HALEGAIA

7章:楽園コペリオン2 - 2 -

「いこ」
 陽一がミラの腕を引っ張ると、鮫島はムッとした顔をした。
「今話してんだけど?」
 低い声で陽一を睨む。ミラには怯んでも、陽一に対しては強気でいられるようだ。
 肩を掴まれそうになった陽一は、咄嗟にミラを突き飛ばした。ミラから鮫島を守るために。そんな意図など知らぬ鮫島は、面白がるような目で陽一を見た。
「意外と気ぃ強いんだ? ねー、誰こいつ?」
 と、鮫島は後ろで様子をうかがっている不良たちを振り向いて訊ねた。
「魔王サンの友達ダチッス。先パイ、そいつに手をだすとマズいっていうかっ」
 不良のひとりが焦ったように答えると、あ? と鮫島は訝しんだ。その隙に陽一は、ミラの腕を掴んで走って逃げようとした。が、鮫島が手を伸ばしてきた。捕まるかと思われたが、ミラが素早く立ち位置を入れ替え、鮫島の喉首を片手で掴んだ。
「ぐっ!?」
 鈍い声をあげながら、鮫島はミラの手を剥がそうとする。
「陽一に触らないでくれる?」
 ヒィ! と鮫島は情けない声をあげた。その目には恐怖と狼狽が急激に浮かんでいた。後ろで見守る不良たちも完全に腰が引けている。
 ミラは、ため息がでるほど美しい微笑を浮かべているが、菫色の瞳にはかくとした邪悪な光が燃えていた。
「う、ぐっ」
 鮫島が苦しげに呻いた。硬質な爪が喉に食いこみ、一筋の血がしたたる。
「ミラ、やり過ぎだ」
 蒼褪めながら陽一は止めた。ミラは鮫島から手を離したが、爪から伝い落ちる一筋の血が、ミラの手首の“天使の輪”に触れた。
 パキンッ……罅が入り、“天使の輪”は光を放ちながら砕け散った。
 転瞬、ミラは本当の姿、魅了を抑える幻惑を解いた、ありのままの姿になった。
 頭部には雄々しく巻きあがる角が、背には漆黒の翼が拡がり、危険な誘惑の香りと、蠱惑的な暖かさが雨のようにふりそそぐ。
 彼の全身から放射された支配者の光が、あたたかな蜂蜜のように、或いは琥珀のように人間を包みこんだ。
 鮫島も不良たちも、へなへなとくずおれ尻もちをつき、魂を抜き取られたような表情でミラを仰ぎ見ている。
 陽一も、身も心もぐらりと傾きかけた。本性を顕にしたミラには抗えない。けれども、全身に強い殺気を漲らせるミラを見て、このままではだめだと強く思った。
「ミラ、も、いこう?」
 そう囁くのが精いっぱいだった。ミラは鮫島を見据えたまま、開いた掌に、ボッ……焔を閃かせた。
「ミラッ!」
 ドッ、ドッ、ドッ、鼓動が全身に響く。あまりの鼓動の烈しさに、心臓が焼き切れてしまいそうだ。目眩すら覚えるが、それでも陽一はミラに手を伸ばした。
「やめろって、何する気だよ」
「……燃やそうかな?」
 ミラは正面を向いたまま答えた。物くも悪戯好きな猫のように、無邪気な殺意を灯した双眸は、ひたと人間に向けられている。
「やめろ!」
 陽一は恐怖に叫んだ。
「なぜ?」
「こっちが聞きたいよ! なんで燃やすんだよ!」
「気に入らないから?」
「どういう理屈だよ、キレる沸点低すぎだろ!? ってか、“天使の輪”って元に戻らないの?」
 跡形もなく消え去った“天使の輪”には、悪魔の殺戮本能を抑える効果があったはずだ。それがないと、ミラにとって今この世界は、殲滅対象の三千世界に過ぎないのではないか!?
