。
無論、なかには遠方の親類を頼ってでていく者や、ひっそり隠遁 する者もいた。
シェスラは、アレッツィアとペルシニアを宿営地に定め、目端の利く官吏と軍を派遣した。
将兵らが金を落とすので、アレッツィアの通商路は、物見高い人々の往還の繁 き活気を取り戻しつつあるが、辺りにはまだ硝子や木材が散乱し、煉瓦が崩れ落ち、血溜まりが残っていた。
戦争が終わってみれば、シェスラの懐はかつてないほどに潤っていた。
軍税、免除税として徴収された金は、軍の維持に必要な額を遥かに超えていたのだ。
もはや誰からも掣肘 されぬが、懸命にも、若き王は余剰金を無駄遣いせず、私財として蓄積した。艦隊の建造、ラピニシア沿岸の陣地構築などに充てるのだ。
ペルシニアを制したことで、シェスラの新造艦隊は、西海上を掌握できる。
畢竟 。ネロアの闘いの後、チェル・カタが早々にシェスラにくだったのは、英断だったといえよう。
彼等はシェスラがアレッツィアに勝利することを見越し、次の標的が自分たちに定められることを冷静に予測していた。
ドナロ大陸の最北部に位置するこの都市は、アルトニア侵略の最前線だからだ。シェスラが目をつけないわけがなかった。掠奪蹂躙される前に、同盟を結んだのである。
アレッツィアの東に面するロミア湾は、珊瑚礁の拡がる浅瀬で、船は入ってこれない。その向こうに拡がる海洋は、南からの海流と衝突するため“月狼の咆哮”と呼ばれるほどの激流で、渡航は不可能だ。
よって、ドナロ大陸が海からの侵略に備えるべきは、最北端のチェル・カタと、ラピニシア海洋である。
迂回して南から攻める手もあるが、かかる費用を考慮すれば、現実的ではない。
凱旋行軍のあとに、アルトニアとの再戦を視野に入れて、シェスラはラピニシア海洋に注力することになる。
戦いは、続いていく。
本陣をペルシニアに移すにあたり、シェスラはヴィヤノシュをアレッツィアに残した。
彼の兵力、残忍さを知る都市の参事たちの憂慮は深い。どのような難題が降りかかることかと怯えていたが、意外にも、ヴィヤノシュはまともに統治せざるをえなくなる。
膨れあがった軍維持にかかる経費は、敗戦国に課せられた巨額の軍税で賄われる。
しかし、給料を得ようとも傭兵らは農家を荒らし回る。閲兵地や宿営地に指定された都市や村々が、掠奪を恐れて免除を願いでると、許すかわりに莫大な免除税をとりたてるのが常である――
が、シェスラは許さなかった。
約した賞金外を無断で搾取しようものなら、厳しく取り締まった。
奔放な傭兵らは不平をこぼしもしたが、ドナロ大陸の支配者たるアレッツィアが崩壊した以上、セルトに与 する以外に道はなかった。
現地の傭兵隊長らが参じたり、新たに募兵したり、敗残兵が加わったり、シェスラの軍は十五万を超えるに至った。
給料は徴収した軍税を使ってヴィヤノシュから直接支払われるため、名目はセルト友軍でも、実際はヴィヤノシュの私兵も同然だった。
恐怖政治ではあるが、混沌とした地を治めるのに、ヴィヤノシュは敏腕を揮 うことをシェスラは承知していた。
彼は無法者でありながら、人心掌握に長けていたからだ。
先の話になるが、領民が音をあげぬよう課税に緩急をつけて、時には手綱を緩めたりもする。とりすぎたといって、恩寵のように還元すれば、領民は元は自分たちの私財であるにも関わらず、感謝の涙を流すのだった。
行軍の途中で残虐な焼き討ちと掠奪を繰り返したことが、結果的に功を奏したともいえよう。情け容赦ない蹂躙はされないと知り、感謝して、献身的に尽くすようになるのだ。
時代は、新たな一面を迎えようとしている。
奔流にも似た時代の激動のさなか、アレッツィアによる支配は、終焉を迎えた。
