HALEGAIA
1章:鳥籠 - 10 -
昇りゆく大小二つの月が、海面に輝く道を伸ばし始めた黄昏時。
陽一は、ベッドの上で目を醒ました。身を起こし、様変わりした鳥籠を眺め回し、ミラの存在が夢でないことを悟った。さらにいえば、舌にある異質で強大なものが、ミラの存在を証明するかのようだった。
(マジかよ……)
ベッドに腰かけると、躰の軽さに驚いた。清潔になり、腹を満たして、ぐっすり眠ったおかげだろう。
格子の傍まで歩いていくと、灰色の巨大な海鳥が、海岸近くの低いところを滑空していく姿が見えた。
陽一は椅子に座り、海を眺めながら、思索に耽った。
ここが普通の世界でないことは判っていたが、まさか悪魔の支配する魔界 だとは思わなかった。
ミラの話は、あまりにも奇想天外で、彼にされたことといい、到底現実に起きたこととは思えない……が、現実なのだ。
彼の整えた排泄の仕組みで、用を足した。喉が渇いて紅茶の残りを飲み干した。空腹でお菓子も食べた。今は、寒いと感じて、掛布を羽織っている。
現実的な五感の訴え、生理的な欲求が陽一を冷静にさせる。
(わけ判んね。魔界 ? なんだよそれ……)
深刻げにかぶりを振った陽一は、視界の端に映った光景にぎくりとさせられた。甲虫の鳥籠に、番人が入っていくではないか。
生きていたのか?
突き落としたのに?
一体、どんな躰の造りをしているのだろう? 或いは、別の従僕 なのだろうか?
「ていうか、ここにはこないよな?」
漠然とした嫌悪を覚えて、胃がしくしくと痛んだ。忘れたいのに、蹴り落とした時の感覚が蘇り、ぶるっと身震いした。生きるために殺したのだと自分にいい聞かせても、罪の意識を拭いきれない。ついこの間まで太平楽に生きていたというのに、今では全くの別人になってしまった気がする。
無意識に唇を噛んだところで、舌のうえの違和感に意識が向いた。ミラに植えつけられた印。確かにこれがあれば、自分では知りえない、複雑な音列を紡げる気がする。
名前を口にしたら、彼は本当に現れるのだろうか? ヒーローみたいに?
疑問に思いつつ、視線を感じて顔をあげた。対面の鳥籠にいる、ぞっとするような眼差しの悪霊と目が遭って、陽一は小さな悲鳴をあげた。
「ひっ……」
ずっと直視しないように気をつけていたのに、ばっちり見てしまった。視線を逸らせずにいると、嵐雲 のなかに佇む髪の長い女は、にたりと口元を歪ませた。
陽一は恐怖に呻いた。
怨霊はすぐにまた不定形な靄に溶けこんだが、網膜にしかと焼きついてしまった。ぞぞぞっと怖気が背筋を駆けあがってきて、陽一は力いっぱい叫んだ。
「ミラ! ――――――――ッ!!」
人間には不可知の霊妙なる音列を紡ぐと、扉の外に、銀色の光条が垂直に走った。続いて、横に拡がり、魔法陣のような光の円環と、複雑精緻な記号が出現した。
「陽一?」
ミラは光のなかから、忽然と現れた。掛布にくるまっている陽一を見て、思案げな顔つきで鳥籠のなかへ入ってくる。
(ほ、本当にきた……)
自分で呼んでおきながら、陽一は驚かずにはいられなかった。
ミラは相変わらず美しかった。瑕瑾 すらない白い肌に、黄金比に整った美貌。稀有な菫色の瞳と色づいた唇。
しなやかな肢体を、襟や袖に金装飾があしらわれた絢爛華麗な式服に包み、編み革靴に大粒の紅玉が光っている。細身の長剣を佩 いた姿は、胸がずきっとするほど凛々しく美々しくて、目を奪われずにはいられない。
「どうかしましたか?」
ミラはベッドに腰かけると、陽一の頭を撫でた。その優しい仕草に、恐怖心が晴れていくのを感じて、陽一は戸惑ってしまう。彼を警戒している一方で、頼りにしている自分に気づかされた。
小刻みに震えている陽一に気がついて、ミラは首を傾けた。
