メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -
1章:狭間に揺れし青斑に、古の魔法 - 5 -
無窮の大気は霊気に溢れ、老いも苦痛もなく、疫病も飢饉もない。
明星の如しアンフルラージュの光芒は、精霊界の隅々にまでゆきわたり、涙の慈雨は森を常に再生させて、深緑を香らせる。
精霊の憩う、永遠に恵まれた楽園。
世界樹宮に向う途中、王の帰還を出迎えようと、眷族が方々から集まってきた。
小さな
腕の中で、肩を縮こめるオフィーリアを見つめて、アシュレイは周囲を牽制するように覇気を放出した。気圧され、眷属達はぴたりと足を止める。
「怖がることはありません」
アシュレイは優しく告げたが、オフィーリアの震えは治まらなかった。顔が少しも見えぬよう、フードを目深に被り、風で捲れぬよう手で強く押さえている。
「どうすれば、安心していただけるのでしょうか……」
困ったように、アシュレイは呟いた。不思議なことに、最初に抱いたオフィーリアへの嫌悪は、すっかり失せていた。
腕の中の娘が愛しい。笑顔が見たいのに、アシュレイもまた恐れられていることが悲しかった。
愚かな言動で、酷く怯えさせてしまったせいだ。最初に視線を合わせた時は、オフィーリアの瞳に恐怖はなかったのに、今はどれだけ優しく見つめても、視線を逸らされてしまう。
とめどなく溢れ出る想いは、完全にアシュレイに浸透していて、もはや魔法の境目は判らなかった。
(こんなにも愛おしい……)
初めて味わう感情であった。
抗い難いほど甘美で、深く満たされる。心地いい酩酊感に、いつになく浮かれている。
娘の、うっすら開いた唇を指でなぞると、瞳を見開いて、
「すみません」
すぐに手を離したが、指先に甘い余韻が残った。唇の柔らかさを想像して、身体の芯が疼く。
久しくなかった情欲の兆しに、アシュレイは軽く瞑目した。
これではまるで、生誕間もない未熟な精霊のようだ。制御しなくてはいけない。彼女はまだ、アシュレイを恐れているのだから。
焦ってはいけない。
今度こそ、怖がらせないように。優しく、慎重に接しなくてはならない。ゆっくり、確実に信頼を得るのだ。
その暁には――輝くようなほほえみを、甘い吐息を、唇を……そして、肌の隅々まで触れて、味わいたい。
生まれて初めて知る恋情は、優しい微笑を浮かべるアシュレイの内を、嵐のように揺さぶっていた。
+
世界樹宮は、宙に浮いた小島に聳えている。
外縁には水路が張り巡らせており、東西南北から滝の
高度を滑り落ちる滝は、地面を
アシュレイは空に浮かぶ宮殿の、幾何学的な紋様を描く中央庭園に舞い降りた。
天上の
「世界樹宮へようこそ」
フードの上から口づけると、オフィーリアはびくりと肩を震わせた。名残り惜しく思いながら抱えた身体を下ろすと、弾丸のようにロザリアが駆けてきた。
「フィー!」
「ロゼッ!」
運命の再会を果たしたかのように、二人はきつく抱きしめ合った。
ほほえましい光景ではあるが、アシュレイの胸を僅かに焦がした。オフィーリアの絶大な信頼を勝ち得ているロザリアが、少々妬ましかったのだ。
これが、嫉妬。
初めて知る感情に戸惑いつつ、アシュレイは跪いて出迎える古代精霊達を見渡した。
「この娘は、オフィーリア。
平伏する精霊達は一言も発せず、精霊王の言葉に耳を傾けている。アシュレイは萎縮するオフィーリアの肩を優しく撫でた。
「シェヘラザード」
名を呼ばれて、水色の長髪を持つ、美しい精霊が顔を上げた。
一目で、彼が水に属する上位精霊と判る。纏う清涼な覇気もさながら、四大精霊の証、玻璃の四枚羽を背に持っているからだ。
森羅万象の申し子――精霊とは世界を構成する四大元素、火、水、土、風の霊である。
それぞれの四大元素を総べる柱、四大精霊は、炎に包まれし