セルト軍は、悠々とラピニシアを占領し、海洋に面した草原に野営した。
水平線のうえには、しばしば巨大な鳥の翼のような雲がかかり、黄昏時になると朱金に煌めく残陽を先端から滴 らせていた。
ここでは穏やかな時間が流れ、沿岸を逍遥 するように歩く兵の姿があちこちで見られた。
星暦五〇三年十三月三日。
聖地にて、シェスラはアルトニアから遣わされた使節と会談を果たした。
奇しくも彼は、一年前にアレッツイアへの服従を仄めかした使節である。今度は和睦の申し入れを携えてやってきた彼は、シェスラの予言した通り、あの時とは立場が微妙になっていた。
「久しいな、密使殿」
明るく自信に満ちた美貌を見て、イリシャスは蹉跌 を味わうというよりは、賞賛の念を抱いた。初めて会った時にも増して、冴え冴えとして眩く、輝くような覇気に包まれていたからだ。
「正直にいえば、まさかあの霊峰を越えてくるとは思っておりませんでした」
「勝算はあったが、犠牲も少なくない。だが、やらねばアルトニアの支援を受けたアレッツィアには勝てなかったからな」
「お見事です」
敵ながらあっぱれ。イリシャスは褒めるしかなかった。
霊峰を乗り越える。口にするのは簡単だが、いざ実行に移すとなると、とんでもない難易度である。
乗り越えれば確かにラピニシアの背後を狙えるが、実現不可能と、誰もがはなから切り捨てていた可能性を、この年若い月狼の王 は断行したのだ。
短期決戦でなければ、総力で劣るアレッツィア勢に勝てないことを理解したうえで、挑んでみせた。
胆力、知略、求心力、幸運――あらゆる才能を天から恵まれた、時代の寵児である。
このような王から些かの君寵 を得るためとあらば、戦士たちは自らの命を賭して闘うだろう。
「アレッツィアの布陣もなかなか良かった。あれは、アルトニアの教えだろうか?」
イリシャスは肩を竦めた。
「そうですが、正面から迎え撃てねば、真価を発揮できません」
シェスラは笑った。
「兵の極みは无形 。迂 をもって直をなしたまで」
いささかむっとした顔でイリシャスはシェスラを見た。
「銃を持っている相手に、丸腰で突撃する戦法が通用するとは思っておりませんでしたよ」
言外に野蛮といったも同然だが、シェスラは鷹揚に笑った。
「せめて装填時間を短縮することだ。あれでは簡単に間合いに飛びこめてしまう。だが、私も勉強になった。幾つか入手したので、改良させてもらうぞ」
不敵に笑うシェスラを見て、イリシャスは、ふと訊ねてみたくなった。
「貴方は、自分を史実においてどの程度の戦略家と自負しておられますか?」
その質問に、シェスラは面白がるような目になった。
「一人は、月狼の祖ガルー。もう一人は、アルトニアの今上帝イジョンス・リッカ・アルトニア。現時点で私は、その次に並ぶと思っている」
豪胆な発言に、イリシャスは苦笑を洩らした。
「だがな――」
シェスラは不適に笑み、さらにこう続けた。
「これからの一年で私は飛躍的に進化し、名実共に史上最強の月狼の王 となる。その先はアルトニア皇帝にも引けをとらぬ、指導者となるだろう」
豪胆な発言に、イリシャスは度肝を抜かれた。
アルトニアは賢王と称えられる君主を鎹 として、法治国家を為している。他国には及ばぬ、強固な絆で全ての民が結ばれているのだ。
それこそがアルトニアの強みの神髄である。
しかし、シェスラにもそうした覇王の気質を感じる。
好戦的な月狼は、肥沃なドナロ大陸で永遠に群雄割拠を繰り広げていくのだろうと思われたが、ついに大陸統一の偉業を為しえたのである。彼ならば、その先の世界を見ることも可能かもしれない。
