HALEGAIA
8章:俺たちの日常 - 1 -
少女は、自分が殺されたことを既に理解していた。
自分の躰が、死体安置所の冷たい寝台の上にいないことも。湿った露に濡れて、土のなかにあることも。
昏い山奥に、女の子たち と一緒に埋められている。
周囲の草花は驚異的な高さで、まるで少女たちの遺体を養分にして、炎が燃えあがるように伸びている。
だけど、誰も見つけてくれない。どんなに草花が伸びても、ここには誰もこないから。
肉体は滅んでも、心は自由だった。友達と手を繋いで、色々なところへいき、色々なことをして遊んだ。
そのうちに友達はきらきらと輝いて、光が射す方に一緒にいこうといってくれたけれど……ごめんね、と少女は繋いだ手を離した。
まだ、天国にはいけない。
心配なことが多すぎるから。
お母さんはずっと塞ぎこんでいて、少女の部屋に入ろうともしない。弟もお父さんも元気がない。家族が心配。もう少しだけ、見ていたい。
それに、あの子 にも知らせなくちゃいけない。危険が迫っていることを、早く。
少女を殺した男は、最近、棲み処を変えた。以前と比べて随分と広い家に。より快適になった家で、悍 ましい計画を練っている。
少女を誘拐して、監禁して、殺した時と同じように、次のターゲットにそうするつもりなのだ。
酷い男。許せない。煉獄に堕ちやがれ!
早く、知らせなくちゃいけない。
少女の視界は、もうだいぶ濁って、ぼやけているけれど、まだここにいるから。
早く、知らせなくちゃいけない。
十二月十八日。東京都江戸川区。遠藤家。
八時ジャスト。玄関に佇む貴公子然としたミラを見て、陽一は微妙な表情をした。
「お早う、陽一」
「……はよ。起きたら月曜だったんだけど」
楽園 で抱き潰された後の記憶がない。目が醒めたら、自宅のベッドでパジャマ姿で寝ていて、月曜の朝だった。ちっとも眠った気がしない。
「ごめんね。でも、マッサージ気持ち良かったでしょう?」
悪びれもなくミラはにっこり笑った。眩いばかりの美貌が、いつもに増してきらきら輝いているような気がする。
陽一は口元をひきつらせた。確かに、精魂尽き果てたはずだが、体力はすっかり回復していて、爽快なくらいだ。だけど納得がいかない。
「アロマはもういい」
ふてくされたように陽一がいうと、ミラはくすっと笑った。愛でるように陽一の頬をなでなでしてから、並んで歩き始めた。
学校に着くまでは、まだ楽園 に心を残していたが、HRを終えて授業をいくつか受けるうちに、いつもの月曜日に馴染んでいった。
四限目の美術室に向かう途中、シャシャシャーッスの不良たちと目が遭った。厳 つい男子生徒たちが、ミラを見て、びくぅっと露骨に肩を揺らしている。ぺこっと頭をさげて、そそくさと逃げていった。
「……あの日 の記憶、ないんだよな?」
念を押すように陽一が訊ねると、ミラはふっと微笑した。
「ありませんよ。ただ、恐怖心は残してありますから、訳も判らず僕が怖いんでしょうねぇ」
と、意地の悪い笑みを浮かべている。
(まぁ、実際ミラ怖かったしな……)
思いだすだけで背筋がぞっとする。つい、ミラの手首をちらっと見て“天使の輪”があることを確認してしまう。二度と壊れてくれるなよ……と、願うばかりだ。
美術室に入ると、クラスメイトたちは先ず自分の作品を棚から持ちだし、それから席に着席した。
今期の美術課題は、自由絵画がテーマで、切り絵でも水彩でも、それぞれ好きに描いている。推しキャラを描く生徒もいれば、風景画や静物画、想像絵、有名画の模写などなど。
陽一は、先生の用意してくれた卓上の静物を描いている。そこには、縄で巻かれた浮き硝子、香水瓶、重厚感漂う革表紙の本、琺瑯 加工の白い花瓶等が置かれていた。
同じ静物をテーマにしている生徒は他にもいて、陽一は水彩だが、クレパスや色鉛筆、油、マーカーを使っている生徒もいる。
ミラは油で、楽園 をテーマに描いていた。
その絵が実在する世界だと陽一は知っているが、知らない人が見れば実にユニークな世界観だろう。光と闇の使い方が絶妙で、精緻で、奇妙で、異端と称されたオランダ人画家ヒエロニムス・ボムの世界を彷彿とさせる。
「魔王君、絵を習ったことがあるのですか?」
先生は、ミラの絵をじっと見つめて訊ねた。
「いえ、我流です」
