FAの世界

1章:楽園の恋 - 4 -

 大腿の間に膝をいれられ、顔の横に手をつかれると、虹は、己を押し倒した男の顔を仰ぎ見ることしかできない。
 煌めく月白げっぱくの髪がとばりのように虹の顔の横に流れて、碧い瞳は、海の底のように暗く翳って見えた。
「触れたくて、堪りませんでした……」
 白い手が虹に伸ばされ、帯紐を解いた。薄絹をはだけさせ、露わになった素肌に触れる。
 虹は、ぎょっとしたものの、咄嗟に拒絶することができなかった。驚愕のあまり、声帯も四肢も凍りついてしまっている。
「心からお慕いしております。どうか私に、最初の交歓のお赦しを授けてくださいませ」
「待って、離れてください……やめてください!」
 やっとの思いで大声をだすと、アーシェルは手を引いた。虹は慌ててアーシェルのしたから這いでると、乱された胸元の絹をかきあわせた。
「なんなんですか? さっきから水晶の君って、どういう……?」
 アーシェルは不意に押し黙った。じっと耳をすます虹のまわりに、緊張を帯びた沈黙が渦を巻く。やがてアーシェルは、虹を見つめたまま、くちびるを開いた。
「王は崩御する際に、その御力を後継に託すため、自らの魂ともいえる水晶核をあまねく宇宙に委ねるのです。継承者は、時を越えて、空間を越えて、我らのもとへおいでくださいます」
「えぇっと……?」
「我が水晶の君。コウ様こそ、我々水晶族の新たな王にあらせられます」
「まさか、ありえないでしょう」
 困惑する虹を、アーシェルは碧い眼差しで射抜いた。否定を赦さぬ鋭さと、氷の炎めいた情熱が感じられた。
「コウ様は確かに、我らの王でございます。とめどなく溢るる思慕の念こそが何よりの証拠。言葉にしようのない、霊魂の輪廻を感じるのです」
「だけど、お会いしたばかりですよね? おかしいでしょう、僕は一介のサラリーマンですよ」
「この絆は、時間の長さではし量れません。いかな生を けられようとも、水晶核を得たいま、御身の深奥しんおうには、かくも神秘な遺伝子が秘められておいでです――我が“ファルル・アルカーン”よ、お判りになりませんか?」
 声は静かで明晰だが、それでいて極めて強靭だった。
 虹は言葉に詰まった。うしおのように去来する記憶が、現実味には欠けているものの穏やかに意識に浸透する何かが、強く迫ってきた。
 アーシェルと初めて目が遭ったとき、言葉にしようのない哀切を覚えたのは確かだった。愛おしくて、哀しくて、嬉しくて、万感こもごも胸に迫って、瞼が熱くなり涙がこぼれ落ちたのだ。
(――違う、気のせいだ! しっかりしろ、こんなわけの判らない状況、受け入れてたまるか!)
 虹は己の頬をぴしゃりと叩いた。
「少しずつで良いのです。触れて、重ねて、私を受けいれて……どうか、水晶の君……」
 熱い蜜が流れるような声で請われて、虹の鼓動は大きく跳ねた。
 美しい瞳に獰猛なさがを灯して、アーシェルが乗りあげてくる。
 捕食者に狙われた獲物の心地で、虹は身動きすることができない。手を引っぱられると、あっけなく胸のなかに抱き寄せられた。
「あのっ?」
 腕を突きだして距離をとろうとするが、まるで力が入らない。濃厚な柑橘の香り、うっとりするようなあたたかさに包まれて、全身が蜂蜜のように溶けていく錯覚がした。
 碌に動けない虹を熱っぽく見つめたまま、アーシェルは再び素肌に触れてきた。
「ん……っ」
 思わず甘い声がこぼれおちた。歯を喰いしばっても遅い。不埒な指は心得たように、そっと乳首を摘まんだ。
「あっ」
「甘い野苺の香り……どうか、可憐な双粒をお見せください」
 止める間もなく襟元をくつろげられ、虹は狼狽える。胸のあわせを手で押さえるが、肉の薄い肩が露わになる。乱れた衣から、白い指に挟まれた乳首がのぞいて、かぁっと頬が熱くなった。
「やめてください……っ」
「水晶の君……とても美味しそうな、極上の紅でございますよ」