イリシャスが評価を上書きしたように、彼の敬慕する皇帝もまた、次第にシェスラを強敵と悟らずにはいられなくなる。
今日まで最も優れた賢王と称えられる皇帝が、生涯に渡ってライヴァルをめさざるを得ないほど、シェスラは手ごわい相手だった。
余談だが、両者は、後世に語りつがれる好敵手となる。
二人の初戦は、皇帝の寵臣ダーシャン公が指揮を執ることになる。
天も照覧する、同格の才能を持つ若き二人の武将――十八歳のダーシャン公と、二十二歳のシェスラの激突まで、あと一年余。
さて――
この日シェスラは、アルトニアと講和条約を結んだ。
自陣の捕虜交換、向こう一年の停戦などを約した、暫定的な平和条約である。
アルトニアは、制海権の割譲と引き換えに、ドナロ大陸侵攻から完全撤退することをちらつかせたが、シェスラは応じなかった。
そのような条約を結んだところで、一片の紙切れに過ぎぬことを見抜いていたのである。
アルトニアの時の皇帝、イジョンス・リッカ・アルトニアは、古き君主のように、馬鹿正直に約束を守ったりしない。国益を天秤にかけて、前言を翻すことは、容易に想像がついた。シェスラは、一年の停戦も鵜呑みにはできないと感じていた。
九都市調印を破っておきながら、誓約を結んだ同盟は必ず尊守されるものと手前勝手に信じていたオルドパとは、そもそも見えている世界が違ったのだ。
重要な職責を万遺漏 なくとりきめると、シェスラはラギスを連れて、海岸沿いを歩いた。
内地で過ごしてきた月狼の多くにとって、海を目の当たりにするのは、これが初めてである。
ラギスも然り。
彼は、海の広さに圧倒された。巌に砕ける白い波頭は、さながら月狼の咆哮のようだ。
海とは、これほどまでに広漠で、野望をかきたてるものなのか!
この海の向こうに、無数の大陸と、別の国があるという。
世界はどれほど広いのだろう?
この広漠な海を、アルトニア帝国は渡る術を持つという。以前にシェスラが話していたことだ。海の向こうにある帝国は、セルトの百年先を歩んでいるという。海洋を渡る技術を手にし、他を圧倒しているのだと。
ドナロ大陸が統一されたあとに待つのは、安寧と繁栄ではなく、新たな戦いの幕開けなのかもしれない。
胃のあたりがぐっと引き絞られるような、感覚をもたらした。
いささかの畏怖をもって海を眺めていると、隣にシェスラが並んだ。
「どうだ、海を見た感想は?」
「広い。とてつもなく」
子供のような感想に、シェスラはほほえんだ。
「こんなにも広大な海を、アルトニア人は本当に渡る術を持つのか」
海を見つめたまま、ラギスは問うた。
「そうだ」
「俺たちは、とんでもない相手を敵に回そうとしているんじゃないか?」
シェスラは肩をすくめた。
「今更だな」
「あんな飛び道具も、初めて見たぞ。銃というのか? あれがあれば、危険を冒して、間合いを詰める必要もない」
シェスラは頷いた。
「火銃の威力は凄まじいが、使いどころを誤ると、ただの玩具になる。武器も戦略も、どう用いるかが重要だ」
「確かにラピニシアは奪還できたが、それも奇襲のおかげだろ。ネロアの時と同じだ。いつでも陣形が味方してくれるとは限らないんだぞ」
そうだな、とシェスラが軽く応じるのでラギスは不満に思った。
「真正面に布陣を敷かざるを得ない時は、どうするんだ?」
シェシラは不適に笑った。
「仮に一万の軍勢に一千で挑むとして、横隊で並べて正面衝突すれば、当然数で押し負ける。ならば、縦隊に配して、敵の弱き点を一つ、二つ探り、ぶつけてみてはどうか?」
「弱き点ってなんだよ?」
「遊撃や陽動の横隊で、前線の雰囲気を掴み、ぼろがでたところを叩けばいい」
「そんな簡単に、弱点が掴めるかよ」
