メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
1章:出会いと出航 - 7 -
ヴィヴィアンは、とてもクリーンなバスルームにティカを連れていった。
入り口には、黄色いマーガレットの植木鉢と、涼しげなパーム・ツリーの鉢が置かれている。レースを捲 ると、大理石の張られた豪華な洗面台と、指紋や歪み一つない大きな鏡。奥には硝子窓の扉が一つあり、鈍色の取っ手を回すと浴室に繋がっていた。
なかは美しい硝子のタイル貼りで、傷はおろか染み一つ無い。ティカが足を踏み入れただけで、汚してしまいそうだ。
「こらこら、逃げるんじゃない」
「ッ!?」
恐れ多くて、浴室から飛びだそうとしたティカの襟を、ヴィヴィアンはぐいと引っ張った。
「十四にしては言動が幼いよね……まぁ、いいけれど」
首がしまって苦しい。ティカが咳きこむと、ヴィヴィアンは襟から手を離し、詫びるように何度か頭を撫でた。だがすぐに手を離すと、掌を見つめて目を眇めた。
「……いいかい、ティカ? 君は今、これ以上はないというほど、致命的なまでに汚れているんだよ――判ったら、今すぐ身体を洗え」
後半は、声に本気が滲んでいた。
「ア、アイ、キャプテン!」
慌てて素っ裸になり、浴室に飛びこむと、彼は満足そうにほほえんだ。恐縮するティカに、湯のだし方から張り方まで丁寧に教えてくれる。
シャワーヘッドから降り注ぐ、霧雨のような湯を掌に受けて、ティカは賛嘆のため息をはいた。
「すごい……お湯がでてくる」
「ふふふ、アンティークな四檣 バーク型帆船と見せかけた、違法すれすれの魔導改造船だからね。ヘルジャッジ号はバビロンも唸る、現代技術の粋 だよ」
ティカは不得要領に頷いた。正直、何のことだかまるで判らなかったけれど、この船の凄さは何となく伝わった。
「でも、身体を洗うために、お湯を使っていいんですか? 船の上なのに」
ヴィヴィアンは得意そうに頷いた。
「構わないよ。半年分の貯水タンクがあるし、海水を水に変換する装置も備えているからね。とはいえ、こんな船うちだけだから。船乗りの心得として、水は大切に使いな」
「アイ、キャプテン」
「ここに着替えを置いておくよ。急がなくていいから、全身よく洗ってからでてくるように」
「ありがとうございます……」
一人になると、改めてバスルームを見渡して頬を引きつらせた。足元をみれば、泥と垢で早速タイルを汚している。綺麗になるには、時間がかかりそうだ。
「よし、頑張るぞ」
孤児院にいた時は、共同浴場で十五分の間に、何もかも洗い終えなければならなかった。あそこでは、ごわごわしたタワシと固形の石鹸を使っていたが、ここにはそれらしきものが一つも見当たらない。いい香りのする硝子や陶器のボトルなら、幾つもあるけれど……
陳列した真鍮の小箱をパカパカと開けて、ようやく石鹸らしきものを見つけた。お目にかかったこともないクリーム色で、美味しそうな蜂蜜の香りがするが、擦ったらちゃんと泡立った。
叩きつけるような嵐に打たれていたから、汚れなんて大してないだろうと思ったけれど違った。身体を湯で流すたびに、黒く濁った汚水が流れていく。
(僕ってば、汚いなぁ~)
砂と脂のこびりついた髪は、三度も洗わねばならなかった。身体も二回洗い流し、念のため、足の裏はもう一度洗った。
それにしても、石鹸のなんと良い香りであることか。清涼な匂いと、甘い蜂蜜の匂いが絶妙に混ざり合っている。
(サーシャにも使わせてあげたいな……)
石鹸に夢中になっていたティカは、ふと哀しい気持ちになった。
たった二十四時間の間に、何といろんなことが起きたことか。
十年以上過ごした孤児院の生活を、惜しいとは欠片も思わないけれど、サーシャとの別れを想うと、今も胸が張り裂けそうなほど軋む。
