月狼聖杯記

10章:背負うもの - 6 -

 星歴五〇三年十一月十三日。行軍四十三日目。
 標高五〇〇〇メートルの稜線。
 雲の上から見る世界。
 酸素は地上の半分ほどだが、躰が希薄な空気に順応するにつれ、高度障害の苦しみは和らいだ。
 先はまだ長い。
 切り裂かれた斜面に積もる雪は輝いて美しいが、ここからは先は雪崩や氷の裂け目が多く、死亡率がぐっと高まる。
 空は、真珠母貝に底光りする黄昏で、どこか凶相を孕んでいた。
 一行は順調に高度を稼いでいたが、急変しそうな山の天候を見て立ち止まった。この先はしばらく急斜面が続くので、少し標高をさげて小休憩をとることになった。
「速度が落ちてきましたね」
 疲れたようにいうジリアンの言葉に、ラギスは頷いた。
「焦りは禁物だ。天候を待つことも登山だ」
 荷を解いての休憩となったが、時折、氷河が崩れる音が不気味に鳴り響き、将兵らは不安そうに耳を欹てた。
 先鋒隊と迂回策を講じるシェスラ達の様子を、少し離れた処から、もみの樹にもたれかかりながら、ラギスは眺めていた。
 ここまできて引き返すのは骨が折れるな……考えていたところへ各隊に哨戒しょうかい命令がだされ、ラギスも数名を連れて様子を見にいくことになった。
 慎重に進んでいったが、淡雪が烈風を舞うなか、これ以上は危険と判断し、途中で引き返した。
 その戻り道、ヴィシャスとその護衛兵に道を塞がれた。
 ラギスを見るヴィシャスの眼差しには、辛辣で冷たい煌めきがあった。
 緊張に強張る部下を手で制し、ラギスは前に進みでた。
「なんの用だ?」
 冷気は吐息を白く煙らせる。
「話がある」
 ヴィシャスは鋭敏な目でいった。
 鋭い舌鋒ぜっぽうの予感に辟易へきえきしたものの、ラギスは、黙って馬を降りた。手綱をジリアンに渡して、目配せする。
「先に戻ってろ」
 するとヴィシャスも馬をおりて、護衛に手綱を預けた。
 ジリアンたちは、心配そうに振り返りながら、野営の方へ引き返していった。
 二人だけになると、ヴィシャスは鋭くこういった。
「貴様の大王様に対する態度は目に余る。即刻改めよ」
「あんたに関係ないだろ」
「まだヴィヤノシュの掠奪の件を根にもっているのか」
 ラギスが無言で睨みつけると、ヴィシャスも厳しい眼差しで睨み返した。
「貴様は幾つになるんだ? 頑是ない子供じゃあるまいし、いいかげんに聞き分けたらどうだ」
 すっと通った鼻柱に皺を寄せ、さも軽蔑に耐えないというようにいった。
「るせぇ、納得できるかよ」
「ならば訊くが、一の掠奪で百の掠奪を防げると明らかな時、指揮官として貴様はどう応える?」
 その声には皮肉がこもっていた。返事に窮するラギスを、ヴィシャスは嘲った。
「貴様なら、二万五千の騎兵隊とネロアの輜重があれば、傭兵部隊がなくとも、アレッツイアを相手に戦えるのか?」
 そうまでして統一国家を為そうとは思わねぇ、そういいかけてラギスは押し黙った。

 国境統一を掲げた時から、この手を血に染めると決めた。修羅の道を避けては、どんな泰平もありえない。

 シェスラの言葉を脳裏をよぎる。
 確かに、不満を滾らせるばかりのラギスは醜態かもしれない。だが、居丈高に口上を垂れるさかしら顔のヴィシャスには、むかっ腹が立った。
「俺には遠距離の戦法なんざ判らねぇけどよ、納得いかねぇよ。大儀があれば非道も通るってんなら、アルトニアの侵略だって同じことだろう」
「頑是ない子供の言い分だな」
「うるせぇよ、お互い様だろうが!」
 ヴィシャスのこめかみに青筋が浮かんだ。ラギスの胸倉を掴んでねじあげ、
「ラピニシア奪還を描くともできぬ一兵卒が、我が意を得たりとばかりに、被害者面で我が大王きみを責めることには我慢ならん。寵愛をかさに着て、軍規も重んじず、いいたい放題、貴様はたちの悪い偽善者だ。見ていて虫唾が走るッ!!」
 いつでも冷静なヴィシャスにしては、大きな声で、昂った語気で吐き捨てた。
 ラギスは腕を振り払い、勢いをこめてヴィシャス突き離したが、いい返す言葉がでてこなかった。ヴィシャスもまた口を閉ざし、激昂を鎮めようとした。
「我が大王きみの赦しさえ得られれば、とっくに放逐しているところだ」
 苦々しさの滲んだ、厳粛な顔でいった。
 言葉が途切れ、重たい沈黙が流れた時――みき、めきっ……樹々の折れる嫌な音が響いた。
 激する二人の背筋を、ぞくりと冷たい汗が伝った。
「雪崩だ!」
 ラギスが叫んだ瞬間、轟然ごうぜんと地を揺るがす、雪山の咆哮が響いた。
 どどどど!! ずずずずんッ!!
 天地も裂けんばかりの轟音とともに、巨大な樹々が倒される。
 白い牙、幅五〇メートルを超える雪と氷の塊りが、物凄い速さで背後に迫りくる。ラギスはヴィシャスの腕を掴んで、横へ逃れようとした。だが雪の重みに負けて、足場が崩壊した。
 二人の躰は氷の壁を離れ、宙に浮いていた。
「掴まれ!」
 ラギスはヴィシャスの腕を掴み、躰を引き寄せた。
 切り立った氷の斜面をすべり、落下速度はぐんぐんあがっていく。この先に巨大な氷瀑ひょうばくがあるのは知っている。極寒の冬季、落ちれば命はない。
 止まらなければ――意識の落ちているヴィシャスを掴んだまま、ラギスは硬化させた爪と顔面を、氷に突き刺すようにして、躰全体で減速を試みた。
 五メートル、十メートル、三十メートル――落ちていく。止まらない。止まらない。あれだけ冷えていた躰が、氷の摩擦で熱く感じられる。必死だった。
「ぐうぅッ!」
 遂に滑落は止まった。奈落の死は免れたが、百ニ、三十メートルほど落下したのだろうか。
 生きている。
 けれども消耗しすぎた。
 氷の斜面を見あげて、ラギスは登ることを諦めた。自分も骨に罅が入っているが、ヴィシャスはさらに酷い。骨折と流血の重症を負っていた。