「今のは机上の空論だが、どのような場面、状況でも打開策はある。必要に応じて策を練るまでだ」
相変わらずの自信家である。ラギスは感心する一方で、不満にも思った。
「頼もしいっちゃ頼もしいが、あんたは一度くらい、敗北を味わった方がいいかもな」
その言葉に、シェスラは肩をすくめた。
「敗戦の味なら知っている。一年前にラピニシアまで遠征した時も、アルトニアの布陣を見て開戦せずに撤退したくらいだ」
「今回はうまく帝国を追い払ったが、次はどうか分からんぞ」
「今度はこちらの番だ」
シェスラは自信に満ちた声でいった。
てっきり不敵な笑みを浮かべているのだろうと思ったラギスは、彼の真剣な表情を見て、からかうのをやめた。視線を戻し、無言で海を眺める。
この時シェスラは、決意を新たにしていた。
次の一年で、できる限り国を鍛える。次に帝国とまみえる時は、アルトニア艦隊との海戦だ。
兵力を粉砕され、四都市の講和も空しく、ペルシニアの援助もない――孤立無援となったオルドパは、アレッツィアの城砦都市まで軍を後退し、籠城した。
シェスラは追撃の手を緩めず、開けた大河の前に布陣し、アレッツィアに流れる全ての物資を断った。
古来より伝わる最強の戦術、兵糧攻めである。
シェスラも論じていたが、戦争は、金と物が全てだ。大所帯を養わねばならぬ戦場で、兵糧が尽きることほど恐ろしいことはない。
必然的に、民衆の不満は蓄積されていく。
そうでなくとも、彼等の心はとうに離れていた。アレッツィアは、帝国の威光を笠にきて、九都市調和を破っておきながら、総力で劣るシェスラに屈辱的なほど惨めな敗戦を
オルドパは、暴動を扇動したとして、どうにか民衆の怒りをシェスラへ向けようとしたが、失敗に終わった。
支配者
此の世の春と謳われたアレッツィア宮殿は天まで届く火柱があがり、大炎上の憂き目にあった。
星暦五〇三年十ニ月二十七日。深夜。燃え盛る焔のなか、オルドパは自害した。
九都市宗主の威光も虚しく、アレッツィアは、最後は市民の手によって滅び、セルトに無条件降伏したのである。
セルト軍が都市へ足を踏み入れた時、そこには
兵士たちは痩せ細り、道々に伏して、家畜や鼠の骨が散乱していた。肉は、全部食ってしまったのだ。
華々しい合戦は、幾つもの悲惨を生む。
死と殺戮、血と
三万の市民のうち生き残ったのは、僅か八千人ほどだった。
かつては文明の中心と謳われ、化粧
餓えきった民は、セルト軍を歓呼で迎え入れた。
窓という窓から、降伏の赤い旗“月狼の王万歳”と記された大きな布が垂らされた。
シェスラは、饒舌な口上も広告的な支援も必要とせず、ただ群衆を魅了する笑みを浮かべ、手を振るだけで良かった。
無条件降伏したアレッツィアが、正規軍で応戦することは、月狼の掟として許されない。
領主の調印は得られずじまいだが、事実上の崩壊である。
星暦五〇三年十ニ月ニ十九日。
シェスラは迅速に人事の穴を埋めた。カリオスという民衆指示の官吏が宗主代理を務め、その他の残った参事の多くはアレッツィアに留まり、古参として新体制を支える運びに至った。
無論、なかには遠方の親類を頼ってでていく者や、ひっそり
シェスラは、アレッツィアとペルシニアを宿営地に定め、目端の利く官吏と軍を派遣した。
将兵らが金を落とすので、アレッツィアの通商路は、物見高い人々の往還の
戦争が終わってみれば、シェスラの懐はかつてないほどに潤っていた。
軍税、免除税として徴収された金は、軍の維持に必要な額を遥かに超えていたのだ。
もはや誰からも
ペルシニアを制したことで、シェスラの新造艦隊は、西海上を掌握できる。
