メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

8章:恋する夜 - 5 -

 カルタ・コラッロ最後の夜。
 甲板で宴を楽しんでいたティカは、数刻経つと、四方山話よもやまばなしを抜けて密かにタラップを下りた。
 試してみたいことがあるのだ。
 ダイヤモンドのピアスを身に着けて、波止場の荷箱の影に隠れた。先日は騒動を起こしたばかりなので、遠くへは行けない。
 だから、街中を歩く代わりに、ヴィヴィアンのことを想いながら……誰にも見咎められぬよう、口を利かぬよう、闇に紛れて隠れている。
 彼の心が全て、ティカのものになればいい。大人になるまで、ヴィヴィアンが待っていてくれますように。他の誰かに心を移したりしませんように……
 祈りながら、じっと息を詰めて一刻ほど過ごした。
 すっかり満足して、船に戻ろうとすると、月明かりの逆光に立つ人影に気がついた。
 濃い暗がりを、神秘的な足取りで歩いてくる。表情はよく見えないが――ヴィヴィアンだ。
 呼びかけようとして、口を利いてはいけないことを思い出した。姿を見られた時点で、宝石の魔術の効果は切れてしまったろうか? いや、このまま走り去れば判らないかもしれない。

「ティカ!」

 背を向けて走り去ろうとしたら、鋭い声が飛来した。構わず駆け出したけれど、大して走らないうちに腕を掴まれる。

「あっ」

「どこに行くの!」

「ヴィー」

「今逃げたよね? なんで?」

「それは……」

「――帰るよ」

 口籠るティカの手を掴んで、彼は容赦なく引っ張った。肩をがっちり引き寄せられ、タラップを上ってヘルジャッジ号に連れ戻される。
 船員達の声に適当に応え、ヴィヴィアンはまっすぐ船長室キャプテンズデッキに向かってゆく。
 扉を閉じるなり、彼はティカの肩を軽く突き放した。

「で? なんで勝手に抜け出したの?」

「その……」

「何?」

 見下ろす青い瞳は、どこか冷ややかな刃を含んでいる。ヴィヴィアンが怖い。ティカは無意識のうちに後じさった。

「ティカ」

「ぅ……宝石の魔術をしようと思ったんです」

「宝石の魔術?」

 吐息と共に、ティカは観念して白状した。

「月の出ている夜に、ダイヤモンドを身につけて、知り合いに見つからず、口も利かず、外を歩くと、好きな人の心を手に入れることができると聞いて……」

「好きな人って?」

 判っているくせに。言わないといけないのだろうか……ふてくされた気持ちのまま、ティカは俯きながら小声で、ヴィーと呟いた。

「わっ」

 途端に抱きしめられ、慌てて顔を上げた。

「良かった……嫌われたのかと思った」

 声には微かな安堵が滲んでおり、ティカの眼を丸くさせた。

「な、なんで?」

「俺と同じベッドで眠るのが嫌になったのかなって……だから、こっそり抜け出したのかと」

「抜け出したの、知っていたんですか?」

「タラップを下りたところから知ってたよ」

 最初から見つかっていたとは。では、魔術は最初から失敗していたというわけだ。ティカはがっかりした。

「見つかっていないと思っていたのに……」

「そんな魔術、無駄だよ」

 ぐさりと言葉の刃が心に突き刺さる。どういう意味だろう……ティカは怯えたようにヴィヴィアンを見上げた。

「俺は、とっくにティカのことが好きになっているんだから。今更、魔術を使う必要はないよ」

「本当……ん」

 問いかけは、優しい口づけに塞がれて消える。少し苦いアルコールの余韻が口内に広がった。

「こんな言い伝えもあるよ。ダイヤモンドの輝きがせる時は、贈った相手――想い人が持ち主を裏切る時ってね」

 形の良い指は、ティカの耳を飾る涙滴るいてき型のダイヤモンドをいらう。

「その輝きが損なわなければ、俺の愛が冷めていない証拠……信じる?」

「……ずっと色褪せないで欲しいな」

「じゃあ、ずっと身に着けていて」

 想われる幸せを噛みしめ、ティカは微笑んだ。やはり、ダイヤモンドの魔術は成功したのかもしれない。
 穏やかに見下ろしていたヴィヴィアンは、ふと訝しげに眉をひそめた。

「そもそも、そんなまじないに頼らずとも、最強の魔法を持ってるじゃない」

 ご尤も。けれど、その魔法はもうヴィヴィアンに使うつもりはない。

「あの魔法は効果が強すぎるから……」

「効果が強い方がいいんじゃないの?」

 ティカは淡い笑みを浮かべた。
 彼に向かう想いは、複雑なのだ。魔法に頼って心を手に入れたくない……でも、ちょっとしたお呪いなら試してみたい。そんな気持ちをどう伝えればいいのだろう。

「ティカが不安なら、俺に魔法をかけてもいいよ」

「え……」

「同じことだから。魔法をかけても、かけなくても、ティカが好きだよ。俺の小さな可愛い恋人」

 腕の中にティカを引き寄せて、額に唇を押し当てる。その柔らかな感触に、ティカは、心の底から喜びに満たされた。

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 期号ダナ・ロカ、一五〇三年。精霊オズの祝福する一月。
 ヘルジャッジ号はダリヤ国を出航した後、ロアノスへの航路途中にある、ナプトラ諸島を目指して北西に舵を戻す。
 ヘルジャッジ号――別名カーヴァンクル号の次なる目的は、メテオライト級・理想郷ユートピアの宝石、エメラルドだ。
 ヴィヴィアン達が、深海一〇〇〇〇メートルのブルーホールに挑むのは、ダリヤ国出港から、約三ヵ月後のことである。

 彼等の航海を、女神アトラスはよみしたもう――