「ミラ?」
 呼びかけに応えず、ミラは鮫島たちを――人間たちを見ている。
「ミラってば」
 空は不気味な唸り声をあげながら、瞬く間にどす黒い積乱雲に覆われた。超巨大な漏斗状のうねりが、頭上に生じようとしている。まるで世紀末だ。
「ミラッ! こっち見ろって!」
 狂乱する風の咆哮に負けじと陽一は大声で叫んだ。それでもミラはこちらを見ようとしない。陽一はミラの襟をひっ掴んで、強引に視線をあわせた。
「ミラ、だめだよ」
「なぜ?」
 菫色の瞳に葛藤のような、不可思議な光が揺れている。
「頼むから抑えてくれよ。一般人に手をだしたらダメだよ、ね? ねっ?」
 おろおろという陽一の頬を、ミラは優しく撫でた。
「必死だね、陽一。人間の同族意識って理解できないなぁ。あんな連中がそんなに大事?」
 菫色の瞳が危険な光をおびる。
「ちげぇよ! 日常が、ミラと過ごす毎日が大事なんだよ。ミラが誰かを傷つけたら、困るじゃん、一緒に……学校いけなくなるかもしれないじゃんっ!!」
 風の騒擾そうじょうのなかで、陽一は声を限りに叫んだ。
 ミラは目に奇妙な光を見せた。逡巡するように沈黙していたが、やがて半泣きになっている陽一の瞳を、じっとのぞきこんできた。
「僕も陽一との毎日が大事です。だから、色々と我慢して地上にいるんだけど……我慢する必要がある? 僕は悪魔なのに、何を躊躇っているんだろう? 陽一はちっとも判っていないみたいだし」
 うんうん、と陽一は菫色の瞳に吸い込まれそうになりながらも頷いた。
「わかった! 俺にいいたいことがあるんだな? 話を聞くから移動しよう、なっ!? どこでもいいから、ふたりになれるところに、早く!!」
 一刹那、視界が変わった。
 轟音がやんで、ザン……さざなみの音が聴こえる。
 空は燃えるような夕焼けで、ラメ入りの帯ような暗紅色が流れており、その裳裾は透明な紅色だ。漏斗状の嵐など見る影もない。
 遥か上空から見下ろす絶景――
 鳥籠だ。
「えっ……」
 理解すると同時に、陽一は冷たい檻の柵を掴んだ。後ろから伸びてきた白い手が、陽一の手に重なる。振り向く間もなく、うなじに、じゅっと強く吸いつかれた。
「っ!」
 反射的に身じろぐと、手を掴む力が強くなった。ミラは腰をさらに密着させてきたので、陽一は潰れるみたいに檻に躰を押しつけることになった。おまけに黒い翼が左右から覆いかぶさり、
「っ、ミラッ」
 堪らず怯えた声が迸った。
 首筋を夢中で食んでいたミラは、ぴたりと動きを止めた。ゆっくり顔をあげると、気持ちを落ち着けるように、ふーっと深く、長く、息を吐いた。
 熱を帯びた沈黙。
 後ろから手を掴まれているので逃げられないが、ふたりの間に少しだけ空間がうまれたので、陽一は恐る恐る、ミラを肩越しに振り向いた。
「なんで、魔界ヘイルガイア……?」
 菫色の瞳が、じっと陽一を見つめている。
「“天使の輪”が壊れた反動で、人間を殺してしまいそうだったから。地上ではどうしても悪魔の本能が勝るんです」
 陽一は目をしばたかせる。やはり、さっきはとんでもなく危ないところだったのだ。危機一髪――鮫島も不良たちも、地球も。
「……それに、ここなら誰にも邪魔されない」
 菫色の瞳がスッと細められ、熱を孕むかのような火焔を煌めかせた。
 魔性の美貌が近づいてくる……なすすべもなく立ち尽くす陽一の頸筋に吐息が触れ、牙が触れた。
「ぁ、吸わないで……っ」
 びくっと頸を縮める陽一を、ミラはきつく抱きしめた。吸血されると身構えたが、ミラは優しい甘噛みを繰り返した。頸を遠ざけようとしても、片手で難なく固定されてしまう。かぷかぷと甘噛みを繰り返し、舌でねっとりと舐めあげる。獲物をいたぶるみたいに。
 いまにも牙が食いこみそうで、怖くて、緊張して、或いは、その瞬間が待ち遠しくて、陽一は涙がにじむのを感じた。これじゃ生殺しだ。血を吸われる悦楽を想像した途端に、押し寄せる官能に引きずりこまれた。