彼等はシェスラがアレッツィアに勝利することを見越し、次の標的が自分たちに定められることを冷静に予測していた。
ドナロ大陸の最北部に位置するこの都市は、アルトニア侵略の最前線だからだ。シェスラが目をつけないわけがなかった。掠奪蹂躙される前に、同盟を結んだのである。
アレッツィアの東に面するロミア湾は、珊瑚礁の拡がる浅瀬で、船は入ってこれない。その向こうに拡がる海洋は、南からの海流と衝突するため“月狼の咆哮”と呼ばれるほどの激流で、渡航は不可能だ。
よって、ドナロ大陸が海からの侵略に備えるべきは、最北端のチェル・カタと、ラピニシア海洋である。
迂回して南から攻める手もあるが、かかる費用を考慮すれば、現実的ではない。
凱旋行軍のあとに、アルトニアとの再戦を視野に入れて、シェスラはラピニシア海洋に注力することになる。
戦いは、続いていく。
本陣をペルシニアに移すにあたり、シェスラはヴィヤノシュをアレッツィアに残した。
彼の兵力、残忍さを知る都市の参事たちの憂慮は深い。どのような難題が降りかかることかと怯えていたが、意外にも、ヴィヤノシュはまともに統治せざるをえなくなる。
膨れあがった軍維持にかかる経費は、敗戦国に課せられた巨額の軍税で賄われる。
しかし、給料を得ようとも傭兵らは農家を荒らし回る。閲兵地や宿営地に指定された都市や村々が、掠奪を恐れて免除を願いでると、許すかわりに莫大な免除税をとりたてるのが常である――
が、シェスラは許さなかった。
約した賞金外を無断で搾取しようものなら、厳しく取り締まった。
奔放な傭兵らは不平をこぼしもしたが、ドナロ大陸の支配者たるアレッツィアが崩壊した以上、セルトに
現地の傭兵隊長らが参じたり、新たに募兵したり、敗残兵が加わったり、シェスラの軍は十五万を超えるに至った。
給料は徴収した軍税を使ってヴィヤノシュから直接支払われるため、名目はセルト友軍でも、実際はヴィヤノシュの私兵も同然だった。
恐怖政治ではあるが、混沌とした地を治めるのに、ヴィヤノシュは敏腕を
彼は無法者でありながら、人心掌握に長けていたからだ。
先の話になるが、領民が音をあげぬよう課税に緩急をつけて、時には手綱を緩めたりもする。とりすぎたといって、恩寵のように還元すれば、領民は元は自分たちの私財であるにも関わらず、感謝の涙を流すのだった。
行軍の途中で残虐な焼き討ちと掠奪を繰り返したことが、結果的に功を奏したともいえよう。情け容赦ない蹂躙はされないと知り、感謝して、献身的に尽くすようになるのだ。
時代は、新たな一面を迎えようとしている。
奔流にも似た時代の激動のさなか、アレッツィアによる支配は、終焉を迎えた。
セルト軍は、悠々とラピニシアを占領し、海洋に面した草原に野営した。
水平線のうえには、しばしば巨大な鳥の翼のような雲がかかり、黄昏時になると朱金に煌めく残陽を先端から
ここでは穏やかな時間が流れ、沿岸を
星暦五〇三年十三月三日。
聖地にて、シェスラはアルトニアから遣わされた使節と会談を果たした。
奇しくも彼は、一年前にアレッツイアへの服従を仄めかした使節である。今度は和睦の申し入れを携えてやってきた彼は、シェスラの予言した通り、あの時とは立場が微妙になっていた。
「久しいな、密使殿」
明るく自信に満ちた美貌を見て、イリシャスは
「正直にいえば、まさかあの霊峰を越えてくるとは思っておりませんでした」
「勝算はあったが、犠牲も少なくない。だが、やらねばアルトニアの支援を受けたアレッツィアには勝てなかったからな」
「お見事です」
敵ながらあっぱれ。イリシャスは褒めるしかなかった。
霊峰を乗り越える。口にするのは簡単だが、いざ実行に移すとなると、とんでもない難易度である。
