メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

17章:極光蚕白の涙 - 1 -

 二十時間前。ヘラージョ・アプリティカの帰り道。
 オデッサの歌で皆が眠りに落ちたあと、アダムに指示された工作員たちは、不気味に忍び寄ってきた。
 彼等は馬車の扉を開けて、ヴィヴィアンと折り重なるようにして倒れているティカを見つけると、先ずティカを静かに運びだした。その間もずっと、オデッサは虚ろな表情で歌を紡いでいたが、彼等は耳栓をしているようで、オデッサの歌に動じることはなかった。
 ティカを運びだしたあと再び戻ってくると、おもむろに剣を抜いた。なかにいるヴィヴィアンを殺すつもりであることは明白だった。
 工作員の一人が馬車の扉を大きく開いた。白銀の煌めきがオデッサの視界に映る。
 その瞬間、彼女は自我を取り戻した。緊迫した状況を読み取り、
「やめてッ!」
 鋭い声に、男たちの動きが一瞬止まる。慌ててヴィヴィアンを殺そうと、なかへ押し入ろうとするが、
「ぐっ」
 逆に胸を足蹴にされて、吹き飛んだ。ヴィヴィアンは旧式の回転拳銃を抜いて発砲すると、まだ意識のある男の前で膝をつき、
「ティカをどこへやった?」
「……う、ぐっ」
 男は何かをいおうとしたが、不自然に血の泡を吹いて事切れた。口から流れる血を見て、ヴィヴィアンは眉をひそめた。あらかじめ毒を盛られていたのだろう。
「閣下、お気をつけてッ……ひぁっ!」
 護衛兵の声がした方を振り向くと、彼は短剣で首を切られ、膝からくずおれるところだった。殺した相手、黒い外套を羽織った巨躯の男は、暗闇から金色に光る獣じみた瞳でヴィヴィアンを見た。前に教会の帰り道で襲撃してきた合成獣キメラだ。
「ティカをどこへやった?」
 ヴィヴィアンは油断なく銃を構えた。銃身に施された真鍮装飾が、月光を浴びてきらりと光る。銃口を向けつつ、前に発砲した時は、弾丸が通用しなかったことを思いだした。
「もう一度訊く。ティカを、どこへやった?」
 ゆっくりと威圧的にいったが、男は答えようとしない。その背後から外套を羽織った三人の新手が現れ、ヴィヴィアンを取り囲んだ。跳躍に備えて大腿に力を漲らせる獣のように、彼等がぐっと腰を落とした時、澄んだ声が聴こえた。
 オデッサが歌っている。
 ヴィヴィアンは銃を構えたまま、いっそ彼女の水槽ごと壊してしまおうか狂暴な念に駆られたが、すぐに彼女の歌の性質・・に気がついた。
(俺には効いていない。合成獣キメラを攻撃しているのか!)
 彼女の声は無差別に放たれるとばかり思っていたが、特定の相手だけを狙うこともできるらしい。獣じみた狂乱の声をあげながら、巨躯はその場に蹲り、かきむしるようにして外套を脱いだ。
 月光に照らされる醜悪な姿を見て、ヴィヴィアンのなかに漠とした嫌悪が芽生えた。生物兵器と称して、連中はこんなものを生みだしたのか――
 殺意というよりは、救済の念からヴィヴィアンは古い古い言葉を紡ぎ、弾丸に精霊界ハーレイスフィアに眠るエーテルの力をこめた。哀れな合成獣キメラたちを照準する。
 夜の森に、四発の銃声がこだました。
 辺りに静けさが戻った時、オデッサは硝子の扉を叩いた。振り向いたヴィヴィアンと目があうと、尾ひれを使って水面から顔を覗かせる。
 光を宿した神秘的な瞳を見て、ヴィヴィアンはこんな時だというのに、賞賛の念を抱いた。確かにティカのいった通り、この世に二つとない稀有けうな瞳をしている。
「アダムよ! あいつがティカを攫うように命じたの。取引に使うつもりなのよ。私なら、ティカの行方を追えるわ」
「どうやって?」
「今も、ティカの気配を感じるの。彼、海の上にいるのよ。私も海へ入れば、もっとはっきり判るわ」
 ヴィヴィアンは思案げな表情になった。
「君は泳げるのかい?」
 オデッサは頷いた。
「大丈夫だと思う」
 彼女はアダムの陰謀について語り、心臓に装置をつけられていることを明かした。
「君を信じよう。そうと決まれば時間がない。急ごう」
 ヴィヴィアンは直感的に即決し、きわめて迅速に行動した。先ず馬車の荷台から発煙筒――仲間内で緊急時の目印にしている、特殊な発煙筒である――を取りだし、空に向かって発砲した。
 有事に備えて、あらかじめ決めておいた緊急信号である。
 目にした仲間は、各々の任務を可及的速やかに全うしなければならない。
 すなわち、陽動部隊はアダムの館を襲撃する。派手に暴れて、憲兵の目を可能な限り引きつける。
 そうして軍港が手薄になったところで、ユヴェールとサディールの率いる戦闘部隊で軍艦を占拠する。アダムの船とやりあう本命戦力の調達である。
 同時進行で、シルヴィーはギガントマス造船所に連絡をとり、気球を――密かに買いつけたもので、造船所で預かってもらっている――を運びだす。港から離れた地点で準備を整えて待機。
 ヴィヴィアンはオデッサを海まで運び、それからシルヴィーたちと合流し、気球に乗って高速移動する算段だ。