「素晴らしい……なんて独創的なんだ。鮮やかな色彩、光の表現が実に見事だ。魔王君は才能豊かですね!」
「僕もそう思います」
「本当に、画家を目指しても良いかもしれませんね」
ミラは返事しなかったが、先生は、満足げにウンウンと頷いている。先生は十八世紀絵画のファンであり、蒐集家だった。
しばし黙々とした時間が流れた。
各々、作品に集中している。
陽一は、視界の端で、何かがミラの方に飛ぶのを見た。咄嗟に手を伸ばして掴むと、消しゴムだった。
「ごめん! 手がすべった」
「おう」
すまなさそうに謝る男子に、陽一は消しゴムを渡した。ミラがきらきらした瞳で陽一を見ている。
「ありがとうございます、陽一」
「おぅ……」
はにかむミラは可憐だった。照れが伝染して、陽一も赤くなる。それを見ていた周囲の生徒もぽっと頬を染めた。
ちょっと教室の空気がゆるみ、あちこちで雑談が始まると、
「あれ~」
不思議そうな圭祐の声。どうしたの? と前にいる星月 が訊ねている。
「この間磨いたばっかりなのに、また曇ってる」
その言葉に、陽一は気になって圭祐の方を見た。襟から銀鎖をひっぱりだし、ロザリオを不思議そうに見ている。圭祐と目があった。
「ほら」
と、圭祐が見せるので、陽一は微妙な顔で頷いた。
「不思議ですねぇ、聖銀がそんなに曇るなんて、悪魔の仕業でしょうか?」
などと、感嘆に値する無邪気さでミラがほざいた。
かなぁ? なんて相槌を打つ圭祐を見て陽一は、犯人はコイツです――教えてやろうか迷った。
「こら、緒方。授業中に、堂々とネックレスを磨くんじゃない」
呆れたように注意する先生に、
「クリスチャンなんです」
圭祐は、そういえば許されると信じきった顔で答えた。
「叔父が神父なんですけれど、肌身離さず身につけていろって、最近うるさいんですよ」
「後にしなさい」
はーい、と圭祐は間延びした返事をすると、色鉛筆を手に持って動かし始めた。ちなみに、題材はアニメのヒロインで、かなり上手い。
「ほら、皆も集中して」
そういって先生が手を鳴らすと、にわかに騒がしくなった空気が引き締まった。
陽一が横目でミラを見ると、もう興味をなくしたように、己の前衛的な美術作品に夢中になっていた。陽一も自分の絵に目をやろうとし、ふと視界の端に奇妙なものを捕らえた。
(え?)
視線を向けると、蒼褪めた顔の女の子と目が遭った。
(ヤバッ……)
慌てて視線を逸らした。心臓がドキドキしている。頬のあたりに視線を感じて、そちらを向くことができない。
「陽一?」
不思議そうな声で、ミラがいった。
「何?」
陽一は顔を固定したまま、答えた。
「もういませんよ 」
はっとして、陽一はミラを見た。ミラの向こう、窓の方を見ると、少女はいなかった。
「……視た?」
「ええ。無害な浮遊霊ですよ」
安心させるようにミラはいったが、陽一はゾッとした。あんなにはっきり視えたのは、初めてだ。妹の理沙と、同じくらいの背丈だった。肩につくまっすぐな黒髪、水色のワンピース……ちらっと視界を掠めただけなのに、しっかり網膜に焼きついてしまっている。
薄ぼんやりとした意識のなかに、柔らかい震えが疾 った。
あの子、どこかで――
見たことがある?
自分の躰が、死体安置所の冷たい寝台の上にいないことも。湿った露に濡れて、土のなかにあることも。
昏い山奥に、
周囲の草花は驚異的な高さで、まるで少女たちの遺体を養分にして、炎が燃えあがるように伸びている。
だけど、誰も見つけてくれない。どんなに草花が伸びても、ここには誰もこないから。
肉体は滅んでも、心は自由だった。友達と手を繋いで、色々なところへいき、色々なことをして遊んだ。
そのうちに友達はきらきらと輝いて、光が射す方に一緒にいこうといってくれたけれど……ごめんね、と少女は繋いだ手を離した。
まだ、天国にはいけない。
心配なことが多すぎるから。
お母さんはずっと塞ぎこんでいて、少女の部屋に入ろうともしない。弟もお父さんも元気がない。家族が心配。もう少しだけ、見ていたい。
それに、
少女を殺した男は、最近、棲み処を変えた。以前と比べて随分と広い家に。より快適になった家で、
少女を誘拐して、監禁して、殺した時と同じように、次のターゲットにそうするつもりなのだ。
酷い男。許せない。煉獄に堕ちやがれ!