乗り越えれば確かにラピニシアの背後を狙えるが、実現不可能と、誰もがはなから切り捨てていた可能性を、この年若い
短期決戦でなければ、総力で劣るアレッツィア勢に勝てないことを理解したうえで、挑んでみせた。
胆力、知略、求心力、幸運――あらゆる才能を天から恵まれた、時代の寵児である。
このような王から些かの
「アレッツィアの布陣もなかなか良かった。あれは、アルトニアの教えだろうか?」
イリシャスは肩を竦めた。
「そうですが、正面から迎え撃てねば、真価を発揮できません」
シェスラは笑った。
「兵の極みは
いささかむっとした顔でイリシャスはシェスラを見た。
「銃を持っている相手に、丸腰で突撃する戦法が通用するとは思っておりませんでしたよ」
言外に野蛮といったも同然だが、シェスラは鷹揚に笑った。
「せめて装填時間を短縮することだ。あれでは簡単に間合いに飛びこめてしまう。だが、私も勉強になった。幾つか入手したので、改良させてもらうぞ」
不敵に笑うシェスラを見て、イリシャスは、ふと訊ねてみたくなった。
「貴方は、自分を史実においてどの程度の戦略家と自負しておられますか?」
その質問に、シェスラは面白がるような目になった。
「一人は、月狼の祖ガルー。もう一人は、アルトニアの今上帝イジョンス・リッカ・アルトニア。現時点で私は、その次に並ぶと思っている」
豪胆な発言に、イリシャスは苦笑を洩らした。
「だがな――」
シェスラは不適に笑み、さらにこう続けた。
「これからの一年で私は飛躍的に進化し、名実共に史上最強の
豪胆な発言に、イリシャスは度肝を抜かれた。
アルトニアは賢王と称えられる君主を
それこそがアルトニアの強みの神髄である。
しかし、シェスラにもそうした覇王の気質を感じる。
好戦的な月狼は、肥沃なドナロ大陸で永遠に群雄割拠を繰り広げていくのだろうと思われたが、ついに大陸統一の偉業を為しえたのである。彼ならば、その先の世界を見ることも可能かもしれない。
イリシャスが評価を上書きしたように、彼の敬慕する皇帝もまた、次第にシェスラを強敵と悟らずにはいられなくなる。
今日まで最も優れた賢王と称えられる皇帝が、生涯に渡ってライヴァルをめさざるを得ないほど、シェスラは手ごわい相手だった。
余談だが、両者は、後世に語りつがれる好敵手となる。
二人の初戦は、皇帝の寵臣ダーシャン公が指揮を執ることになる。
天も照覧する、同格の才能を持つ若き二人の武将――十八歳のダーシャン公と、二十二歳のシェスラの激突まで、あと一年余。
さて――
この日シェスラは、アルトニアと講和条約を結んだ。
自陣の捕虜交換、向こう一年の停戦などを約した、暫定的な平和条約である。
アルトニアは、制海権の割譲と引き換えに、ドナロ大陸侵攻から完全撤退することをちらつかせたが、シェスラは応じなかった。
そのような条約を結んだところで、一片の紙切れに過ぎぬことを見抜いていたのである。
アルトニアの時の皇帝、イジョンス・リッカ・アルトニアは、古き君主のように、馬鹿正直に約束を守ったりしない。国益を天秤にかけて、前言を翻すことは、容易に想像がついた。シェスラは、一年の停戦も鵜呑みにはできないと感じていた。
九都市調印を破っておきながら、誓約を結んだ同盟は必ず尊守されるものと手前勝手に信じていたオルドパとは、そもそも見えている世界が違ったのだ。
重要な職責を
内地で過ごしてきた月狼の多くにとって、海を目の当たりにするのは、これが初めてである。
ラギスも然り。
彼は、海の広さに圧倒された。巌に砕ける白い波頭は、さながら月狼の咆哮のようだ。
海とは、これほどまでに広漠で、野望をかきたてるものなのか!