「ぁッ!」
 堪えようもなく股間が昂り、弾けた。ミラは熱いため息をつくと、陽一の腿の間に手をすべらせ、濡れた股間をスラックスの上から艶めかしく揉みしだいた。
「ぁうっ、はぁ、んん……っ」
 悦楽を尽くした鳥籠の記憶が濃密に蘇ってきて、陽一は恐慌状態に陥った。
「う、待っ、待って待って、待って! ミラ! 待って! ミラ!!」
 何度も叫んで、ようやくミラは動きを止めた。
「やだよ、いきなりこんな……驚いて、ちょっと冷静になりたい」
 悪魔の誘惑から逃れるため、陽一は目を瞑ったまま訴えた。耳元で官能的な低い唸り声がして、反射的に肩が撥ねる。
「……抑えきれない。陽一をめちゃくちゃにしちゃいそう」
 はぁ、と熱いため息が、首筋に触れた。いますぐミラに手を伸ばしたい衝動を、陽一は歯を喰いしばることでどうにか堪えた。
「……お願い……ミラ……」
 目を閉じた直立姿勢のまま、陽一は囁いた。
「……」
 ミラはしばらく沈黙していた。
 やがて、ゆっくりと離れる気配に、陽一は恐る恐る目を開ける。ミラは、冷静さと熱っぽさの綯交ぜになった瞳で陽一を見つめていた。
「ちょっと発散してきます」
「はっさん?」
仕事・・してくるから、陽一はここにいて」
「仕事」
 鸚鵡返しに訊ねる陽一に、ミラは軽く頷いてみせた。
「三千世界の殲滅案件が溜まっているので、消化してきます」
 ミラは陽一の頭にちゅっとキスをすると、ぱっと躰を離し、異次元宇宙の極光オーロラを生じさせると共に姿を消した。
 残された陽一は、しばし茫然としていた。
 さっきまでの轟音が嘘のように、すべてが森閑しんかんとしているかのようだ。
 我に返ると、悲惨なことになっている下半身を見て、げんなりした。秒でイかされた……下着を汚すなんて最悪だ。
 ぐるりと見回す限り、鳥籠の内装は以前と変わらない。
 半二階があり、天蓋から垂れる青い紗に囲まれたしとね。浴槽と衝立の奥にあるトイレ、ティーテーブルに観葉植物。恐らく衣装箪笥の中身も変わっていないのだろう。
 ともかくシャワーを浴びようと猫脚のバスタブに入ると、懐かしい感覚に襲われた。
(まさか、鳥籠に戻ってくるなんてな)
 驚きながらも、いつかはこんな日が訪れるような気もしていた。
 身を清めて、大判のタオルを腰に巻いて抽斗ひきだしをあけると、ちゃんと着替えが入っていた。肌ざわりの良い上品な部屋着を纏うと、硝子ポットの置かれたティーテーブルの白い錬鉄製の椅子に座った。
 ここから眺める景色は変わらない。空に浮かぶ鳥籠も、金色に輝く海も……ぼんやり眺めながら、鮫島や不良たちのことを考えた。地上は無事だろうか? 漏斗状の嵐は霧散したのだろうか?
 確認したくても、ミラは今いない。仕事にいってしまった。
 ――仕事、つまり、三千世界の殲滅だ。
 いつか見た悲惨な光景が脳裏をよぎり、両腕を自分を守るように躰に巻きつけた。躰がうっすら黄金に輝いてるのは、危険な精神侵犯に、神の加護が反応したのかもしれない。
 だから、あんなに残酷な光景はないと思いながら、それが悪魔と天使の金科玉条きんかぎょくじょうなのだと、どこか冷静に考えることができるのだろう。
 殲滅されるどこかの三千世界を気の毒に思うが、陽一にはどうしようもできない。地球を壊さないように訴えるだけで精一杯だ。
 今回もどうにか危機一髪だったが、鳥籠に戻ってきてしまったことを思うと、果たして危機を脱したといえるのだろうか?
 ……判らないが、ここでの記憶は、決して辛いばかりではなかった。まぁ、懐かしさのなかには、一抹の恐怖感が水に溶けた少量の毒のように、混じっているのだが……
(帰れる……よな?)
 監禁されていたときの生々しい記憶――眼裏にった幻影を、頸を振って振り払う。その緊張感も間もなく緩んだ。ぐぅと腹が鳴り、そういえばラーメンを食べ損ねたな、と思った。