 時間との勝負、直感と度胸と腕っぷしが必要だったが、エステリ・ヴァラモン海賊団は本番に強かった。
 ティカが奮闘して開けられなかったオデッサの檻の蓋を、ヴィヴィアンは手で触れることなく、魔術によって開けた。そのまま檻は海へと沈められ、オデッサはついに檻から脱出することができたのだった。
 彼女は海に入った途端に、不思議な高揚感を覚えた。
 檻――全世界のように感じていた狭い箱を飛びだして、初めての海を味わう。水中で大きく旋回したあと、海面から顔をだし、感謝の眼差しをヴィヴィアンに向けた。
「ティカの気配を感じるわ」
「彼は無事なのか?」
 オデッサは難しい表情を浮かべた。
「まだ判らないわ。追いかけていけば、声を聞けるかもしれない。私たちは前にも、離れたところから会話をしたことがあるのよ」
 その話はティカから聞いたことがあったので、ヴィヴィアンは信じた。
「もし声が聴こえたなら、こう伝えてくれ。絶対に助けると」
「判ったわ。必ず伝える」
 自信をもって請け負うオデッサを見て、ヴィヴィアンは頷いた。
「よし。仲間は船で追いかける。俺は気球で飛んでいくから、先導してくれ」
 オデッサは力強く頷いた。
 彼女が海面に潜って、尾ひれを自在に動かし沖に向かって泳いでいく姿を見届けると、ヴィヴィアンも踵を返した。
 道すがら、煙が、真夜中の空に乳白色の筋となって立ち昇っているのが見えた瞬間、ヴィヴィアンはかすかに安堵したように表情を緩めた。
(シルヴィー、判ってくれたか)
 発煙筒による情報を正確に読み取り、彼は適格に動いてくれたのだ。
 丘陵きゅうりょうに近づくにつれて、膨らんだ気球が見えてきた。シルヴィーは既に到着しており、いつでも出発できる準備が整っていた。
「やぁ、お待たせ」
 悠然とやってくるヴィヴィアンを見て、シルヴィーの顔に警戒の色が浮かんだ。
「本当に乗る気か?」
「もちろん。準備は万端じゃないか」
「あんたにいわれたからだ。まさか、あの信号が使われるとは思っていなかったぞ。とにかく手筈は整えたが、いまいち信用できん」
「ありがとう、シルヴィー。完璧だ。最新鋭の気球だよ、性能は保証する」
「そういう問題じゃない。海賊船の航海士になって五年経つが、まさか空を飛ぶことになるとは思わなかったな」
 ヴィヴィアンはにやりと笑った。
「いずれバビロン帝国にもいくんだ。予行演習と思えばいいさ」
 そういって膨らんだ気球の籠に飛び乗った。ロザリオも乗りこみ、作業員も二人乗り、最後にシルヴィーも渋々乗りこんだ。
 立っている姿勢を崩さぬよう、慎重に気を配っているシルヴィーの横で、ロザリオは籠に背を預けて煙草に火を点けると、ゆっくりと紫煙を吐きだした。
「おい、比重が偏るだろう」
 シルヴィーは文句をいったが、ロザリオは肩をすくめただけだった。
「心配するな、そう簡単に傾いたりしないさ。今日はいい風が吹いている、船より早いぞ!」
 ヴィヴィアンは自信たっぷりにいった。
「だといいが……」
 シルヴィーはぶつぶついっているが、ヴィヴィアンは構わずにネットからストーヴを入れた針金の腕金をいったんはずし、魔術により消えぬ火を点け直してから戻すと、その五、六フィート下の気球の開いた口のところに火桶をかけた。煙突を気球の中につっこみ、火桶の方へ滑り落ちるように調節する。強い青い焔からでる熱気が、直接気球の中へ送りこまれた。
「さぁ、月夜の旅行と洒落こもうじゃないか――いざ飛びいかん!」
 ヴィヴィアンは叫ぶと同時に、繋ぎ留めているロープを切った。気球は、たちまち月光のなかへ舞いあがった。
 ぐんぐん昇っていく――家も、街路樹も、丘も眼下にみるみる間に収縮していった。
 上昇すると東からの順風に乗り、その速度たるやなかなかのもので、ヴィヴィアンのいった通り、空を飛んであっという間に海洋にでた。
 ちょうど、軍艦が沖に向かってでていくところのようだ。さらにその先を、オデッサが泳いで先導している様子が見てとれた。
 彼女は水先案内人よろしく、海面に潜ったかと思うと、また海面から顔をのぞかせ、船に正しい進路を教えている。
「あの方向……アダムは本当にビスメイルにいくつもりか」
 ヴィヴィアンは嫌そうにこぼした。
「それより、オデッサは信用できるのか? あんたを嵌めた相手だぞ」
「彼女の意志じゃない。アダムに弱みを握られているんだ」
「嘘をついている可能性は?」
「瞳を見れば判るさ」
 ヴィヴィアンの言葉に、シルヴィーは彼の瞳を見た。青い瞳に、金色の粒子が浮かぶ。世にも稀な魔性の瞳に、シルヴィーは口を閉ざした。
「まぁ、いってみよう」
 ヴィヴィアンはシルヴィーの肩を叩いた。ロザリオは我関せず、気球の籠に腕をかけて煙草を吸っている。
 時折、ヴィヴィアンは傍のネットにつるした紙のバラスト袋から砂を落とした。気球のてっぺんにある排気弁を開いて熱い空気を逃がしたり、ストーヴの焔を調節したりした。
 やがて気球の高度を落とし、長い緩やかな弧を描いて降下すると、気圧の変化を体感することができた。
 シルヴィーも次第に状況に慣れ、さしもの緊張も緩み始めるのだった。