この海の向こうに、無数の大陸と、別の国があるという。
世界はどれほど広いのだろう?
この広漠な海を、アルトニア帝国は渡る術を持つという。以前にシェスラが話していたことだ。海の向こうにある帝国は、セルトの百年先を歩んでいるという。海洋を渡る技術を手にし、他を圧倒しているのだと。
ドナロ大陸が統一されたあとに待つのは、安寧と繁栄ではなく、新たな戦いの幕開けなのかもしれない。
胃のあたりがぐっと引き絞られるような、感覚をもたらした。
いささかの畏怖をもって海を眺めていると、隣にシェスラが並んだ。
「どうだ、海を見た感想は?」
「広い。とてつもなく」
子供のような感想に、シェスラはほほえんだ。
「こんなにも広大な海を、アルトニア人は本当に渡る術を持つのか」
海を見つめたまま、ラギスは問うた。
「そうだ」
「俺たちは、とんでもない相手を敵に回そうとしているんじゃないか?」
シェスラは肩をすくめた。
「今更だな」
「あんな飛び道具も、初めて見たぞ。銃というのか? あれがあれば、危険を冒して、間合いを詰める必要もない」
シェスラは頷いた。
「火銃の威力は凄まじいが、使いどころを誤ると、ただの玩具になる。武器も戦略も、どう用いるかが重要だ」
「確かにラピニシアは奪還できたが、それも奇襲のおかげだろ。ネロアの時と同じだ。いつでも陣形が味方してくれるとは限らないんだぞ」
そうだな、とシェスラが軽く応じるのでラギスは不満に思った。
「真正面に布陣を敷かざるを得ない時は、どうするんだ?」
シェシラは不適に笑った。
「仮に一万の軍勢に一千で挑むとして、横隊で並べて正面衝突すれば、当然数で押し負ける。ならば、縦隊に配して、敵の弱き点を一つ、二つ探り、ぶつけてみてはどうか?」
「弱き点ってなんだよ?」
「遊撃や陽動の横隊で、前線の雰囲気を掴み、ぼろがでたところを叩けばいい」
「そんな簡単に、弱点が掴めるかよ」
「今のは机上の空論だが、どのような場面、状況でも打開策はある。必要に応じて策を練るまでだ」
相変わらずの自信家である。ラギスは感心する一方で、不満にも思った。
「頼もしいっちゃ頼もしいが、あんたは一度くらい、敗北を味わった方がいいかもな」
その言葉に、シェスラは肩をすくめた。
「敗戦の味なら知っている。一年前にラピニシアまで遠征した時も、アルトニアの布陣を見て開戦せずに撤退したくらいだ」
「今回はうまく帝国を追い払ったが、次はどうか分からんぞ」
「今度はこちらの番だ」
シェスラは自信に満ちた声でいった。
てっきり不敵な笑みを浮かべているのだろうと思ったラギスは、彼の真剣な表情を見て、からかうのをやめた。視線を戻し、無言で海を眺める。
この時シェスラは、決意を新たにしていた。
次の一年で、できる限り国を鍛える。次に帝国とまみえる時は、アルトニア艦隊との海戦だ。