メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -
1章:狭間に揺れし青斑に、古の魔法 - 4 -
静寂が流れる――
美貌を俯けると、精霊王は戸惑ったように額を手で押さえた。そのままの姿勢でしばし立ち尽くし、やがて顔を上げる。
固唾を呑んで見守っていたオフィーリアは、その視線の強さに思わずたじろいだ。
先ほどまでの、冷たい視線とは違う。
青い瞳に熱を灯して、真っ直ぐにオフィーリアを射抜く。思わず仰け反るほど、強い眼差しだ。形の良い薄い唇が開いて、
「オフィーリア」
大切そうに、名を呼ばれた。
霊気のこもった響きに、オフィーリアは呼吸すら忘れるほどの衝撃を受けた。思わず礼儀も忘れて立ち上り、アシュレイから距離を取る。
怯えを感じ取ったように、美しい双眸が眇められた。その視線の強さに、オフィーリアの脚は地面に縫い留められたように動けなくなる。
精霊王は悠然とした足取りで、立ち尽くすオフィーリアの前にやってきた。つと手を伸ばすと、長い指で鱗の散った顔を包み込んだ。
「ッ!?」
「恐がらないで」
吐息が触れそうな距離で囁かれ、訳も判らずオフィーリアは瞳を閉じた。身体を強張らせていると、額に柔らかなものが触れた。
「あっ」
信じられない。
尊い精霊王が唇を……聖なる祝福を、あいの子のオフィーリアに与えるだなんて。
眼を瞠るオフィーリアを、慈しむように見下ろしている。澄んだ青い瞳に、蔑みは浮かんでいない。
「不思議な気分です……一体何が起きたというのか」
「え?」
壊れ物に触れるかのように、そっと抱きしめられた。硬直するオフィーリアの背を摩り、青い髪を指で梳く。
「アンジェラは、私の心を溶かす魔法を落としたといいました。そんなこと、あるわけがないと思っていたのに……」
「魔法が効いて……?」
呆然と呟くと、アシュレイは身体を離して、オフィーリアの顔を覗き込んだ。
「……そのようです。貴方がたまらなく愛しい」
「えッ!?」
本当に効いてしまったというのか?
絶句して見上げるオフィーリアを、アシュレイもまた思慮深い眼差しで見下ろした。
「流石はアンジェラが編んだ魔法なだけある……非常に強力だ。この私にすら浸透するとは」
誰にいうともなしに呟くと、アシュレイは銀糸の刺繍が施された外套を脱ぎ、それをオフィーリアの肩にかけようとした。
「い、いけません」
「構いません。どうぞ」
恐れ多くて、オフィーリアは首を左右に振った。さっきまで、草叢 に寝転がっていたのだ。肩や背に葉がついているかもしれない。
身体を離そうとするオフィーリアを、アシュレイは逆に抱きしめた。
「恐がらないで」
耳朶に囁かれ、オフィーリアは震えた。いくら抜け出そうとしても、強い腕はしっかりと背中に回されて、動くことは叶わない。
「こ、こんなつもりでは……私、我が君に魔法を……」
混乱の極地で、支離滅裂に呟くオフィーリアの顔を、アシュレイは心配そうに覗き込んだ。
「謝るのは私の方です。貴方に酷い言葉をかけました。どうか、許してください」
心のこもった声と真摯な眼差しが、オフィーリアに向けられた。
なんという変貌ぶりだろう。あいの子と、冷たく吐き捨てた同じ唇から、謝罪の言葉が零れるとは!