彼女があと一日生きていれば、一緒にヘルジャッジ号に乗れたかもしれない。そうしたら、どんなに良かったろう……
サーシャの発熱は七日も続き、五日目を越えたあたりから、大人達はサーシャを救うことを諦めてしまった。
静かな病室に移されてから、最後まで彼女の枕元に張りついていたのはティカだけだ。
今頃、幸福館では彼女の弔いの準備をしているだろう。皆の人気者だったから、子供達も泣いているはずだ。
“……幸福館には二度と戻らないで”
サーシャの忠告が脳裏を過った。ティカは頭を一つ振り、桶に湯を汲んで、勢いよくかぶった。何度も、何度も。泡も垢も頬を伝う涙も、何もかもを洗い流した。
すっかり身綺麗になって外へでると、用意された清潔な服――上は柔らかい白の木綿のシャツ、下は細身の焦げ茶色のズボンに着替えた。ご丁寧にバックルのついたブーツまである。
レースを捲り部屋に戻ると、青いクロスのかけられたサロン・セットの猫脚テーブルに、美しい銀食器やグラスがセットされていた。
「キャプテン、着替えました……」
長い足を組んで椅子に座り、優雅に葡萄酒を飲んでいたヴィヴィアンは、綺麗になったティカを見てにっこりした。
「さっぱりしたかい?」
「はい」
「それは良かった。さぁ、座って。ティカの門出に祝杯をあげよう」
「……」
「どうしたの? 元気ないね」
俯いたまま、ティカはぽろぽろと涙を零した。
「サーシャは死んじゃったのに、僕は綺麗な服を着て、ご馳走を食べれるなんて……どうして、こんなに不公平なんだろう!」
「サーシャか。ティカの大切な子なんだね」
「僕と違って、文字が読めるし賢いんです! それに優しくて……っ……皆が僕を笑っても、サーシャだけは絶対に笑わなかった……っ」
「どうして笑われるの?」
「とろくて、不器用だから。それに、肌が茶色いから……その、キャプテンはとても綺麗だけど、僕は、顔中そばかすだらけで……」
気まずくなり、俯いて足元を見つめていると、ヴィヴィアンの立ちあがる気配がした。彼は傍までやってくると、涙に濡れたティカの頬を両手で包みこんだ。
「そんなもの、欠点だと思わなければいい。星が瞬いているみたいで、チャーミングじゃない」
思わずティカは微妙な顔になった。
「ここは世界の寄港地だよ? いろんな肌の船乗りが子供をつくっていくんだから、肌の茶色い子なんてそこら中にいたろ? 気にしてどうする。俺だって、うちの船員だってそうだ」
「……はい」
確かに、ここへ着いてからいろんな人を見かけた。波止場で釣りをしていた子供も、強面のサディールやオリバーも黒い肌をしている。
「いいかい? 誰かを想うのなら、顔をあげてしっかり立ちな。泣いたって腹が空くだけだ。いつでもご馳走を食べれるとも限らないんだ。子供が遠慮してどうする。しっかり食べて、力をつけて、サーシャの分まで精一杯生きるんだ。男がそう簡単に泣くんじゃない」
大きな手が、ティカの濡れた髪をくしゃくしゃに掻きまわした。サーシャがするみたいに――
「アイ……ッ!」
涙や鼻水を垂れ流したまま、ぐしゃぐしゃの顔で微笑むと、汚いなぁ! とヴィヴィアンは笑いながら、清潔なタオルで顔を拭いてくれた。
「それじゃ、昼食にしようか」
ヴィヴィアンが銀の鈴を鳴らすと、すぐに背の高い無愛想な男が、銀のカートを引いて部屋に入ってきた。まるで部屋の外で待機していたようなタイミングの良さだ。
「彼はギー、この船の料理長を務めてる。ギー、ティカだよ」
男は、硝子玉のような赤目でじろりとティカを睨んだ。ぺこりとティカが会釈すると、どうでも良さそうに視線を逸らし、淡々と給仕を続けた。
「愛想はないが、腕は確かだ。新鮮な食材を仕入れたばかりだし、味の保障はするよ。さぁ、食べよう」
ティカは泣き笑いを浮かべた。
