メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

16章:セイレーン - 1 -

 十一月十日。小春日和の昼下がり、四時を少し回ったところ。ヴィヴィアンたちは隠れ家に集まり、今後の計画を練っていた。
「証拠がそろった。アダムは裏競売会を仕切っていて、人魚を競売にかけるつもりだ」
 シルヴィーは樫の机に資料を並べながらいった。
 低く傾いた午後の陽光が、彼の背後から眩い光を投げかけているので、アマディウスは眩しそうに目を細めながら、人魚? と訊き返した。
「人工の合成獣キメラだ。ヴィーを襲った連中も、合成獣キメラかもしれない」
「そんなものが本当に存在するとしたら、世の脅威だね」
 ヴィヴィアンは肩をすくめていった。
「アダムに人魚を供給しているのは、どこの国にも属していない、オーディルニティという闇の極秘組織だ。王子殿下のいった通りだな」
「その組織を作った人間は、犯罪史上最高峰に位する悪の天才だね」
 ヴィヴィアンがふざけるので、シルヴィーはむっとしたように睨んだ。
「真面目に聞けよ」
「聞いているさ。他に情報は?」
 ユヴェールは顔をあげると、何枚かの資料を机の上に広げてみせた。
「アダムは今年に入って何度か、オーディルニティと連絡をとっていたようです」
 ヴィヴィアンたちは紙面を覗きこみ、時系列に記されたアダムの外出や会合の日程に目を走らせた。
「こちらが招待状です」
 そういってユヴェールは、金箔の施された四角いカードをさしだした。秘密の競売会の招待状である。彼は、プリシラやジゼルと共にアダムに言葉巧みに近づき、招待状を手に入れていたのである。
 ヴィヴィアンは紫煙をくゆらせながら招待状を眺めていたが、やおら顔をあげて、
「ふーむ……評判通りの高邁こうまいな学者ではなかったわけだ。彼は、研究者として、禁断の領域に足を踏み入れてしまったのかね?」
「かもな。で、どうするんだ?」
 シルヴィーの問いに、全員の視線がヴィヴィアンに集中する。緊張を孕んだ沈黙が広がるなか、彼は陶製のパイプを置くと、最後の煙を吐きだした。小気味よく膝を叩き、
「よし、きっぱり手を引こう」
 彼の言葉を聞いて、ティカは思わず一歩進みでた。
「オデッサは?」
「彼女を救うのは、ちょっと無理そうだ。かわいそうだけど、相手が悪すぎる」
「そんなっ」
 不満げに憤るティカの頭を、ヴィヴィアンは宥めるように撫でた。
「その子は、人の手で生みだされた芸術品なんだよ。誰かが面倒を見なくちゃ、一人では生きてはいけない」
「芸術品って、」
「競売会に並んで、裕福な資産家の目に留まれば、もっと広い水槽で安全に暮らせるかもしれないよ」
 ティカは盛大に顔をしかめた。どれだけ広い水槽だって、海の広さには及ばない。合成獣キメラだからといって、芸術品という言葉で片付けるヴィヴィアンに腹が立った。
「彼女は生きているんです! 尊い海の精霊の加護を受けているんですよ、軽んじたら罰があたります!」
「まぁ、ティカが怒る気持ちも判るよ。だけど、彼等と揉めるのはリスクが大きすぎる」
「でも! 助けるって約束したんです。このままだと、どんな目にあわされるか――」
「ごめんね、ティカ。そのお願いは聞いてあげられない」
 穏やかな声だが、確固たる意志がこめられており、ティカは戸惑った。蒼白な顔で黙りこむティカを見て、ヴィヴァンは溜息をついた。
「ねぇ、ティカ。人魚といっても古代精霊ティタニアじゃない。何度もいうようだけれど、人の手で造られた、合成獣キメラなんだよ?」
 ティカの顔が苦しげに歪んだ。そばかすの散った顔に裏切られという思いをくっきりと浮かべ、哀願するようにヴィヴィアンを見つめた。
「……オデッサは人魚です。あんなにも綺麗な歌声なんですから。ちゃんと水中で息もしていました」
「うん、きっと外見は人魚そのものなんだろうね。でも違う。人間と魚をかけあわせて造られた、模造品だ。ティカの思っている人魚とは、全く異なる別物だよ」
「人間と魚のかけあわせて? そんなことができるんですか?」
「倫理的な観点から禁じられているが、理論的には可能だね」
「でも、誰が、何のために? 人魚が好きだから?」
 ヴィヴィアンは理解不能という顔をしているティカの手をとり、じっと見つめた。
