メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

10章:ナプトラ諸島沖合海戦 - 4 -

 戦闘から数刻――
 揺れはとうに治まっているのに、ヴィヴィアン達はまだ戻らない。
 言いつけ通り、じっとしているティカであったが、次第に不安を掻きたてられた。落ち着かずに部屋を行ったり来たりし始め、四刻が過ぎると、ついに甲板の様子を見に行くことを決意した。
 上甲板へ近付くほどに、あらゆる匂いが鼻を突く。
 タールと木屑、血と硝煙の匂い。
 戦闘は終わっているらしい。
 やけに静かだ……
 昇降階段を素早く駆け上がり、上甲板に積まれた土嚢の隅に身を潜めた。血に染められた甲板に、横たわる兄弟の躯を見つけて、ティカは両手で口を塞いだ。
 戦闘直後の甲板を初めて見た。
 転がる空薬莢、陽に照らされ、温度すら感じさせる血の海。浮かぶ不明な肉塊……
 彼我ひが入り乱れての接近戦の凄まじさを物語る、恐ろしい様相だ。
 それでも、顔を背けず微細に観察できたのは、ティカのこれまでの航海が、決して安穏の一言では済まされなかった故であろう。
 無傷とはいかなかったようだが、軍配はヘルジャッジ号に上がったようだ。
 水平線を見れば、敵船は煙を立ち昇らせながら、沖合へ走り去ってゆく。
 戦闘は全て片付いている。
 甲板には、縛り上げられた敵が一人いるだけだ。顔に濃い髭を蓄えた、四十路前後の体格のいい男で、頭はがっしりしており、額は広い。疲労と緊張に塗れた顔色は薄蒼く、血色がいいとは言い難い。
 睨みを利かせている男は、身なりからして敵の首領キャプテンだろう。
 男の前には、ヴィヴィアンが立っている。その背後に、怒りの形相を浮かべた兄弟達が武装も解かずに並んでいる。
 ティカの位置からは、対峙するヴィヴィアンと縛られた男の横顔が見えた。

「敵ながら、少し感心したよ。完全潜水型の機船とは……探知に日を要するわけだ」

「ふんっ、魔導改造はおたくの専売特許じゃねぇんだぜ」

 男は気概を見せて、不敵に笑った。黄金の前歯が、陽光を浴びて眩しい光芒を放つ。

「確かに、くたびれた外見からは想像もつかない聡明さだ。お目にかかれて欣快きんかいだよ、キャプテン・ロゲート?」

 慇懃いんぎんに会釈するヴィヴィアンを、男はこめかみに青筋を浮かべて、憎々しげに睨みあげた。敵に掴まった恐怖以上に、怒りを感じているようだ。

気障きざったらしい若造だぜ。女みてぇなつらしやがって、てめぇこそ本当に、無限海のキャプテン・ヴィヴィアンか?」

「いかにも。俺のことだよ」

 耳に届く口調は、相変わらず少し気取った、穏やかなものだ。

「けっ……こいつを解けば、ぶっ殺してやるぜ」

 ドスの利いた一喝は、並みの人間であれば引き気味になるところ、流石のヴィヴィアンはどこ吹く風で笑い飛ばした。

「褒めているんだよ。戦術はいまいちだけど、これだけの魔導改造船を用意するあたり、先見の明がある」

「……どうやって海中だと見破ったんだ?」

「親切な鯨達が教えてくれた」

「ふざけやがって」

 苛々しげにロゲートは一蹴したが、真実だ。海洋をゆくアリーとアルルシオに、教えてもらったのだから。

「にしても、一番手前の雷撃網に引っ掛かってしまうなんて、勿体なさ過ぎる。深度の見極めが今一つだ」

「てめぇ、何でそんな詳しんだ? 魔導改造に通暁つうぎょうしてるって噂は聞いているが、魚雷哨戒網なんて軍だって機密事項だろ……」

「こう見えて勉強家でね。アンタもいい線いってたよ。うちに仕掛けたのは早計だったけど。分相応の相手を狙えば、そこそこ活躍できたろうに」

 優雅な口調で、高みの台詞を吐き捨てる。
 癇にさわったらしい男は、意味をなさぬ唸り声を上げた。荒縄の戒めを解きそうな勢いだ。
 隠れているティカですら肩を震わせたが、対峙するヴィヴィアンは、凄艶な笑みを浮かべた。

「こっちも味方がられてるしな。俺はキャプテンとして、お前をどう処罰すべきか」

「殺せ」

 死の恐怖を凌駕する、昂った怒りのままに男は吐き捨てた。苛々しげに、甲板に唾を吐き捨てる。

「ジョー・スパーナについて知っていることを話すなら、考えてあげてもいいけど?」

「知るかよ」

「そう?」

 ヴィヴィアンは首を傾けると、おもむろに掌を仰向けた。後ろに控えるサディールが、無言でその手に四五口径の拳銃を乗せる。
 彼は右手に受け取ると、流れるような動作で構え、男の額に照準した。一切の躊躇なく、引き金を絞る――

「は……っ」

 抜けた音が鳴った。
 男は、極限まで眼を見開き、冥府を覗いたような形相で、ヴィヴィアンを仰いでいる。

「空撃ちだよ」

「は、は……」

 男の荒い呼吸が甲板に響く。
 遮蔽物の影から固唾を呑んで見守るティカは、じっとりとした不快感に襲われた。敵と知っていても、彼を気の毒に思ってしまう。銃で脅される恐怖は、ティカにも経験がある。
 気概を剥がされた彼の思考は今、恐怖一色に染め上げられているだろう。弄ぶように、生殺与奪を他者に――ヴィヴィアンに握られているのだ。
 あの日あの時、ティカがジョー・スパーナにされたように。