HALEGAIA
3章:悪魔たちの
宇宙の霄壌 。魔界 と三千世界の端境 に、ジュピターは応召した。
「魔王さま」
玲瓏 たる美貌の悪魔に、恭しく頭 を垂れる。彼を前にすると、いつだって平静ではいられない。生娘のように、心の弦 をかき鳴らされてしまう。
その浮足立った感情も、次の言葉によってかき消された。
「陽一に、手をださないでください」
ミラは優雅だが冷厳な口調で命じた。
「申し訳ありません。ビショップが気にしておりましたので、鳥籠から連れだそうと……」
端正な顔に悔悟を浮かべ、ジュピターはしおらしく答えた。
思わず慰めたくなるような儚げな風情だが、ミラは薄く笑った。
「戯 れ言は結構。そのような心配をしなくても、陽一のことは大切にしていますよ」
その声には、真実の響きがあった。ジュピターは目を伏せたまま、ほとんど沈痛に響く声で答える。
「……それほどお気に召したのですか」
「ええ。ですから、金輪際手をださないでください。聖霊と違って、人間は脆弱で儚い生き物なんです」
脅しめいた微笑に、ジュピターは見惚れると同時に、胸に抉られるような痛みを感じた。
晴天の霹靂である。
幾星霜魔王を見てきたが、彼がこれほどまで心を砕く相手は、今まで一人もいなかった。ましてや取るに足らない人間に、執着を示すだなんて。
一時戯れる相手なら、星の数ほどいた。
妬ましくても、すぐに終わると知っていたから傍観していられたのに……いられなくても、魔王がここまで怒りを露わにすることはなかった。
歯痒い思いで、ジュピターは俯いた。
唯一ではない、星屑のような人間を傍に置くというのなら、ジュピターでも良いではないか。無尽蔵の星幽界 の因子だって、良いではないか……
魔王の心を独占している少年に、嫉妬の念を掻き立てられずにはいられない。胸のなかで、埋 み火が、一挙に燃えあがった。
「全く、貴方たち は懲りませんねぇ……今回は見逃しますが、次は容赦しませんよ」
ミラは、項垂れるジュピターを睥睨していった。
恩情をかけたというよりは、面倒を避けたというのが本音である。
星幽界 の因子は、殺しても殺しても、次から次へと現れる。神からは小言をいわれるし、手間をかける割に得られるものがなく、蹉跌 を味わうばかりで旨味がないのだ。
第一、軛 も拷問も、ミラから与えられるものであれば苦痛ですら悦びを伴うジュピターには意味がない。
適当に突き放しておくのが、一番面倒がないのである。
「いい子にしていてくださいね」
ミラは、睦言のように囁くと、菫色の虹彩を天に向けた。
銀色の筋が走り、空間に亀裂を走らせ砕け散った。破片を散らし、黒い空洞がのぞいて、無彩色の灰色から白へと変わっていく……
幻覚だ。ジュピターの感覚が視せている、意識の投影。
魔王が空間を超える様子を幾度となく目にしてきたが、今は、世界が失われたように感じられた。
魔界 にも、天界 にも、端境 にも、三千世界にも――この宇宙のどこにも居場所がない。何もない世界に、ジュピターは遺 されてしまった。
恐ろしいほどの淋しさが胸を浸し、無限の彼方に霧散した意識を、躰のなかに集めまとめるのに、ジュピターは苦労した。
虚 を満たしたのは、憎しみだった。
大切にされている人間の少年が、妬ましくて、憎らしくてたまらない。
本来魔族は人間を前にすると、嬲らずにはいられないはずなのだ。だというのに、陽一に限って当てはまらないのは、恐らく彼が魔界 に囚われているからなのだろう。人間界へ堕ちれば、然 しもの魔王も目が醒めるに違いない。
(あの少年をなんとしても連れださなくては)
仄昏い決意を胸に、ジュピターは対の聖霊であるビショップに呼びかけた。
聖霊は、時間も重力も超越した上位次元の使徒であり、その魂は繋がっているのだ。
(ビショップ、話があります)
応 えはすぐにあり、二人は天界 と三千世界の端境 に姿を見せた。
ここであれば、魔王にも不可知である。秘密の会話を悟られることもない。
「こんにちは、ビショップ」
