メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

8章:恋する夜 - 4 -

 カルタ・コラッロで過ごす最後の夜。
 凪いだ湾は白波一つ立てず、星明かりを受けて銀班ぎんはんに瞬いている。
 風に運ばれた雲が、甲板に不思議な影を落としていた。
 ヘルジャッジ号の荷積みもようやく終わり、船員は思い思いに過ごしている。船室デッキで休んだり、食堂で食事を摂ったり、寛いでいたり、剣に油を塗っていたり……持ち場で明日の仕事に備えていたり。
 しかし、大半の者は甲板に上がり、次の航海を祝す宴に興じていた。
 舳先へさきに灯された青いランプは、船員達の赤ら顔を奇妙な紫色に染めている。
 笑い声に、調子の外れた酔歌すいかが聞こえてくる。
 日中は出航準備に奔走していたシルヴィーも、今はヴィヴィアン達の輪に混じっている。驚くべきことに、超引きこもりのアマディウスの姿まである。
 幹部乗組員達と離れたところで、班仲間と共にティカは食事をしていたが、やがてヴィヴィアンに呼ばれた。

「革命会議へようこそー」

 傍へ寄ると、ヴィヴィアンは機嫌よくティカを輪に迎え入れた。なんだそれは、と隣でシルヴィーが呆れたように呟いている。

「冒険革命だよ。最大級のブルーホールの謎について、話していたんだ」

 途中から席に加わるティカの為に、ヴィヴィアンは話の流れを簡単に教えてくれた。
 この街で予期せずして、ブルーホールに挑む潜水装備が揃ったらしく、ヘルジャッジ号はロアノスへの航路途中にあるナプトラ諸島に、寄り道することに決めたのだという。

「楽しみだな。直径六〇〇メートル、水深一〇〇〇〇メートル級の超巨大円環海底渓谷だよ」

 彼の好奇心は相変わらずである。声に抑えきれない喜びを滲ませて、嬉しそうにティカに語る。

「珊瑚に覆われた石灰岩質の絶壁が、穴の底まで垂直に切れ落ちているんだ。海が鏡のように凪いだ日には、恐ろしいまでに幻想的な光景を拝めるよ……まぁ、危険もあるけど」

「……危険って?」

 気になって聞き返すと、ヴィヴィアンはグラスを持つ人差し指を立てて、それをティカに向けた。

「深海には水棲海獣リヴァイアサンが潜んでいるかもしれない。それに、透明度も移ろいやすいし、水深による水の層が存在する。並みの対策じゃ歯が立たない難関潜水だよ」

 淀みない口ぶりの続きを、隣に座るシルヴィーが引き取る。

「ロアノス海洋研究局の最新の調査では、摂氏九九度という異常な水温を記録したらしい。微生物の分解過程が絶えず水温を変化させるんだ。それこそ生身で潜れば、茹で上がったまま彼岸ひがんへゆける」

 淡々とした口調がかえって恐ろしい。眉をひそめるティカを見て、更に横からアマディウスが口を挟んだ。

「ブルーホールと外洋は、給水管のように地下トンネルで結ばれてる。干潮時に潜れば、トンネルに吸い込まれて満潮時に吐きだされる恐れもあるしね」

 何やら、とんでもない危険地帯に聞こえる。そんなところへ、本気で潜るつもりなのだろうか?
 いかにも心配げに眉根を寄せるティカを見て、ヴィヴィアンは安心させるように微笑んだ。

「もちろん、準備はしているよ。カルタ・コラッロで工業用の鋼玉コランダムを安く大量に仕入れたんだ。サファイアの仲間だよ。これで強化潜水服を作る」

 果たして潜水服とサファイアに、どんな関係があるのだろう?
 不思議そうにティカが首を傾けていると、アマディウスはパイプ片手に口を開いた。

「サファイアの融解は二千度以上。とても熱に強いんだ。しかも割れにくいし、透明度が高い。耐水メットや服の繊維に混ぜて使う。ちなみにヘルジャッジ号の窓硝子もサファイアだよ。砲弾も防ぐ超耐久だから」

「えっ、そうなんですか? 知らなかった!」

 窓硝子がサファイアだったとは。贅沢すぎる。よくシルヴィーが出費を許可したものだ。

「次の航海は大冒険ですね」

 感心したようにティカが言うと、

「ヴィーの好奇心を満たす為だけに航海するわけじゃない。仕事だ。ナプトラ諸島の沿岸には、海流に運ばれて良質のエメラルドの鉱石が見つかる。海流を逆算すると、ブルーホールから生じている可能性が高いんだ。うまくいけば、巨大な宝石の原石が手に入るかもしれない」

 シルヴィーは微妙に否定した。どうやら宝石の為らしい。アマディウスは愉しげに眼を輝かせて言葉を継いだ。

「危険も多いけど、メテオライト級の稀少価値があるかもしれない」

「メテオライト?」

「天空の彼方から飛んでくる石から採れる宝石のこと。ブルーホールに眠るエメラルドは、太古の精霊界ハーレイスフィアの遺物である可能性が高い。もしそうなら、大陸産のエメラルドとは比較にならないほど価値が高いんだよ」

 縷々るると応えるアマディウスに、眼をしばたいてティカはもう一度首を傾げた。

「どれくらい価値が違うんですか?」

「そりゃもう、雲泥万里の如き高い隔たりがあるよ。一粒で、最低でも臆はいく」

「臆っ!?」

 何気なく応えたヴィヴィアンに向かって、ティカは眼を丸くして叫んだ。プラムが一体何個買えるのか……想像もつかない。

精霊界ハーレイスフィア理想郷ユートピアと崇める、高雅こうがなる資産家、蒐集家は世界中にいるからね。一粒の価値が天文学的数字に跳ね上がるんだ」

 知的に語ったと思ったら、ヴィヴィアンは眼に悪戯めいた光りを点して、シルヴィーの肩に腕を回した。

「今回はシルヴィーも乗り気なんだよ。こいつときたら、半年前のアンデル島の件をまだ根に持ってるんだ」

 肩に回された腕を、シルヴィーは鬱陶しげに振り払った。ティカと眼が合うと、表情を少し和らげて口を開く。

「アンデル島は、良質のエメラルド産地なんだ。無限幻海に航路変更して、儲けは消えたが、ブルーホールで回収できれば釣りがくる」

「へぇ!」

 嬉しげな彼の様子に、ティカも笑みを浮かべて手を鳴らした。

「ともかく、明日は出航だ。ブルーホールに乾杯!!」

 高らかに告げると、ヴィヴィアンは茴香ういきょう入りの強い蒸留酒を一気に煽った。

「エメラルドに乾杯!」

 恋人の名を口ずさむように杯を捧げ、アマディウスも上質の葡萄酒を一気に煽った。

「……エメラルドに」

 冷静な口調と表情。けれど、眼には喜びを灯して、シルヴィーも宝石に杯を捧げた。