これほど高級な料理を見たことがない――透けそうなほど白い、イカのスライス。エビや貝に、茹でたじゃが芋を添えた海の幸のサラダ。湯気の立つ、小エビをあえたパスタ。香ばしいスズキのグリル。触れたら折れそうな薄いグラスには、辛口の白ワイン、ガス入りのミネラル・ウォーターが注がれている。
入り口には、黄色いマーガレットの植木鉢と、涼しげなパーム・ツリーの鉢が置かれている。レースを
なかは美しい硝子のタイル貼りで、傷はおろか染み一つ無い。ティカが足を踏み入れただけで、汚してしまいそうだ。
「こらこら、逃げるんじゃない」
「ッ!?」
恐れ多くて、浴室から飛びだそうとしたティカの襟を、ヴィヴィアンはぐいと引っ張った。
「十四にしては言動が幼いよね……まぁ、いいけれど」
首がしまって苦しい。ティカが咳きこむと、ヴィヴィアンは襟から手を離し、詫びるように何度か頭を撫でた。だがすぐに手を離すと、掌を見つめて目を眇めた。
「……いいかい、ティカ? 君は今、これ以上はないというほど、致命的なまでに汚れているんだよ――判ったら、今すぐ身体を洗え」
後半は、声に本気が滲んでいた。
「ア、アイ、キャプテン!」
慌てて素っ裸になり、浴室に飛びこむと、彼は満足そうにほほえんだ。恐縮するティカに、湯のだし方から張り方まで丁寧に教えてくれる。
シャワーヘッドから降り注ぐ、霧雨のような湯を掌に受けて、ティカは賛嘆のため息をはいた。
「すごい……お湯がでてくる」
「ふふふ、アンティークな
ティカは不得要領に頷いた。正直、何のことだかまるで判らなかったけれど、この船の凄さは何となく伝わった。
「でも、身体を洗うために、お湯を使っていいんですか? 船の上なのに」
ヴィヴィアンは得意そうに頷いた。
「構わないよ。半年分の貯水タンクがあるし、海水を水に変換する装置も備えているからね。とはいえ、こんな船うちだけだから。船乗りの心得として、水は大切に使いな」
「アイ、キャプテン」
「ここに着替えを置いておくよ。急がなくていいから、全身よく洗ってからでてくるように」
「ありがとうございます……」
一人になると、改めてバスルームを見渡して頬を引きつらせた。足元をみれば、泥と垢で早速タイルを汚している。綺麗になるには、時間がかかりそうだ。
「よし、頑張るぞ」
孤児院にいた時は、共同浴場で十五分の間に、何もかも洗い終えなければならなかった。あそこでは、ごわごわしたタワシと固形の石鹸を使っていたが、ここにはそれらしきものが一つも見当たらない。いい香りのする硝子や陶器のボトルなら、幾つもあるけれど……
陳列した真鍮の小箱をパカパカと開けて、ようやく石鹸らしきものを見つけた。お目にかかったこともないクリーム色で、美味しそうな蜂蜜の香りがするが、擦ったらちゃんと泡立った。
叩きつけるような嵐に打たれていたから、汚れなんて大してないだろうと思ったけれど違った。身体を湯で流すたびに、黒く濁った汚水が流れていく。
(僕ってば、汚いなぁ~)
砂と脂のこびりついた髪は、三度も洗わねばならなかった。身体も二回洗い流し、念のため、足の裏はもう一度洗った。
それにしても、石鹸のなんと良い香りであることか。清涼な匂いと、甘い蜂蜜の匂いが絶妙に混ざり合っている。
(サーシャにも使わせてあげたいな……)
石鹸に夢中になっていたティカは、ふと哀しい気持ちになった。
たった二十四時間の間に、何といろんなことが起きたことか。
十年以上過ごした孤児院の生活を、惜しいとは欠片も思わないけれど、サーシャとの別れを想うと、今も胸が張り裂けそうなほど軋む。
彼女があと一日生きていれば、一緒にヘルジャッジ号に乗れたかもしれない。そうしたら、どんなに良かったろう……
サーシャの発熱は七日も続き、五日目を越えたあたりから、大人達はサーシャを救うことを諦めてしまった。