ジュピターが優雅にお辞儀をすると、ビショップも同じようにお辞儀をした。基本的に聖霊は礼儀正しいのである。
「どうかしましたか?」
ビショップが訊ねた。
「ええ。貴方の代わりに鳥籠に入っている少年のことで、困ったことになっています」
と、ジュピター。
「困ったこと? 魔王の寵愛を受けていると聞きましたが……なにかありましたか?」
「まさにそれです。魔王さまの贔屓に、同胞 たちが動揺しています。このままでは、よくないことが起こるでしょう」
その言葉には嫉妬が含まれていて、ビショップは不快げに顔をしかめた。聖霊は魂を共有しているので、ジュピターのミラを慕う気持ちが否応なしに伝播 し、嫌悪したのである。
同じようにジュピターも、ビショップのミラに対する嫌悪を共有し、一瞬、困ったような顔を浮かべた。
「ビショップ、あの少年を助けてください。魔界 にいては、いずれ殺されてしまうでしょう」
ビショップは表情を曇らせた。
「私も責任を感じていますが、魔王の寵愛があるうちは、連れていくわけにもいきません」
「魔王さまの寵愛は一時の戯れ。躊躇することはありません」
ビショップは肩と畳んだ翼を一緒にすくめた。
「一時の戯れだというのなら、もう少し静観してはいかがですか? 魔王が手放した時は、私が人間界へ連れていきますよ」
「いいえ、ビショップ。陽一は儚い人間の身。今すぐにでも鳥籠から逃がしてやらなくてはいけません」
ジュピターはもっともらしい口調でいったが、ビショップは諫める目で見つめた。
「その言葉は、あの少年を思ってのことですか? それとも、恋着ですか?」
核心を突いた指摘に、ジュピターの端正な顔は物憂げに翳った。
「もちろん、魔王さまをお慕いしています。けれど、少年を憐れに思うわたくしの気持ちも、本当ですよ」
「知っていますよ、ジュピター。私は貴方であり、貴方は私なのだから」
ビショップは身を屈め、ジュピターの額に唇を押し当てた。共感と親愛のキスを受けながら、ジュピターは懇願の眼差しでビショップを見つめた。しかし、蒼氷色の瞳に宿る理知的な輝きは、変わらなかった。
「彼に手をだしてはなりません。貴方の身を焦がすことになりますよ。平衡を保つのです」
清廉なる賢者は、翡翠の眼にじっと視線をあてまま、静かな口調でいった。
ジュピターは弱弱しく微笑を返しながら、小さく頷いた。
互いの意識が同調し、浸透しきるのを感じると、彼は納得したように光の粒子を瞬かせて姿を消した。
残されたジュピターは、微笑を消して瞑目した。
ビショップに申し訳ないと思いつつ、どうやら平衡を保つことは難しそうだという思いに囚われていた。
無為無策のまま看過はできない。自分は恐らく、陽一を殺してしまうだろう。
「魔王さま」
その浮足立った感情も、次の言葉によってかき消された。
「陽一に、手をださないでください」
ミラは優雅だが冷厳な口調で命じた。
「申し訳ありません。ビショップが気にしておりましたので、鳥籠から連れだそうと……」
端正な顔に悔悟を浮かべ、ジュピターはしおらしく答えた。
思わず慰めたくなるような儚げな風情だが、ミラは薄く笑った。
「
その声には、真実の響きがあった。ジュピターは目を伏せたまま、ほとんど沈痛に響く声で答える。
「……それほどお気に召したのですか」
「ええ。ですから、金輪際手をださないでください。聖霊と違って、人間は脆弱で儚い生き物なんです」
脅しめいた微笑に、ジュピターは見惚れると同時に、胸に抉られるような痛みを感じた。
晴天の霹靂である。
幾星霜魔王を見てきたが、彼がこれほどまで心を砕く相手は、今まで一人もいなかった。ましてや取るに足らない人間に、執着を示すだなんて。
一時戯れる相手なら、星の数ほどいた。
妬ましくても、すぐに終わると知っていたから傍観していられたのに……いられなくても、魔王がここまで怒りを露わにすることはなかった。
歯痒い思いで、ジュピターは俯いた。
唯一ではない、星屑のような人間を傍に置くというのなら、ジュピターでも良いではないか。無尽蔵の