「貴方を、ここに置いてはいけません。世界樹宮へ連れ帰ります」
「えッ!?」
「やった!」
驚愕するオフィーリアの傍で、ロザリアは嬉しそうに拳を握った。
「アンジェラに知らせなくては……飛べますか?」
狼狽えつつ、いいえ、とオフィーリアが首を振ると、アシュレイはオフィーリアの薄い肩を手で包み込み、静かに見下ろした。
青い瞳には、熱が灯っている。そんな瞳で見つめられたことがないオフィーリアは、全身を強張らせた。視線を逸らそうとすると、抱き寄せられ、逃げる間もなく唇を奪われた。
「んぅッ!?」
初心な唇を優しく食んで、愛撫する。アシュレイは、呼吸も忘れてしがみつくオフィーリアの体を、いっそう強い腕で抱きすくめた。
陸の上だというのに、息が続かない。
恐れ多くも精霊王の胸を拳で叩くと、ちゅっと音を立てて唇は離された。
荒い呼吸を繰り返すオフィーリアを見下ろして、アシュレイは扇情的に微笑んだ。名残り惜しそうに、濡れた唇を指で拭う。
「――ッ」
力が抜け落ちて、頽 れるオフィーリアの膝裏に腕を差し入れると、アシュレイは子を抱えるように持ち上げた。
「我が君ッ」
突然の浮遊感に狼狽えて身じろぐと、抱える腕に力が込められた。息遣いが判るほどに顔が近付く。
「あ、あの、あの」
唇を抑えて、視線を揺らすオフィーリアを、アシュレイは甘やかすように見つめた。
ふと顔に影が射したかと思えば、額に柔らかなものが触れる。唇だと判るや、オフィーリアの頬は燃えるように熱くなった。
「愛しい方。魔法が結んだ縁ではありますが、貴方が本当に愛しい。とても離せそうにありません」
「いと……!? 待って、少し、お待ちをッ」
これは、いよいよとんでもないことになってしまった。
狼狽えまくるオフィーリアの横で、ヒャッホー、とロザリアは喜色満面で万歳をしている。
「いきましょう」
ついに、アシュレイは羽を広げた。
天下始祖精霊 だけが持つ、六枚羽が優美に広がる。硝子細工のように透けて、閃くたびに霊気を帯びた青い粒子が散る。
なんて美しいのだろう――状況も忘れて、呆けたようにオフィーリアが見惚れていると、
「とても懐かしい気分ですよ。遠い日の魔法に、触れているのですから」
精霊王は輝くような微笑を閃かせた。眩し過ぎて、とても直視できない。
「まさか、本当に、私を連れて……?」
死にそうな声で問うオフィーリアを見て、アシュレイは安心させるようにほほえんだ。
「きっと気に入ります」
慈愛に満ちたほほえみを見て、オフィーリアの胸中は複雑に揺れた。
深い罪悪感と、行き場のない怒り、哀しみ……或いは憧憬。戸惑いと恐怖。
あいの子を見て、精霊がどのような反応をするかは想像に難くない。
焦燥に駆られるも、精霊の頂点に君臨する主君、精霊王の腕の中で暴れるわけにもいかず、あっという間に地上は遠ざかった。
灰海――
かつてオフィーリアが精霊界へいく為に、生死をかけて挑んだ海を、アシュレイはたやすく支配した。
荒れ狂う嵐をものともせず、海上を彗星のように滑空して、渦潮の上で立ち止まる。
唇から古い言の葉を紡ぎ、大気に光の環 を成した。
精霊界へ続く扉が、ゆっくりと開かれる。
美貌を俯けると、精霊王は戸惑ったように額を手で押さえた。そのままの姿勢でしばし立ち尽くし、やがて顔を上げる。
固唾を呑んで見守っていたオフィーリアは、その視線の強さに思わずたじろいだ。
先ほどまでの、冷たい視線とは違う。
青い瞳に熱を灯して、真っ直ぐにオフィーリアを射抜く。思わず仰け反るほど、強い眼差しだ。形の良い薄い唇が開いて、
「オフィーリア」
大切そうに、名を呼ばれた。
霊気のこもった響きに、オフィーリアは呼吸すら忘れるほどの衝撃を受けた。思わず礼儀も忘れて立ち上り、アシュレイから距離を取る。
怯えを感じ取ったように、美しい双眸が眇められた。その視線の強さに、オフィーリアの脚は地面に縫い留められたように動けなくなる。
精霊王は悠然とした足取りで、立ち尽くすオフィーリアの前にやってきた。つと手を伸ばすと、長い指で鱗の散った顔を包み込んだ。
「ッ!?」
「恐がらないで」
吐息が触れそうな距離で囁かれ、訳も判らずオフィーリアは瞳を閉じた。身体を強張らせていると、額に柔らかなものが触れた。
「あっ」
信じられない。
尊い精霊王が唇を……聖なる祝福を、あいの子のオフィーリアに与えるだなんて。
眼を瞠るオフィーリアを、慈しむように見下ろしている。澄んだ青い瞳に、蔑みは浮かんでいない。
「不思議な気分です……一体何が起きたというのか」
「え?」
壊れ物に触れるかのように、そっと抱きしめられた。硬直するオフィーリアの背を摩り、青い髪を指で梳く。
「アンジェラは、私の心を溶かす魔法を落としたといいました。そんなこと、あるわけがないと思っていたのに……」
「魔法が効いて……?」
呆然と呟くと、アシュレイは身体を離して、オフィーリアの顔を覗き込んだ。
「……そのようです。貴方がたまらなく愛しい」
「えッ!?」
本当に効いてしまったというのか?