静かな病室に移されてから、最後まで彼女の枕元に張りついていたのはティカだけだ。
今頃、幸福館では彼女の弔いの準備をしているだろう。皆の人気者だったから、子供達も泣いているはずだ。
“……幸福館には二度と戻らないで”
サーシャの忠告が脳裏を過った。ティカは頭を一つ振り、桶に湯を汲んで、勢いよくかぶった。何度も、何度も。泡も垢も頬を伝う涙も、何もかもを洗い流した。
すっかり身綺麗になって外へでると、用意された清潔な服――上は柔らかい白の木綿のシャツ、下は細身の焦げ茶色のズボンに着替えた。ご丁寧にバックルのついたブーツまである。
レースを捲り部屋に戻ると、青いクロスのかけられたサロン・セットの猫脚テーブルに、美しい銀食器やグラスがセットされていた。
「キャプテン、着替えました……」
長い足を組んで椅子に座り、優雅に葡萄酒を飲んでいたヴィヴィアンは、綺麗になったティカを見てにっこりした。
「さっぱりしたかい?」
「はい」
「それは良かった。さぁ、座って。ティカの門出に祝杯をあげよう」
「……」
「どうしたの? 元気ないね」
俯いたまま、ティカはぽろぽろと涙を零した。
「サーシャは死んじゃったのに、僕は綺麗な服を着て、ご馳走を食べれるなんて……どうして、こんなに不公平なんだろう!」
「サーシャか。ティカの大切な子なんだね」
「僕と違って、文字が読めるし賢いんです! それに優しくて……っ……皆が僕を笑っても、サーシャだけは絶対に笑わなかった……っ」
「どうして笑われるの?」
「とろくて、不器用だから。それに、肌が茶色いから……その、キャプテンはとても綺麗だけど、僕は、顔中そばかすだらけで……」
気まずくなり、俯いて足元を見つめていると、ヴィヴィアンの立ちあがる気配がした。彼は傍までやってくると、涙に濡れたティカの頬を両手で包みこんだ。
「そんなもの、欠点だと思わなければいい。星が瞬いているみたいで、チャーミングじゃない」
思わずティカは微妙な顔になった。
「ここは世界の寄港地だよ? いろんな肌の船乗りが子供をつくっていくんだから、肌の茶色い子なんてそこら中にいたろ? 気にしてどうする。俺だって、うちの船員だってそうだ」
「……はい」
確かに、ここへ着いてからいろんな人を見かけた。波止場で釣りをしていた子供も、強面のサディールやオリバーも黒い肌をしている。
「いいかい? 誰かを想うのなら、顔をあげてしっかり立ちな。泣いたって腹が空くだけだ。いつでもご馳走を食べれるとも限らないんだ。子供が遠慮してどうする。しっかり食べて、力をつけて、サーシャの分まで精一杯生きるんだ。男がそう簡単に泣くんじゃない」
大きな手が、ティカの濡れた髪をくしゃくしゃに掻きまわした。サーシャがするみたいに――
「アイ……ッ!」
涙や鼻水を垂れ流したまま、ぐしゃぐしゃの顔で微笑むと、汚いなぁ! とヴィヴィアンは笑いながら、清潔なタオルで顔を拭いてくれた。
「それじゃ、昼食にしようか」
ヴィヴィアンが銀の鈴を鳴らすと、すぐに背の高い無愛想な男が、銀のカートを引いて部屋に入ってきた。まるで部屋の外で待機していたようなタイミングの良さだ。
「彼はギー、この船の料理長を務めてる。ギー、ティカだよ」
男は、硝子玉のような赤目でじろりとティカを睨んだ。ぺこりとティカが会釈すると、どうでも良さそうに視線を逸らし、淡々と給仕を続けた。
「愛想はないが、腕は確かだ。新鮮な食材を仕入れたばかりだし、味の保障はするよ。さぁ、食べよう」
ティカは泣き笑いを浮かべた。
これほど高級な料理を見たことがない――透けそうなほど白い、イカのスライス。エビや貝に、茹でたじゃが芋を添えた海の幸のサラダ。湯気の立つ、小エビをあえたパスタ。香ばしいスズキのグリル。触れたら折れそうな薄いグラスには、辛口の白ワイン、ガス入りのミネラル・ウォーターが注がれている。