彼等は原始の海にたゆたう、古代の霊気を自在に操る超常の存在であり、双子の精霊王の手足となり、精霊界を護っているのだ。
「彼女は、水霊の眷属です。世界樹宮で穏やかに過ごせるよう、心から尽くしてください」
毅然と精霊王が命じると、美しい水霊の長は優美な首を垂れた。
フードの奥から、オフィーリアはその光景を遠い出来事のように感じていた。
世界は、無数の神秘と不都合に満ちている。
あいの子と蔑み、置き去りにしようとしたのに、率先して精霊界へ招き入れ、オフィーリアを水霊の眷属だと紹介する。精霊王自ら生んだ魔法がそうさせているのだから、皮肉なものだ。
「オフィーリア様。私はシェヘラザードと申します。どうぞ宜しくお願いいたします」
麗しい容姿の精霊は、恭しく頭を垂れた。
あれほど欲していた同胞、それもとても美しい精霊に傅かれているのに、オフィーリアの心は昏く沈んだ。
なんて息苦しいのだろう……
ここに、オフィーリアの居場所はない。
顔を伏せている者もいるが、針のような視線を投げてよこす者もいる。
真紅の髪と瞳を持つ、稀なる美貌の精霊と眼が合い、オフィーリアは慌てて視線を伏せた。
彼女は、薔薇の頂点に君臨する原初の精霊だ。
緋色の罪と呼ばれる、薔薇の女王――アガレットに違いない。
さすが、女王の名を冠するだけある。美しい古代精霊も、嫉妬しそうなほどの美貌の持ち主だ。彼女に匹敵する薔薇は、きっとロザリアを措いて他にはいないだろう。
少しだけ顔を上げて、こっそり盗み見ていると、紅玉の眼差しは針のように細められた。どうしてお前がここにいる? そういいたげな、敵意の眼差しだ。
(あぁ……逃げ出したい)
美しい精霊達に先導されて、じっとりと掌に汗をかきながら、世界樹宮の深層へと足を踏み入れた。
フードの奥に顔を隠したまま、いわれるがまま回廊を渡ると、お眼にかかったこともない豪奢な部屋に通された。
上品な薔薇水が香り、飴色の調度品が置かれている。
麗しい古代精霊達が、世話を焼こうと手を伸ばしてきたが、オフィーリアは背を向けて頑なに拒んだ。
硝子張りの円蓋の向こうで、陽の光に煌く新緑の梢が、さわさわと揺らめいている。
悠久の世界樹宮には、時間の概念がない。
明るい日射しはいつまでも
暗くなるのを待って、ロザリアを探しにいくつもりでいたオフィーリアは、部屋の中でうろうろしながら煩悶した。
いよいよ抜け出そうかと思いつめた時、ロザリアの方から部屋を訪れた。
「ロゼ! 大丈夫!?」
互いに走り寄ると、しっかと抱きしめ合う。
「平気だよ。周りの眼を盗んできたの」
「どうしよう、まさか本当に、世界樹宮へきてしまうなんて」
深刻そうに呻くオフィーリアを、ロザリアは心配そうな眼で見上げた。いい辛そうに口を開く。
「……あのね、フィー。私、すぐに出発しなくてはいけないの」
「えっ、どこへ?」
「それが、薔薇祭までに、薔薇の精霊に挨拶をしろっていわれてしまって……どれだけかかるのか、気が遠くなりそうなんだけども」
二人は顔を見合わせて、なんともいい難い表情を浮かべた。
種族の先達に挨拶をするのは、精霊界における通過儀礼の一つである。
本来であれば、ロザリアもとうに済ませているはずであった。連れ戻されることを恐れて、今まで逃げ回っていたツケを、ここへきて払うことになったわけだ。
「なら、私もいく」
魔法に手を出してまで世界樹宮へきたのに、ここで離れてしまっては意味がない。
「うーん……あの様子じゃぁ、我が君はお許しにならないと思う……」
「どうにかして、魔法を解けないかしら?」
「解呪があるはずだよ。魔法の記憶をよく探せば、きっと見つかるはず」
「探すって、どうやって?」
「判らないけど……フィーにしかできないことだよ」
確かに、魔法と融合して古い知識を得た。だが、煩雑に散らばった膨大な知識から、どのように必要な情報を引き出せばいいのか、オフィーリアにはまるで見当がつかなかった。