絶句して見上げるオフィーリアを、アシュレイもまた思慮深い眼差しで見下ろした。
「流石はアンジェラが編んだ魔法なだけある……非常に強力だ。この私にすら浸透するとは」
誰にいうともなしに呟くと、アシュレイは銀糸の刺繍が施された外套を脱ぎ、それをオフィーリアの肩にかけようとした。
「い、いけません」
「構いません。どうぞ」
恐れ多くて、オフィーリアは首を左右に振った。さっきまで、
身体を離そうとするオフィーリアを、アシュレイは逆に抱きしめた。
「恐がらないで」
耳朶に囁かれ、オフィーリアは震えた。いくら抜け出そうとしても、強い腕はしっかりと背中に回されて、動くことは叶わない。
「こ、こんなつもりでは……私、我が君に魔法を……」
混乱の極地で、支離滅裂に呟くオフィーリアの顔を、アシュレイは心配そうに覗き込んだ。
「謝るのは私の方です。貴方に酷い言葉をかけました。どうか、許してください」
心のこもった声と真摯な眼差しが、オフィーリアに向けられた。
なんという変貌ぶりだろう。あいの子と、冷たく吐き捨てた同じ唇から、謝罪の言葉が零れるとは!
「貴方を、ここに置いてはいけません。世界樹宮へ連れ帰ります」
「えッ!?」
「やった!」
驚愕するオフィーリアの傍で、ロザリアは嬉しそうに拳を握った。
「アンジェラに知らせなくては……飛べますか?」
狼狽えつつ、いいえ、とオフィーリアが首を振ると、アシュレイはオフィーリアの薄い肩を手で包み込み、静かに見下ろした。
青い瞳には、熱が灯っている。そんな瞳で見つめられたことがないオフィーリアは、全身を強張らせた。視線を逸らそうとすると、抱き寄せられ、逃げる間もなく唇を奪われた。
「んぅッ!?」
初心な唇を優しく食んで、愛撫する。アシュレイは、呼吸も忘れてしがみつくオフィーリアの体を、いっそう強い腕で抱きすくめた。
陸の上だというのに、息が続かない。
恐れ多くも精霊王の胸を拳で叩くと、ちゅっと音を立てて唇は離された。
荒い呼吸を繰り返すオフィーリアを見下ろして、アシュレイは扇情的に微笑んだ。名残り惜しそうに、濡れた唇を指で拭う。
「――ッ」
力が抜け落ちて、
「我が君ッ」
突然の浮遊感に狼狽えて身じろぐと、抱える腕に力が込められた。息遣いが判るほどに顔が近付く。
「あ、あの、あの」
唇を抑えて、視線を揺らすオフィーリアを、アシュレイは甘やかすように見つめた。
ふと顔に影が射したかと思えば、額に柔らかなものが触れる。唇だと判るや、オフィーリアの頬は燃えるように熱くなった。
「愛しい方。魔法が結んだ縁ではありますが、貴方が本当に愛しい。とても離せそうにありません」
「いと……!? 待って、少し、お待ちをッ」
これは、いよいよとんでもないことになってしまった。
狼狽えまくるオフィーリアの横で、ヒャッホー、とロザリアは喜色満面で万歳をしている。
「いきましょう」
ついに、アシュレイは羽を広げた。
なんて美しいのだろう――状況も忘れて、呆けたようにオフィーリアが見惚れていると、
「とても懐かしい気分ですよ。遠い日の魔法に、触れているのですから」
精霊王は輝くような微笑を閃かせた。眩し過ぎて、とても直視できない。
「まさか、本当に、私を連れて……?」
死にそうな声で問うオフィーリアを見て、アシュレイは安心させるようにほほえんだ。
「きっと気に入ります」
慈愛に満ちたほほえみを見て、オフィーリアの胸中は複雑に揺れた。
深い罪悪感と、行き場のない怒り、哀しみ……或いは憧憬。戸惑いと恐怖。
あいの子を見て、精霊がどのような反応をするかは想像に難くない。
焦燥に駆られるも、精霊の頂点に君臨する主君、精霊王の腕の中で暴れるわけにもいかず、あっという間に地上は遠ざかった。
灰海――
かつてオフィーリアが精霊界へいく為に、生死をかけて挑んだ海を、アシュレイはたやすく支配した。
荒れ狂う嵐をものともせず、海上を彗星のように滑空して、渦潮の上で立ち止まる。
唇から古い言の葉を紡ぎ、大気に光の
精霊界へ続く扉が、ゆっくりと開かれる。