メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

5章:カルタ・コラッロ - 9 -

 船長室キャプテンズデッキに独りでいることが寂しくなり、ティカは船橋ブリッジを覗いてみた。

「シルヴィー」

 仕事をしている後ろ姿に声をかけると、シルヴィーは振り向いて、ティカを見るなり微笑んだ。

「どうした?」

「ここにいてもいいですか?」

「いいけど、退屈だろ」

 問いかけに、首を左右に振って応えた。一人でいるよりずっといい。それとも迷惑だろうか?
 入り口で突っ立っていると、シルヴィーは苦笑を浮かべてティカを手招いた。

「別に邪魔だなんて思っちゃいない」

「アイ」

「子供は寝る時間じゃないのか」

 シルヴィーまでそんなことを言う。ティカは不服そうに瞼を半分伏せた。

「オリバーだって出掛けたのに……」

「アルバナ酒家だろ? カルタ・コラッロの名物だからな」

「今夜は皆そこへ行くみたい。シルヴィーは?」

「今夜は仕事。明日はエルメス市場で商談」

 シルヴィーは手を動かしながら質問に応えた。
 ダリヤ国に上陸したので、これまでの航海記録を整理しているのだろう。傍に寄って手元を覗きこむと、相変わらず、ティカにはちんぷんかんぷんな文字と数字が羅列している。
 魔法と融合して、ティカは以前に比べれば賢くなった。航海の合間に、ヴィヴィアンや班仲間から文字も学んだ。
 しかし、航海用語は未だに判らない。
 航海に伴う速力、経路、天候、風向、気圧、視界、気温、水温、湿度、波とうねりの方向に大きさ、プロペラの回転数……ふんふんふん……難解な暗号にしか見えない。
 こんなに複雑な記録を、航海士達は当直の度に、つまり四時間毎に記している。
 無事に航海を終えると、それらをまとめて次の航海の参考にするのだ。
 不意に頭を撫でられた。顔を上げると、労わりの浮かぶ蒼氷色アイス・ブルーと眼が合う。

「明日にはヴィーも帰ってくるだろう。もう寝たらどうだ?」

「……よく、こんな複雑な文字を書けますね」

 質問には応えず、航海記録に視線を落として呟いた。

「仕事だからな。リダ島からこっち、天候に恵まれて助かった」

「こんなに複雑な文字や記号を使って、四ヵ月も航海して、僕達をこんなに遠い所まで無事に連れてこれるシルヴィーは、天才だと思う」

 大真面目に呟くと、シルヴィーは表情を綻ばせた。

「ありがとう。今は正確な計測を可能とするエーテル航法が発明されているからな。遠洋航海にも挑めるんだ」

「昔は違ったんですか?」

「一昔前は、太陽や星の高度を六分儀で測る天文航法や、地形や地上物を目標にする地文航法しかなかった。それに、揺れる船の上での測量は難しいんだ」

「それだと……航海は大変なんですか?」

「あぁ。船の位置を正確に把握するのは、本当に至難の業だったんだ。それこそ無限海の航海は命懸けだった」

 ティカは頷きながら、航海日誌に記された細かい地形図に視線を落として、首を傾けた。

「エーテル航法で船の位置を正確に判るのに、航海日誌に地形をこまめに記すのはどうしてですか?」

「目視、体感も大切だからな。船乗りなら太陽の熱や風や湿気、波や地形を見て、感じて、勘を培うことも必要だ」

「体感かぁ……」

 確かに、何事も目で見て、実際にやってみることが肝心だ。数ヶ月に及ぶ航海で、ティカも天候の様々を知った。文字や数字を眺めるだけでは、決して培えない経験であろう。

「現代技術は素晴らしいが、古い航法に学ぶことも多い。昔の船乗りは技術の不足を、経験で補っていたんだ。数百を越える航海から生還した船乗りの記録は、一見の価値があるぞ」

「じゃあ、シルヴィーの書いている航海記録は、お宝なんだ」

 心から感心して告げると、シルヴィーは少しばかり面映ゆげに笑った。

「そうだ。俺の航海記録は値打ちものだ」

「昔の船乗りがヘルジャッジ号を見たら、驚くでしょうね」

「だろうな。航法も造船も進化の一途だ。とはいえ、昔の名残も割とあるぞ。大抵の船には今も六分儀が残ってるし」

「そうなんですか?」

「ヘルジャッジ号にもある。船鐘もあるだろ。昔は当直の交代を告げる時計代わりだったんだ。うちじゃ、戦闘の合図になってるけどな」

「へぇ」

 船に乗って数ヶ月経つが、初耳である。昔の船乗りは、時計も無かったのか。さぞ航海に不便したであろう。