「寒いですか?」
「あぁ、少し……いや、じゃなくて、今、今さ!」
混乱気味に白い息を吐く陽一を見て、ミラは指を鳴らした。
「すみません、制御装置が初期化されていたことを忘れていました」
次の瞬間には空気がふわっと暖かくなり、陽一は目を瞬いた。
「あったかい……」
寒くて困っていたのですか? ミラに訊かれて、陽一は顔をあげた。
「違う。今さ、あの鳥籠になんかいたんだよ!」
「思念体がどうかしましたか?」
「しねんたい?」
「極めて凶悪な怨霊です」
「怨霊!?」
「珍しいでしょう? ある古城で捕まえました。目が遭った者を必ずとり殺すんですよ」
「目が遭っちゃったんですけどッ!?」
陽一は涙目で訴えた。
「あはは、大丈夫ですよ。鳥籠からでてくることはありませんから」
「本当かよ! この鳥籠にいた聖霊は逃げたんだろ!?」
あはは、確かに。とミラは呑気に笑っている。陽一はカッとなって、ミラに食ってかかった。
「なんだこのずさんな管理は! 責任者を呼べ!」
「僕です」
楽しそうに笑っている邪悪で天真爛漫な悪魔を、陽一は射殺さんばかりに睨みつけた。が、すごんだところで彼に通用するはずもなく、すぐに眉を八の字にさげた。
「頼むよ~……俺、マジでこういうのダメなんだよ。超怖いんですけど」
ミラは震える陽一の背を撫でて宥めた。
「大丈夫ですよ。今、この鳥籠の防壁を上書きしましたから。どんな外敵も、なかに入ってくることはできません」
「本当かよ?」
「ええ。僕意外はね」
陽一は頷いたが、恐怖は消えそうにない。怨霊というのも納得、形容しがたい不気味な目つきには、心胆を寒からしめる悪意がこもっていた。
「怨霊がそんなに怖いですか?」
「怖くない奴なんていないと思う……」
いったあとで、彼は怖くないらしい、ということに思い至った。
「もうしばらく、傍にいてあげましょうか?」
「それより、俺をここからだしてもらえないでしょうか?」
「ふふ」
「ふふ、じゃなくてさ……」
陽一は脱力した。そのまま黙りこんだが、しばらくして顔をあげた。
「さっき怪……従僕 が鳥籠に入っていくところを見たんだけど、あいつ、生きてたの?」
「陽一が蹴落とした従僕 なら、森を徘徊していると思いますよ。陽一が見たのは別の者でしょう。鳥籠の世話をする従僕 は、大勢いますから」
「……落ちたのに、死なないんだ」
「食屍鬼 は不死属性ですから、外見は劣化することがあっても、死にません」
「へぇ……」
「ところで、空腹ですか?」
「いや、そうでもない」
「では、水だけ補充しておきます。これで僕は戻りますが、その前に……」
と、ミラは触れもせずに水甕を補充したあと、陽一の方へ身を屈めてきた。
「待て」
陽一はミラの顔を手でおさえつけた。指の合間から、紫の瞳が不満そうに訴えてくる。
「何をするんです」
「こっちの台詞だ。何しやがる」
「刻印 は一度しか使えないのです。かけ直さないと」
「何っ!? ちょ、待てっ……んんっ」
遅かった。顔を背けようとしても、ミラは陽一の頭をつかまえ、唇を奪った。吐息を飲みこみ、舌をねじこんで、絡ませる。
「ふぅ……ん……」
舌にのせられる熱に圧倒された陽一は、どうにかミラにしがみついていることしかできなかった。甘く貪られながら、無意識のうちに、下腹部をミラに押しつけてしまう。極めて強力な催淫剤と興奮剤を投与されたみたいに、めくるめく悦びの予感に股間が疼く。愛撫をせがむように硬くなっていく。
「よ、よせっ……!」
どうにか理性を呼び醒まし、陽一は息も絶え絶えにミラを睨みつけた。
「はぁ、はぁ、……ったく、キスはやめろ!」
「ふふ」
怒鳴りつけられても、ミラは楽しそうに微笑し、陽一の濡れた唇を親指でぬぐった。
