遠雷が聴こえる。
　浮かない心を映したように、空はどんよりと重たく暗鬱で、今にも雨が降りだしそうだ。
　虹はぼんやりと中庭の四阿（あずまや）で休んでいた。そろそろアーシェルが呼びにくるだろうと思ったら、ちょうど邸の方から歩いてきた。
「虹様、御迎えにあがりました」
　美しい精霊王のようなアーシェル。琥珀色の絹をまとい、腰帯に宝石をとめている。静かな装いなのに、貴（あて）やかな華麗さがある。
「いつまで授乳は必要ですか？」
　嘆賞の目で眺めたことを誤魔化すように、やや棘のある口調で虹は訊ねた。
「あと少しでございます」
「……本当に必要なことでしょうか？」
「樹が水を吸うように、幼獣が糧（かて）を欲するように、水晶嬰児（えいじ）には水晶の君の御乳が必要なのです」
　アーシェルの回答は淀みない。彼が本心からいっていることは、その静かな眼差しから読み取れる。
　渋々ではあるが、虹はあれから何度か授乳に応じている。子が死んでしまう。そういわれたら、誰だって強く拒否できないだろう。納得いくかどうかは別として。
「授乳が終われば、僕はお役目ごめんですか？」
　束の間、沈黙がふたりの間に蟠（わだかま）った。
「水晶嬰児（えいじ）が御乳を必要とするのは、ほんの一時でございます」
　回答をにごされたと感じたが、虹は追及しなかった。人間と同じように、水晶族の子供も成長する。授乳がいつか終わるということは信じることができた。だが気が重い。
「……判りました」
　やっとの思いで立ちあがり、死刑執行をまつ囚人の心地で、揺籃（ようらん）の泉に向かった。
　視線が一斉に集中するのはいつものことだが、このとき、子供たちは淡い微笑を浮かべていた。
「笑ってる……」
　虹は茫然と呟いた。これまで無表情だった子供たちに血が通い、表情が芽生えたように見えた。
「御乳を飲むほどに、肉体と精神は安定します。虚（うろ）の心に火をともし、情熱を洶湧（きょうゆう）させ、心を形成していくのです」
　立ち止まっていた虹の背を、アーシェルはそっと押した。
　なんだか厭な予感はしたが、虹はいつものように、胸元をくつろげながら泉に入った。美しい乳飲み児たちが近づいてきて、手を伸ばす。
「はぅ……ン……ッ」
　乳首を甘く食（は）まれながら、虹は喉をのけぞらせた。
　本当にこんな――淫らな授乳行為が、彼らの成長を助けているのだろうか？
　どのような理由で正当化されようとも、美しく前途ある少年の性癖を歪めてしまったように思えてならない。犯罪者になった気分だ。
「虹様、お上手ですよ……たっぷり蜜を迸らせて、水晶嬰児（えいじ）も順調に育っています」
　労う声には、喜色が滲んでいた。
　子育てと呼べるほど、美しくも神聖な行為でもない。罪悪感はぬぐえないが、子供たちは確かに成長している。
「水晶の君」
　澄み透ったアルトの声に、虹は目を瞠った。初めて子供がしゃべった。
　淡い白金の艶のある髪を肩でそろえて、瞳は神秘的な銀色。外見だけをいえば十二歳前後の、天使みたいな美少年だ。
「お慕いしております」
　恋い慕う初々しい表情に、虹は寒気を覚えた。唾を飲みこみ、くちびるを動かしたものの言葉にならなかった。
　耳の奥で鼓動が鳴り響き、心臓が烈しく鼓動を打っている。身動きもできず、花びらのようなくちびるが、そっと乳首を食（は）むのをただ待っていた。
「……ン……とても甘くて、美味しいです……」
　柔らかな頬を上気させて、潤んだ瞳で上目遣いに仰ぐ姿は、子供とは思えぬほど妖艶だった。
　虹はくちびるを固く結び、喘ぎの声を堪えた。これはもうセックスだ。今までも赤子の吸引とは到底思えなかったが、言葉にされてしまうと決定的だった。少年の指と舌を“愛撫だ”と脳が捉えてしまっている。
「ん……っ」
　堪えきれずに甘い声が漏れる。肉体の反応は自動的なものだと己にいい聞かせるが、艶めかしく乳首に舌が絡みつき、繊細で微妙な指の動きに刺激されて、背後からアーシェルに昂りを押しつけられた状態では、まともに考えることもままならない。
「あぁ……っ」
　とぷっと蜜が乳首と奥処（おくか）から溢れたとき、ショックで頭がくらくらした。
　科学反応を起こしたみたいに、泉がきらきらと煌めき渡る。儀式の日に、聖寵（せいちょう）の泉で起きた現象と同じだ。
「水晶が嘉（よみ）しているのです」
　背を支えるアーシェルが耳元で囁いた。腰を支える手がだんだん下へ移動して、硬く反応している性器をそっと握られた。親指でくるりと蜜口を撫でられる。
「あぁっ……」
　彼にもたれるようにして、虹は喉をそらした。首筋に熱いくちびるを感じ、それがゆっくりと動く。清冽（せいれつ）な泉のなかで、淫らに昂りを扱かれ、高められていく。抗いようもなく、乳首を紅く尖らせながら吐精した。
　きらきらと泉が碧く輝いている。
　世界はアーシェルという支配者と、碧い水晶の洞窟、授乳する自分――それだけが存在する繭のなかにいるみたいだった。
