メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

1章:出会いと出航 - 10 -

 扉をノックする音が鳴り、会話は中断された。
 どうぞ、とヴィヴィアンが声をかけるなり、不機嫌そうな顔をしたシルヴィーが部屋に入ってきた。
「おい、ヴィー、いつまで休憩しているつもりだ?」
 ヴィヴィアンは悪戯っぽい顔になり、シルヴィーを指さしてティカを見つめた。
「ティカ、さっき紹介した航海士のシルヴィーだよ。迷信深い男でね、夢に見た些細な内容にまで意味を見出すような性質たちなんだ」
「何の話だ?」
 彼は細めた蒼氷色アイス・ブルーの瞳で、冷ややかにヴィヴィアンを睨んだ。
「無限幻海に眠る古代神器について、説明していたところだよ」
 軽い調子でヴィヴィアンが応えると、シルヴィーはティカを見て、訝しげに眉をひそめた。
「一体、何を吹きこんだんだ? 眼を輝かせているじゃないか。一攫千金の夢話でも聞かせたんじゃないだろうな」
「浪漫だよ。いいじゃない、普段は真面目に仕事をしているんだから、少しくらい寄り道したって」
「どこが少しだ! アンデル海峡を越えられるのは今だけなんだぞ。わざわざ敵国の無限幻海に押し入って、確実に得られる五千万ルーヴの儲けを捨てるっていうのか」
 シルヴィーは、苛立たしげに腕を組んでヴィヴィアンを睨んだ。
「制海権は決まってないよ。それに、たったの五千万ルーヴ! 古代神器を手にすれば世界が手に入る」
 クールな航海士が凄んでも、ヴィヴィアンはどこ吹く風だ。芝居がかった動作で両腕を広げてみせる。
「手に入らない方に、言い値で賭けてやる」
「そりゃすごい」
「俺は本気だ。仮に手に入れたところで、アンタみたいに下心のある奴が触れば、伝説通り“空は落ちて、海は割れる”に決まっている。世界を恐怖に突き落とすのはやめろ」
「そんなことをいって、もっと悪い奴が手にしたらどうするんだ?」
「なら、そいつを今すぐ渡せ。砲弾と一緒に海の彼方に沈めてやる」
 シルヴィーはヴィヴィアンの首にぶら下がる“無限幻海の鍵”を指差すと、凍りつきそうな眼差しで睨んだ。
「シルヴィー。せっかく、ティカという幸運を手に入れたんだ」
 ヴィヴィアンは宥めるような調子でいった。
「ジョー・スパーナの傘下が港をうろついているらしい。“鍵”を持っている限り、楽しい追いかけっこだ。俺はもう、うんざりだね!」
「ロザリオは楽しんでるよ」
「戦闘狂と一緒にするな。おれは堅実に稼ぎたいんだ」
「堅実って……俺達、一応海賊なんだけど」
 シルヴィーも妙なことをいったと思ったのか、視線を逸らした。再びヴィヴィアンに眼を戻すと、とにかく、と神経質そうに続けた。
「嵐は去った。荷積みも終わった。出航準備はできている。後はあんたが確認して、一言命令すれば王都ともお別れだ」
「流石、仕事が早い」
「ふん、今夜はふらふら出掛けるんじゃないぞ。働く気がないなら、いっそここから出るな。それから、幸運の象徴だか何だか知らないが、見習い水夫を丸めこむのはやめろ。働かざる者、食うべからずだ。判ったな?」
 シルヴィーは苛立ちを隠しもせずいい捨てると、革靴の拍車を鳴らして部屋をでていった。思考回路がのんびりしているティカは、欠片もついていけなかった。
 ぽかんとしている少年を見て、ヴィヴィアンは小さく笑った。だいだいの瞳を見つめて、もっともらしく頷いてみせる。
「商人魂の鏡みたいな男だろう? でも親友なんだ。俺の冒険魂を理解してくれたら最高なんだけど……まぁ完璧な人間なんていやしないってことだ」
「海賊なのに、商人魂を持っているんですか?」
「有能な海上商人だっていったろ? 戦利品を換金することもあるし、遠くで仕入れた珍しい商品を余所に卸すこともあるからね。航海に商売はつきものだよ」
 海上商人……しかし、戦利品という響きは、何だか海賊らしい。
「ティカは人間だよね?」
 唐突な質問に、ティカはきょとんとした。そうだよね、とヴィヴィアンは独りごちると、羅針盤をしみじみと眺めた。
「針はティカの何に反応したんだろう。古代精霊でなければ動かせないと思っていたんだけど……」
「?」
「この羅針盤は、精霊王が作ったという説があるんだ。それによると、全部で三つあるらしい。一つは俺が目指している無限幻海、一つはバビロンの支配する空中庭園、最後の一つは前人未踏の地、精霊界ハーレイスフィアにある聖世界樹……全ての力を手に入れた者は、精霊王になれるという。神にも等しい力を手にするってことだ」
 ティカは表情を変えずに、目を瞬いた。
「……判ってないね?」
「はい」
 即答すると、ヴィヴィアンは笑った。
「信じてもらえないかもしれないけど、別に力が欲しいわけじゃないんだ。謎があれば解き明かしたくなるし、秘密があれば暴きたくなる……そういう性格なんだよ」
「信じますよ」
「そう? ねぇ、少しだけ血をもらってもいい?」
「えっ?」
「大丈夫、痛くしない」
 いうが早いか、ヴィヴィアンは銀色の短剣を鞘から抜いた。ティカの右手を掴んで、尖った剣先を人差し指の腹に近付ける。
「――っ」
 剣先で突かれた指先に血が滲んだ。確かに、思ったよりは痛くなかった。
 彼が血に濡れた剣先に手を翳した途端に、金色に輝く光の屑があたりに散って、を成した。大気に漂う魔力――エーテルが燃えている証拠だ。こんなことができる人は限られている。
「キャプテンは、魔術師なんですか!?」
「さてね……うん。やっぱり人間だよね」
 ティカは思わず変な顔をした。そんな判りきったことを調べる為に、剣で突かれたのだろうか?
 人差し指を吸っていると、ヴィヴィアンは透明フィルムに包まれたチョコレートを数粒手にとり、ティカに握らせた。
「よしよし、ごめんよ。チョコレートをお食べ」
 ティカは痛みも忘れて、満面の笑顔でいった。
「ありがとうござます!」
「どういたしまして……さて、シルヴィーがぶち切れる前に仕事をするか。ティカは主甲板にサディールがいるから、探して声かけな」
「アイッ、キャプテン!」
 ティカは背筋を伸ばし、張り切って答えた。