HALEGAIA

3章:悪魔たちの燔祭はんさい - 2 -

 陽一は、鳥籠のなかでストレッチをしていた。時々、こうして躰を動さないと、筋肉が落ちてしまうのだ。
 念入りに柔軟をしてから、腹筋に背筋、半二階を使って懸垂をこなし、体幹トレーニングを終える頃には汗みずくになっていた。
 シャワーを浴び終えると、昼間から一転して、世界はまったき暗闇にとざされた。相も変わらず時間経過がめちゃくちゃな世界である。
 頭上には、渦上の銀河や無数の星々が瞬いており、美しくも幻想的な光景が拡がっている。以前から思っていたことだが、魔界ヘイルガイアは眺める分には美しい世界だ。
 夜空に魅入っていたが、ふと、視界の端に緑色の光を捉えた。
「ん……?」
 格子の外に、なにやら、ひらひらと靡くオーロラにも似た光の帯がある。
 正体不名だが、悪霊のような禍々しさはない。きららかで、清涼としている。だが同時に、己の命運を分かつしるしのような重々しさがあった。
 じっと見つめていた陽一は、予感の命ずるまま、格子の合間から手を伸ばした。
 やめておけ――頭の片隅で警鐘が鳴っている。だが、どうしても惹かれてしまう。
 触れたい。
 氷河の下層のような、深い蒼碧に輝く光に触れてみたい……精一杯に手を伸ばし、指先が、光をかすめた。
 突然、鳥籠の扉が開いて、円盤の台座が現れた。
「えっ!?」
 はっと正面を見れば、光の帯はもうなかった。
 茫然とし、恐る恐る足を踏みだし、台座に両足を乗せた瞬間、視界が変わった。
「うぉっ!?」
 陽一は、森にいた。
 あまりにも突然の状況変化に、理解が追いつかない。もしかして自分は、パンドラの箱を開けてしまったのだろうか?
 だが、厄災への恐怖よりも、大地を踏みしめる感触に意識を奪われた。
 眼前に、往古の原型を留めた森が拡がっている。
 土の匂い、滴るような緑の匂い。鳥獣の泣き声、梢の音。かすかに聞こえてくる岩清水の音。
 あるがままの大自然が、命の賛歌を合唱している。地上世界の情報量の多さに、圧倒されてしまう。
「すごい……」
 身震いと興奮と恐怖を一度に感じた。心臓が脈打つのを感じながら、二、三歩と進み、視線を彷徨わせた。
 誰もいない。鬱蒼とした茂みが拡がっているばかりだ。
 森の塁壁るいへきに阻まれ、途方に暮れて立ち尽くしたが、じっとしているのは不味かろう。本能が怯えている。不穏な空気を察して、うなじの毛がぴりぴりと逆立っていく。
 腰だめに姿勢を落とした時、四方を囲む枝が不気味に蠢いた。まるで陽一を捕まえようとするかのように、無数の枝をこちらへ伸ばしてくる。
「うわぁっ!?」
 陽一は頓狂な声をあげて、無我夢中で逃げた。ここが普通の森であるわけがなかった。予測不可能な魔界ヘイルガイアの樹海なのだ!
 蹴躓きながら、必死に走り、息が苦しくなったところで立ち止ると、もう追いかけてくる枝はなかった。
 呼吸を整えながら慎重に歩いていると、間もなく開けた野原にでた。
 安堵して周りを見回したのも束の間、二足立ちの小さな恐竜が眼前に現れた。
 ダラードだ。
 小柄でかわいらしい姿をしているが、集団知能と帰巣本能に優れ、狡猾に狩りをする猛獣である。一匹に見えても、それは偵察隊で、背後に数百規模の群れが潜んでいる――楽園百科にそう書いてあった。
 案の定、茂みから一匹、また一匹と現れ、たちまち囲まれた。
 数は向こうの方が圧倒しているが、どういうわけか、陽一を恐れているような節があった。舌にある刻印スティグマに怯えているのだろうか?
 陽一は勝機をうかがい、腰を落とし、息を詰め、あらゆる感覚を研ぎ澄ました。こちらから攻撃するつもりはないが、襲ってくるようなら話は別だ。
 小さな魔物たちは、飛びあがったり、唸ったりしながら、陽一を威嚇してくる。
「ぐぁっ!」
 背後から忍び寄ってきた一匹に足首を噛みつかれ、鋭い痛みが走った。
 その瞬間、陽一は恐慌に陥った。相手をびびらせ、追い払うという当初の魂胆は消え失せ、とにかく死に物狂いで暴れて、襲撃者たちを遠慮構わず殴りつけ、蹴飛ばし、踏みつけた。
 後ろからとびかかってきた魔物に、手に持っていた枝を突き刺した。
「ぎゃぎゃっ!」
 魔物が苦痛の悲鳴をあげる。四肢をもがき、口から血を流して、鋭い牙を真っ赤に染めあげる。仲間が串刺しになったのを見て、他の襲撃者たちは警戒するように陽一から距離をとった。
(ちくしょう!)
 生き物を傷つける感触に、陽一は震えた。一刻も早く枝から手を離し、逃げてしまいたかったが、そうはしなかった。この枝は陽一の武器だ。命綱だ。今気を抜いたら、残りの襲撃者たちにやられてしまう。
(ミラ、ミラ……っ)
 心のなかで呪文のように唱えていた。唇を引き結んで、いってしまいたい衝動をどうにかこらえた。
 絶対絶命に近い状況だが、鳥籠から逃げだす千載一遇の好機でもある。ここで諦めてしまったら、二度と鳥籠の外へでられないかもしれない。
「くるな!」
 鱗の獣たちは、赤い目を蘭々と光らせ、陽一から少しずつ距離をとった。脚を引きずりなら、逃げていくものもいる。
 勝った、という気はしなかった。
 弱肉強食が前面に押しだされた狩場に突き落とされ、ようやく一つの危機を脱したに過ぎない。
 次は助からないかもしれない。もっと大きな肉食の獣が現れたら、今度は陽一の方が噛み殺されるかもしれない。
 そう思った時、奇妙にぼんやりとした考えが脳裡をよぎった。
 畢竟ひっきょうミラに助けを求めてしまい、彼は即時に応じてくれるが、鳥籠に逆戻り――二度とでられないという、絶望的な考えだ。
 陽一は軽く頭を振って、後ろ向きな思考を振り払った。
 森を抜けたら、もしかしたら、陽一を助けてくれる誰かが見つかるかもしれない。