「やめ……っ」
 覆いかぶさる躰を押しのけようとしても、びくともしない。繊細な指の動きで、くにくにと乳首を摘まれるたびに、腰がびくびくと撥ねてしまう。全身が濡れていくような錯覚――胸の奥から射精感がこみあげて、虹は恐慌に陥った。
「やめてッ!!」
 アーシェルはぴたりと動きを止めた。
「どうか恐れずに……先ほどのように・・・・・・・、私に身を委ねてくださいませ」
「待って、無理です! ちょっと待って。すみません、何がなんだか……っ」
 虹は頭を抱えて、胎児のように躰を丸めた。
 怯えて縮こまる虹の背を、アーシェルは束の間戸惑ったように見つめていたが、恐る恐る、といった風に撫で始めた。
 性的な触れあいではない慰めに、そろそろと虹は目を開ける。背中ごしに衣擦れの音がして、かすかな空気のそよぎを感じた。
「……申し訳ありません。どうやら私は、急ぎすぎてしまったようですね」
 アーシェルはしとねをおりて床にひざまずくと、目を伏せ、すまなさそうに謝罪した。
 熱に浮かされた雰囲気を霧散させて、礼儀正しくかしずく姿は、俗界離れした清廉せいれんな神の使途を思わせた。
 すると虹も混乱が少し鎮まり、ふっと心が軽くなる。ごくそっと、いいえ、と答えて躰を起こすと、乱れた衣を直して、濡れた目元を素早く手の甲でぬぐった。
「……少し、話せますか?」
 小声で訊ねると、アーシェルの碧い瞳に、穏やかで理知的な光が灯った。
「御意の通りに」
 寝台をおりた虹は、囲炉裏のある居室に導かれた。にれの枝にとまっている鸚鵡おうむが、興味深そうに小首を傾げてこちらを見ている。
「こちらにお座りください」
 アーシェルは、毛皮のうえに、たっぷり綿の入った錦糸の縫い取りのある座布団を敷いてくれた。
「ありがとうございます」
 思った通り、座り心地はとても良い。
 どこか現実感のないまま、虹は、玲瓏れいろうたる青年が手際よく茶器を用意するのを見守った。
 薄絹の襟をくつろげたアーシェルは、たおやかと形容するには、あまりにえん。囲炉裏の灯に照らされて、ひめやかに華やぎたつ。
 匂いたつ色香。おぼろな憧れ。琥珀の光に縁取られたアーシェルの横顔に、虹はいやおうなく惹きつけられた。
「どうぞ」
 翡翠の湯呑をさしだされ、虹は、夢見心地から引き戻された。ぱちぱちと目を瞬き、少年めいた胸の高鳴りを抑えながら湯呑を受け取る。
「ありがとうございます……いい香りですね」
 金木犀のような甘い風味のする露から淹れた茶は喉にやさしく、虹の心を落ち着かせてくれた。
「それにしても、さっきから僕はどこの国の言葉を……“あれ日本語って……あれ、日本語だ”」
 前半は知らぬはずの異国の言葉で、後半は日本語でしゃべっていた。意識すれば日本語を話せるが、先ほどからアーシェルと会話している言語は、未知のそれだ。
「コウ様は水晶核を継承されたので、我々と言葉で意思の疎通が可能なのです」
「継承、ですか?」
 虹は当惑したように、そっと訊ねた。
「御煌臨こうりんの際に、空間と時間の弥終いやはてに旅をし、精神交流を知覚されませんでしたか?」
 黙りこんで考えをめぐらす虹を、アーシェルはじっと見守っている。
「いや、ちょっと、記憶にないですね……」
 やがて答えた虹を、アーシェルは静かに見つめ返した。
 心の奥処おくかを覗かれているようで、虹は視線を左上に動かし、ちょっと考えてから、再びアーシェルに戻した。
「すみません、話が壮大すぎて、いまいち実感がなく……僕は草津温泉に入っていたのですが……」
 虹はふっとくちをつぐんだ。霊的な囁きを耳にしたことを思いだしたのだ。

“……ファルル・アルカーン……”

 あまりにも一瞬のことだから忘れていたが、確かに霊的な絆を感じた。そのあと、様々な景を一瞬のうちに瞥見べっけんしたのだ。最後に“次は君の番だ”そういわれた気もする。