「鑑賞用の奴隷として、売るんだよ。アダム・バッスクール商会は特殊な人身売買をしているのさ」
「鑑賞用……?」
「そうだよ。美しい水槽に美しい生き物を入れて、人に見せて自慢したり、個人的な満足のために部屋に飾って鑑賞するんだよ」
 ティカは言葉がでてこなかった。ヴィヴィアンは困ったような顔になり、弁解口調で続けた。
「哀れな合成獣キメラを助けたところで、精霊界ハーレイスフィアに帰れるわけじゃない。かといって人間社会にも受け入れられない。非情に聞こえるかもしれないけれど、どこかの優しい金持ちに買われて、面倒を見てもらうことが、考えうる最良の道だ」
「そんな……オデッサは一生、自由に海を泳げないんですか?」
「……そうだね」
「どうして、そんなに酷いことをするの?」
 純粋な質問に、ヴィヴィアンは一瞬言葉を躊躇った。
「……この世には、とことんいかれている人間がいるんだよ」
「ヴィーはおかしいと思わないんですか?」
 ヴィヴィアンは肩をすくめて、
「そりゃあ、偉大なる命の書への冒涜ぼうとくだと思うよ。人間は神になれやしないのに、思想からして罪悪だ。生みだす過程を考えるとぞっとする。児戯のように相反するものを一つに繋げて……どれほどの失敗を繰り返したことか」
「ヴィーなら、解決できませんか?」
 ティカは哀願するようにヴィヴィアンを見つめた。
「アダムは何世紀も昔から、闇の世界で商売を続けてきた。いいかい――」
 青い瞳がきらりと光る。彼は穏やかな、けれどきっぱりとした声で説明を続けた。
「彼は、山ほど奴隷を抱えているんだ。今もどこかのオークションで、別の合成獣キメラや人間が売られている。国家規模の戦争を起こす覚悟で、連中を根絶やしにでもしない限り、根本的な解決は無理なんだよ」
「……僕なら、できませんか? 彼に魔法をかけて、合成獣キメラを作らないって約束させれば!」
 ヴィヴィアンは注意深くティカを見つめた。
「魔法を過信してはいけないよ。それに、目立った行動をとれば、世界中の権威者から狙われることになる」
「でもっ!」
「ティカの魔法が公になれば、欲の亡者共が目の色を変えて追いかけてくるよ。捕まったら、どんな恐ろしいことをされるか判ったもんじゃない」
 ティカが反論しようとすると、それよりも早くヴィヴィアンは脅すようにいった。
「例えば、ジョー・スパーナみたいな奴に狙われるんだよ。嫌だろう?」
「嫌だけど、でもっ」
「それに、連中の背後にはビスメイルがいる。迂闊に手をだせる相手じゃないんだ」
「ヴィーなら!」
「アダム・バッスクールに喧嘩を売ったら、国同士の戦争になりかねない。俺の独断で決められることじゃないんだよ」
「だけど、そんなのって……っ」
 ティカは拳を固めて、歯を食いしばった。
 憤りに打ち震える少年の肩に、ヴィヴィアンは手を乗せようとしたが、その手が苛立たしげに振り払われると、はっとしたような表情を浮かべた。
 反抗的な態度をとってしまったことに、ティカ自身も戸惑っていた。けれど、いつものように素直に謝る気持ちにはなれない。
「ティカ……」 
 ヴィヴィアンはもう一度、ティカに手を伸ばした。振り払われないことが判ると、そっと優しく手を引いて寝椅子に落ち着かせ、自分も傍へ腰へおろした。ティカの手をとり、軽く叩きながら、穏やかな調子で続けた。
「ねぇ、元気をだして。競売会を終えて新年を迎えたら、予定より少し早いけど、出航しようと思うんだ。ティカも海へいきたがっていただろう?」
 ティカは沈黙で答えた。確かに海は恋しかったが、今はとても喜ぶ気分にはなれない。
「この件はもう忘れよう。今夜は評判の料理店を貸し切って、船員たちを呼んであるんだ。オリバーもくるよ。きっと楽しいぞ!」
 ティカが憮然とした表情でヴィヴィアンを見つめると、彼はご機嫌をとるようにティカの頭を撫でた。
「出航したら、ティカとオリバーの航海誓願もしなくてはいけないね。仲良し二人組も晴れてバディだ」
 彼があまりにも必死な様子で言葉を重ねるので、ティカは物憂げにほほえんだ。
 普段であれば、万歳三唱で大喜びしただろう。三度の航海を経た者に許されるヘルジャッジ号への誓願に、ずっと憧れていた。
 けれど、オデッサのことを考えると……彼女を見捨てて無限海へ繰りだしても、心には重たい碇が下りたままに違いない。
 そんな状態で、果たして本当に清廉潔白な心を、海に誓えるのだろうか?