「とても探せる気がしない」
途方に暮れるオフィーリアを仰いで、ロザリアは励ますようにほほえんだ。
「魔法がもっと馴染めば、閃くかもよ」
「今すぐ、閃けないかしら」
「焦らずに考えよ? ともかく、フィーと離れずに済んで良かったぁ」
「……でも、いってしまうの?」
不安そうに呟くオフィーリアの頬を、ロザリアは小さな手で撫でた。
「大好きだよ。フィー。世界で一番大好き。すぐに戻ってくるから、待っていて」
「私より、ロゼは大丈夫なの? まさか一人でいくの?」
「平気だよ。ロゼはやっぱり、薔薇の女王様になれるかもしれない。ここへきてから、力がぐんと増したと感じるの。霊気に満ちていて、今なら何でもできそう」
「……」
あどけない幼子が、急に大人びて見えて、オフィーリアはふと弱気になった。ロザリアは力ある薔薇の精霊だ。オフィーリアの助けなどなくとも、きっとやり遂げるだろう。
けれど、オフィーリアの方は……
ここに一人で置いていかれて、どうすればいいか判らない。
卑屈な心が苦しい。瞳が潤みかけると、ロザリアは慈母のようにほほえみ、オフィーリアの額にキスをした。
「大丈夫だよ、フィー。きっとうまくいく。薔薇祭が終わる頃には、解呪も手に入れているよ。世界樹宮が気に入ればずっと居ればいいし、やっぱり嫌だったら、二人で森に帰ろう」
涙ぐみながら、オフィーリアは頷いた。小さな体を抱きしめる。
「気をつけてね。どうか怪我をしないでね」
羽を持っていれば、オフィーリアも一緒についていけたのに。残念に思いながら、秀でた額に唇を落とした。
「嵐よりも、天馬よりも早く、精霊界をひと巡りして、あっという間に戻ってくるからねっ!」
ひしと抱きしめあった後、ロザリアは顔を上げた。
「フィーも気をつけて。我が君は、フィーにゾッコンラブだよ! 恋人どころか、お妃にしたいって考えてそう」
「お妃? 私を?」
ロザリアの変テコな言葉遣いを指摘する余裕もなく、オフィーリアは真っ青になった。
「さしあたっては、薔薇際だよね。皆の前で一緒に歌って、踊って、恋人だって宣言するんじゃないかなぁ」
「……なんて恐ろしいの。無理、絶対に無理」
ぞぉっと肌が総毛立つのを感じて、オフィーリアは腕を摩った。
「だけど、このままだと恋人宣言どころか、婚姻まで一直線だよ」
「悪夢だわ……どうにかして魔法を解かないと……」
心を奪う魔法は知っているのに、解く言の葉が出てこない。
もどかしげに呻くオフィーリアの腕を、ロザリアは気遣わしげに摩った。
「でも、ちょっと待って。もし魔法を解く方法が判っても、すぐに解くのは待った方がいいかもしれない」
「どうして?」
「魔法をかけた経緯があれだし……仕返しされるかもしれないよ。ロゼが戻るまで、待っていて?」
仕返しと聞いて、オフィーリアは眼を瞠った。確かに、呪いが解けた時、アシュレイはどう思うだろう?
「……怒られても、仕方がないわ。魔法を解いたら、然るべき罰を受けなくちゃ」
俯くオフィーリアの顔を、ロザリアは下から覗きこんだ。
「フィーは悪くない。魔法を持ち出しのはロゼだよ。それに、私達はただ一緒にいたいと願っただけで、無慈悲に跳ね除けた、我が君の理解が足りない!」
「……」
「魔法は、二人でいる為の手段だと思おう? 魔法にかけたことで、傷ついたりしないで。フィーは絶対に悪くないんだから」
なかなかそうは思いきれなかったが、ロザリアの優しさが嬉しくて、オフィーリアは力なく微笑んだ。
「……そうね、判ったわ。ロゼを待つ間に、私も魔法を紐解く方法を探してみる」
「フィー」
ほっとしたように笑うロザリアの金髪を、オフィーリアは慈しむように撫でた。
「待っているから、必ず帰ってきてね。そして一緒にここを出て行きましょう」
「うんっ!」
ロザリアは子猫のように、オフィーリアの首に腕を回して抱き着いた。小さな身体を、オフィーリアも抱きしめ返した。