魔王の心を独占している少年に、嫉妬の念を掻き立てられずにはいられない。胸のなかで、
「全く、貴方
ミラは、項垂れるジュピターを睥睨していった。
恩情をかけたというよりは、面倒を避けたというのが本音である。
第一、
適当に突き放しておくのが、一番面倒がないのである。
「いい子にしていてくださいね」
ミラは、睦言のように囁くと、菫色の虹彩を天に向けた。
銀色の筋が走り、空間に亀裂を走らせ砕け散った。破片を散らし、黒い空洞がのぞいて、無彩色の灰色から白へと変わっていく……
幻覚だ。ジュピターの感覚が視せている、意識の投影。
魔王が空間を超える様子を幾度となく目にしてきたが、今は、世界が失われたように感じられた。
恐ろしいほどの淋しさが胸を浸し、無限の彼方に霧散した意識を、躰のなかに集めまとめるのに、ジュピターは苦労した。
大切にされている人間の少年が、妬ましくて、憎らしくてたまらない。
本来魔族は人間を前にすると、嬲らずにはいられないはずなのだ。だというのに、陽一に限って当てはまらないのは、恐らく彼が
(あの少年をなんとしても連れださなくては)
仄昏い決意を胸に、ジュピターは対の聖霊であるビショップに呼びかけた。
聖霊は、時間も重力も超越した上位次元の使徒であり、その魂は繋がっているのだ。
(ビショップ、話があります)
ここであれば、魔王にも不可知である。秘密の会話を悟られることもない。
「こんにちは、ビショップ」
ジュピターが優雅にお辞儀をすると、ビショップも同じようにお辞儀をした。基本的に聖霊は礼儀正しいのである。
「どうかしましたか?」
ビショップが訊ねた。
「ええ。貴方の代わりに鳥籠に入っている少年のことで、困ったことになっています」
と、ジュピター。
「困ったこと? 魔王の寵愛を受けていると聞きましたが……なにかありましたか?」
「まさにそれです。魔王さまの贔屓に、
その言葉には嫉妬が含まれていて、ビショップは不快げに顔をしかめた。聖霊は魂を共有しているので、ジュピターのミラを慕う気持ちが否応なしに
同じようにジュピターも、ビショップのミラに対する嫌悪を共有し、一瞬、困ったような顔を浮かべた。
「ビショップ、あの少年を助けてください。
ビショップは表情を曇らせた。
「私も責任を感じていますが、魔王の寵愛があるうちは、連れていくわけにもいきません」
「魔王さまの寵愛は一時の戯れ。躊躇することはありません」
ビショップは肩と畳んだ翼を一緒にすくめた。
「一時の戯れだというのなら、もう少し静観してはいかがですか? 魔王が手放した時は、私が人間界へ連れていきますよ」
「いいえ、ビショップ。陽一は儚い人間の身。今すぐにでも鳥籠から逃がしてやらなくてはいけません」
ジュピターはもっともらしい口調でいったが、ビショップは諫める目で見つめた。
「その言葉は、あの少年を思ってのことですか? それとも、恋着ですか?」
核心を突いた指摘に、ジュピターの端正な顔は物憂げに翳った。
「もちろん、魔王さまをお慕いしています。けれど、少年を憐れに思うわたくしの気持ちも、本当ですよ」
「知っていますよ、ジュピター。私は貴方であり、貴方は私なのだから」
ビショップは身を屈め、ジュピターの額に唇を押し当てた。共感と親愛のキスを受けながら、ジュピターは懇願の眼差しでビショップを見つめた。しかし、蒼氷色の瞳に宿る理知的な輝きは、変わらなかった。
「彼に手をだしてはなりません。貴方の身を焦がすことになりますよ。平衡を保つのです」
清廉なる賢者は、翡翠の眼にじっと視線をあてまま、静かな口調でいった。
ジュピターは弱弱しく微笑を返しながら、小さく頷いた。
互いの意識が同調し、浸透しきるのを感じると、彼は納得したように光の粒子を瞬かせて姿を消した。
残されたジュピターは、微笑を消して瞑目した。
ビショップに申し訳ないと思いつつ、どうやら平衡を保つことは難しそうだという思いに囚われていた。
無為無策のまま看過はできない。自分は恐らく、陽一を殺してしまうだろう。