早く、知らせなくちゃいけない。
少女の視界は、もうだいぶ濁って、ぼやけているけれど、まだここにいるから。
早く、知らせなくちゃいけない。
十二月十八日。東京都江戸川区。遠藤家。
八時ジャスト。玄関に佇む貴公子然としたミラを見て、陽一は微妙な表情をした。
「お早う、陽一」
「……はよ。起きたら月曜だったんだけど」
「ごめんね。でも、マッサージ気持ち良かったでしょう?」
悪びれもなくミラはにっこり笑った。眩いばかりの美貌が、いつもに増してきらきら輝いているような気がする。
陽一は口元をひきつらせた。確かに、精魂尽き果てたはずだが、体力はすっかり回復していて、爽快なくらいだ。だけど納得がいかない。
「アロマはもういい」
ふてくされたように陽一がいうと、ミラはくすっと笑った。愛でるように陽一の頬をなでなでしてから、並んで歩き始めた。
学校に着くまでは、まだ
四限目の美術室に向かう途中、シャシャシャーッスの不良たちと目が遭った。
「……
念を押すように陽一が訊ねると、ミラはふっと微笑した。
「ありませんよ。ただ、恐怖心は残してありますから、訳も判らず僕が怖いんでしょうねぇ」
と、意地の悪い笑みを浮かべている。
(まぁ、実際ミラ怖かったしな……)
思いだすだけで背筋がぞっとする。つい、ミラの手首をちらっと見て“天使の輪”があることを確認してしまう。二度と壊れてくれるなよ……と、願うばかりだ。
美術室に入ると、クラスメイトたちは先ず自分の作品を棚から持ちだし、それから席に着席した。
今期の美術課題は、自由絵画がテーマで、切り絵でも水彩でも、それぞれ好きに描いている。推しキャラを描く生徒もいれば、風景画や静物画、想像絵、有名画の模写などなど。
陽一は、先生の用意してくれた卓上の静物を描いている。そこには、縄で巻かれた浮き硝子、香水瓶、重厚感漂う革表紙の本、
同じ静物をテーマにしている生徒は他にもいて、陽一は水彩だが、クレパスや色鉛筆、油、マーカーを使っている生徒もいる。
ミラは油で、
その絵が実在する世界だと陽一は知っているが、知らない人が見れば実にユニークな世界観だろう。光と闇の使い方が絶妙で、精緻で、奇妙で、異端と称されたオランダ人画家ヒエロニムス・ボムの世界を彷彿とさせる。
「魔王君、絵を習ったことがあるのですか?」
先生は、ミラの絵をじっと見つめて訊ねた。
「いえ、我流です」
「素晴らしい……なんて独創的なんだ。鮮やかな色彩、光の表現が実に見事だ。魔王君は才能豊かですね!」
「僕もそう思います」
「本当に、画家を目指しても良いかもしれませんね」
ミラは返事しなかったが、先生は、満足げにウンウンと頷いている。先生は十八世紀絵画のファンであり、蒐集家だった。
しばし黙々とした時間が流れた。
各々、作品に集中している。
陽一は、視界の端で、何かがミラの方に飛ぶのを見た。咄嗟に手を伸ばして掴むと、消しゴムだった。
「ごめん! 手がすべった」
「おう」
すまなさそうに謝る男子に、陽一は消しゴムを渡した。ミラがきらきらした瞳で陽一を見ている。
「ありがとうございます、陽一」
「おぅ……」
はにかむミラは可憐だった。照れが伝染して、陽一も赤くなる。それを見ていた周囲の生徒もぽっと頬を染めた。
ちょっと教室の空気がゆるみ、あちこちで雑談が始まると、
「あれ~」
不思議そうな圭祐の声。どうしたの? と前にいる星
「この間磨いたばっかりなのに、また曇ってる」
その言葉に、陽一は気になって圭祐の方を見た。襟から銀鎖をひっぱりだし、ロザリオを不思議そうに見ている。圭祐と目があった。
「ほら」
と、圭祐が見せるので、陽一は微妙な顔で頷いた。
「不思議ですねぇ、聖銀がそんなに曇るなんて、悪魔の仕業でしょうか?」
などと、感嘆に値する無邪気さでミラがほざいた。
かなぁ? なんて相槌を打つ圭祐を見て陽一は、犯人はコイツです――教えてやろうか迷った。
「こら、緒方。授業中に、堂々とネックレスを磨くんじゃない」
呆れたように注意する先生に、
「クリスチャンなんです」
圭祐は、そういえば許されると信じきった顔で答えた。
「叔父が神父なんですけれど、肌身離さず身につけていろって、最近うるさいんですよ」
「後にしなさい」
はーい、と圭祐は間延びした返事をすると、色鉛筆を手に持って動かし始めた。ちなみに、題材はアニメのヒロインで、かなり上手い。
「ほら、皆も集中して」
そういって先生が手を鳴らすと、にわかに騒がしくなった空気が引き締まった。
陽一が横目でミラを見ると、もう興味をなくしたように、己の前衛的な美術作品に夢中になっていた。陽一も自分の絵に目をやろうとし、ふと視界の端に奇妙なものを捕らえた。
(え?)
視線を向けると、蒼褪めた顔の女の子と目が遭った。
(ヤバッ……)
慌てて視線を逸らした。心臓がドキドキしている。頬のあたりに視線を感じて、そちらを向くことができない。
「陽一?」
不思議そうな声で、ミラがいった。
「何?」
陽一は顔を固定したまま、答えた。
「
はっとして、陽一はミラを見た。ミラの向こう、窓の方を見ると、少女はいなかった。
「……視た?」
「ええ。無害な浮遊霊ですよ」
安心させるようにミラはいったが、陽一はゾッとした。あんなにはっきり視えたのは、初めてだ。妹の理沙と、同じくらいの背丈だった。肩につくまっすぐな黒髪、水色のワンピース……ちらっと視界を掠めただけなのに、しっかり網膜に焼きついてしまっている。
薄ぼんやりとした意識のなかに、柔らかい震えが
あの子、どこかで――
見たことがある?