「何かあれば、遠慮せずに呼んでくださいね」
機嫌良さそうにいって鳥籠をでて扉をしめると、最後に陽一に笑みかけてから、忽然と姿を消した。
残された陽一はしばらく茫然としていたが、はっと息をのんだ。
「まさか、毎回こうなのか? ミラを呼ぶ度にキスされんの、俺?」
口を手で押さえながら、今いった通りになるのだろうという予感に、思わず呻きたくなった。
陽一は、ベッドの上で目を醒ました。身を起こし、様変わりした鳥籠を眺め回し、ミラの存在が夢でないことを悟った。さらにいえば、舌にある異質で強大なものが、ミラの存在を証明するかのようだった。
(マジかよ……)
ベッドに腰かけると、躰の軽さに驚いた。清潔になり、腹を満たして、ぐっすり眠ったおかげだろう。
格子の傍まで歩いていくと、灰色の巨大な海鳥が、海岸近くの低いところを滑空していく姿が見えた。
陽一は椅子に座り、海を眺めながら、思索に耽った。
ここが普通の世界でないことは判っていたが、まさか悪魔の支配する
ミラの話は、あまりにも奇想天外で、彼にされたことといい、到底現実に起きたこととは思えない……が、現実なのだ。
彼の整えた排泄の仕組みで、用を足した。喉が渇いて紅茶の残りを飲み干した。空腹でお菓子も食べた。今は、寒いと感じて、掛布を羽織っている。
現実的な五感の訴え、生理的な欲求が陽一を冷静にさせる。
(わけ判んね。
深刻げにかぶりを振った陽一は、視界の端に映った光景にぎくりとさせられた。甲虫の鳥籠に、番人が入っていくではないか。
生きていたのか?
突き落としたのに?
一体、どんな躰の造りをしているのだろう? 或いは、別の
「ていうか、ここにはこないよな?」
漠然とした嫌悪を覚えて、胃がしくしくと痛んだ。忘れたいのに、蹴り落とした時の感覚が蘇り、ぶるっと身震いした。生きるために殺したのだと自分にいい聞かせても、罪の意識を拭いきれない。ついこの間まで太平楽に生きていたというのに、今では全くの別人になってしまった気がする。
無意識に唇を噛んだところで、舌のうえの違和感に意識が向いた。ミラに植えつけられた印。確かにこれがあれば、自分では知りえない、複雑な音列を紡げる気がする。
名前を口にしたら、彼は本当に現れるのだろうか? ヒーローみたいに?
疑問に思いつつ、視線を感じて顔をあげた。対面の鳥籠にいる、ぞっとするような眼差しの悪霊と目が遭って、陽一は小さな悲鳴をあげた。
「ひっ……」
ずっと直視しないように気をつけていたのに、ばっちり見てしまった。視線を逸らせずにいると、
陽一は恐怖に呻いた。
怨霊はすぐにまた不定形な靄に溶けこんだが、網膜にしかと焼きついてしまった。ぞぞぞっと怖気が背筋を駆けあがってきて、陽一は力いっぱい叫んだ。
「ミラ! ――――――――ッ!!」
人間には不可知の霊妙なる音列を紡ぐと、扉の外に、銀色の光条が垂直に走った。続いて、横に拡がり、魔法陣のような光の円環と、複雑精緻な記号が出現した。
「陽一?」
ミラは光のなかから、忽然と現れた。掛布にくるまっている陽一を見て、思案げな顔つきで鳥籠のなかへ入ってくる。
(ほ、本当にきた……)
自分で呼んでおきながら、陽一は驚かずにはいられなかった。
ミラは相変わらず美しかった。
しなやかな肢体を、襟や袖に金装飾があしらわれた絢爛華麗な式服に包み、編み革靴に大粒の紅玉が光っている。細身の長剣を
「どうかしましたか?」
ミラはベッドに腰かけると、陽一の頭を撫でた。その優しい仕草に、恐怖心が晴れていくのを感じて、陽一は戸惑ってしまう。彼を警戒している一方で、頼りにしている自分に気づかされた。
小刻みに震えている陽一に気がついて、ミラは首を傾けた。
「寒いですか?」