　永劫続く苦役に思われた授乳は、八日で終わりを告げた。
　思ったよりも短期間で済んだことはありがたいが、乳を飲んだ水晶嬰児（えいじ）たちは、この土地の風習や水晶学の原理を学ぶと同時に、闘いや狩りを学び、戦士として鍛えられるのだという。
　――生まれて間もないのに、なんと過酷な生なのだろう……
　それは虹にとって、意外な心境の変化だった。
　普通の親子とはかけ離れている。淫らな授乳に最後まで抵抗を感じていたが、それでも、子供たちに愛情にも似た親近感を覚えるようになっていた。
「お務め御立派でしたよ。今度の祝宴には、あの子らもさらに成長した姿で列席できるでしょう」
　満足げに微笑しているアーシェルを、虹は信じられない思いで見つめた。
　まさか子供たちを淫らな儀式に参加させるつもりなのか？
「今度なんてありませんよ。僕もあの子たちも、儀式にでる必要はありません。千年の宿願はもう叶った、そうでしょう？」
　声に警告を乗せながら、眼の前に悪夢のような光景が浮かんでいた。大勢の前でさらした痴態、七色の橋を架けた御汐噴き。花びらの散った寝台。かわるがわる肉棒に貫かれて、自らも夥しい精液を噴きあげて……
「水晶ノ刻は――」
「無理です！」
　虹は肩を怒らせた。声を荒げたことを反省し、平常心を取り戻そうとしたが、できなかった。荒々しい怒りが躰じゅうをかけめぐる。
「これ以上は無理なんです。もう許してください。僕にはどうしても無理なんです」
「虹様……」
「どうか判ってください。僕を敬う心があるなら、もう二度と儀式をさせないでください」
「そうは参りません」
　冷ややかに断じられて、虹は鳩尾のあたりがカッと熱くなるのを感じた。
「期待に応えられなくてすみません。本当に申し訳ありません。だけど僕には無理なんです。立場も役目も、荷が重すぎるんです。後生ですから、もう勘弁してください……っ」
　興奮のあまり、よろよろと頽（くずお）れかける虹の腕を、アーシェルはきつく掴んだ。凄みのある美貌を近づけて、
「私が忠誠を捧げるのは貴方様だけ。狂気の兆（きざ）しに耐えながら一千年、ようやく知りえた癒しの霊液を知る前には戻れないのです」
　柔和な表情を浮かべているが、碧い瞳は恐ろしいほど冷たく落ち着いていた。
「それは、でも……これまでだって、僕がいなくてもこの国を守ってきたでしょう」
「すべてはこの時を迎えるためです。心から待ち望んでおりました。虹様の御煌臨（こうりん）を！　我が水晶の君だけが心のよすがだったのです」
　長い沈黙に、虹は突然高まった緊張を和ませる言葉を探した。相容れない思いに苦しんでいるのは同じだ。けれども突破口が見つからない。
「我らは……私は、虹様の御心が育つまで、いくらでも待ちましょう。ですがどうか、拒絶だけはなさらないでください」
　目はぎらぎらと光り、瞬きもしなかった。
　腕を掴んで遠ざかろうとするが、逆にぐいっと引き寄せられた。
「ずるい御方だ。そうやって弱弱しく私の庇護欲を煽りたてるくせに……愛おしくて、愛おしくて、憎い。求めるのは私ばかりなのですね」
　虹も視線を逸らすことができなかった。鋼のような胸、ぴったり躰を押しつけられて胸がつぶれそうだ。布地を通して、彼の躰の熱が浸透してくる。魅惑的な香りに包まれて、からからに喉が渇いていく。
「離して」
　どうにか言葉にしたが、しどろもどろだった。喉が不自然に強張っている。
　碧い炎のような瞳に引きずりこまれそうになる。心臓が早鐘を打ち、耳のなかにまで響いている。
「身を焦がすようなこの想いは、欠片も報われないのでしょうか？　少しは……私を想ってくださいますか？」
　くちびるが触れそうなほど顔を近づけられ、虹は呻いた。彼を引き剥がさなければと思うが、肉体的な魅力に迫られると、自制を失いそうになる。
「ここのところ御乳を授けるばかりで、疼いていらっしゃるのではありませんか？」
　図星をさされて、虹はカッと顔が火照るのを感じた。全身がアーシェルを意識している。勃起しないように必死に集中しなければならなかったが、くちにだして認めるのは死んでも厭だった。
「ひとりにしていただけませんか？」
　感情の昂りで唇が震え、涙で視界がぼやけた。
　視線をそらすと、顎を掴まれ、唇を奪われた。うすく開いたくちびるを吸いつき、愛撫する。熱いものがこみあげ、思わず全身で彼にもたれかかった。彼は顔をうつむけてキスを深めてきた。
「ん、んぅ……っ」
　荒々しく貪る、深く烈しいキス。咄嗟に拒めず、絡みつく舌に応えてしまう。
　両手で虹の尻をもちあげ、股間をぴたりとあわせる。岩のように硬くなったものが腹に押し当てられ、躰が震えた。突いて、突いて、だんだんに深く突かれる感覚が蘇り、躰の奥が濡れ滴（したた）る。
　狂おしいほどの情欲に飲まれかけたとき、喧（けたた）ましい水晶の警鐘が鳴り響いた。
　牧歌の楽園に不釣りあいな、敵襲を告げる合図だった。