「あぁ、少し……いや、じゃなくて、今、今さ!」
混乱気味に白い息を吐く陽一を見て、ミラは指を鳴らした。
「すみません、制御装置が初期化されていたことを忘れていました」
次の瞬間には空気がふわっと暖かくなり、陽一は目を瞬いた。
「あったかい……」
寒くて困っていたのですか? ミラに訊かれて、陽一は顔をあげた。
「違う。今さ、あの鳥籠になんかいたんだよ!」
「思念体がどうかしましたか?」
「しねんたい?」
「極めて凶悪な怨霊です」
「怨霊!?」
「珍しいでしょう? ある古城で捕まえました。目が遭った者を必ずとり殺すんですよ」
「目が遭っちゃったんですけどッ!?」
陽一は涙目で訴えた。
「あはは、大丈夫ですよ。鳥籠からでてくることはありませんから」
「本当かよ! この鳥籠にいた聖霊は逃げたんだろ!?」
あはは、確かに。とミラは呑気に笑っている。陽一はカッとなって、ミラに食ってかかった。
「なんだこのずさんな管理は! 責任者を呼べ!」
「僕です」
楽しそうに笑っている邪悪で天真爛漫な悪魔を、陽一は射殺さんばかりに睨みつけた。が、すごんだところで彼に通用するはずもなく、すぐに眉を八の字にさげた。
「頼むよ~……俺、マジでこういうのダメなんだよ。超怖いんですけど」
ミラは震える陽一の背を撫でて宥めた。
「大丈夫ですよ。今、この鳥籠の防壁を上書きしましたから。どんな外敵も、なかに入ってくることはできません」
「本当かよ?」
「ええ。僕意外はね」
陽一は頷いたが、恐怖は消えそうにない。怨霊というのも納得、形容しがたい不気味な目つきには、心胆を寒からしめる悪意がこもっていた。
「怨霊がそんなに怖いですか?」
「怖くない奴なんていないと思う……」
いったあとで、彼は怖くないらしい、ということに思い至った。
「もうしばらく、傍にいてあげましょうか?」
「それより、俺をここからだしてもらえないでしょうか?」
「ふふ」
「ふふ、じゃなくてさ……」
陽一は脱力した。そのまま黙りこんだが、しばらくして顔をあげた。
「さっき怪……
「陽一が蹴落とした
「……落ちたのに、死なないんだ」
「
「へぇ……」
「ところで、空腹ですか?」
「いや、そうでもない」
「では、水だけ補充しておきます。これで僕は戻りますが、その前に……」
と、ミラは触れもせずに水甕を補充したあと、陽一の方へ身を屈めてきた。
「待て」
陽一はミラの顔を手でおさえつけた。指の合間から、紫の瞳が不満そうに訴えてくる。
「何をするんです」
「こっちの台詞だ。何しやがる」
「
「何っ!? ちょ、待てっ……んんっ」
遅かった。顔を背けようとしても、ミラは陽一の頭をつかまえ、唇を奪った。吐息を飲みこみ、舌をねじこんで、絡ませる。
「ふぅ……ん……」
舌にのせられる熱に圧倒された陽一は、どうにかミラにしがみついていることしかできなかった。甘く貪られながら、無意識のうちに、下腹部をミラに押しつけてしまう。極めて強力な催淫剤と興奮剤を投与されたみたいに、めくるめく悦びの予感に股間が疼く。愛撫をせがむように硬くなっていく。
「よ、よせっ……!」
どうにか理性を呼び醒まし、陽一は息も絶え絶えにミラを睨みつけた。
「はぁ、はぁ、……ったく、キスはやめろ!」
「ふふ」
怒鳴りつけられても、ミラは楽しそうに微笑し、陽一の濡れた唇を親指でぬぐった。
「何かあれば、遠慮せずに呼んでくださいね」
機嫌良さそうにいって鳥籠をでて扉をしめると、最後に陽一に笑みかけてから、忽然と姿を消した。
残された陽一はしばらく茫然としていたが、はっと息をのんだ。
「まさか、毎回こうなのか? ミラを呼ぶ度にキスされんの、俺?」
口を手で押さえながら、今いった通りになるのだろうという予感に、思わず呻きたくなった。