FAの世界

1章:楽園の恋 - 3 -

 木霊こだまが囁いている。
 瞼の向こうに、青白い幻めいた光がしのびこんできて、虹は意識を取り戻した。
「気がつかれましたか」
「……あれ?」
 えもいわれぬ碧い瞳が、気遣わしげに虹を見つめている。
 虹は、アーシェルにもたれかかり、温泉の淵に腰かけていた。見覚えのない薄絹を羽織っていて、膝から下を湯に浸している。
「すみません」
 狼狽えながら身を起こすと、アーシェルは天使もかくやの美貌で微笑した。彼のまとう空気が、先ほどにも増して水晶のちりをまぶしたようにきらきら踊っている。
「御気分はいかがですか?」
 アーシェルは気遣わしげに訊ねた。
「大丈夫です……あの、これは……?」
 虹は、緩くて幅の広い琥珀色の薄絹に触れながら訊ねた。
「僭越ながら、湯冷めせぬよう着付けさせていただきました」
「お手数をおかけしてすみません」
 一揖いちゆうしながら、ふと、乳首にはしった熱を思いだした。
 慌てて己の躰を確かめるが、薄絹からのぞく胸元に異変は見られなかった。アーシェルの顔を注意深く見ても、穏やかな表情には疚しさの欠片も浮かんでいない。
 どこからどこまでが現実なのだろう?
 未知の状況にあるとはいえ、まさかまさか、いやまさか……いくらなんでも男の乳首から乳がでるはずがない。きっと湯にのぼせて、気色の悪い夢を見てしまったのだ。
「……ありがとうございます、いい匂いですね」
 肌ざわりが心地良く、オレンジの花の香がかすかに漂う。
「よくお似合いですよ」
 そういうアーシェルは、光沢のある白衣をまとっており、さながら月の精霊みたいだ。どうも、と虹は照れ隠しに視線を彷徨わせながら、表情を強張らせた。
「ここは一体……」
 銀色の星明かりが、美妙なる森の陰影をかくも神秘的に見せている。
 暗闇は水晶のように透明で、無窮の宇宙が透けて見えるかのよう。極光オーロラが揺れて、落ちてこんばかりの星が瞬いている。
「ここは聖寵せいちょうの泉でございます。あちらに泉殿いずみどのがありますので、御案内いたします」
 はっとして視線を戻すと、彼は、とても慎重に虹を助け起こしてくれた。
「ありがとうございます」
 細心の注意を払っていると判る、繊細な仕草だ。どうしてそれほど慎重に触れるのだろう? 相手は虹なのに。美女でも子でも、老人でもない、三十路過ぎの男だ。もうちょっと適当に触れてもいいのに、と疑問に思う。
「ぅわっ」
 突然たくましい腕に横抱きにされて、虹は頓狂な声をあげた。
「御履き物がありませんので、僭越ながら運ばせていただきます」
「いえ結構です! おろしてください」
「すぐですよ」
 アーシェルは悠然と篝火の方へ歩き始めた。
「ちょっとおろして……」
 虹は喋りながら、己の声に疑問を覚えた。今喋っている言葉は、どこの国の言葉なのだろう? さっきから知らぬ言葉を操り、会話が成立していることが不思議でならない。
「どうかこのままで」
 アーシェルは美しい微笑を虹に向けると、再び正面を向いて歩き始めた。
「待ってください!」
 男同士でこのように密着している姿を誰かに見られでもしたら大変だ。虹は蒼褪め、視線を巡らせるが、視界に人影は見当たらなかった。
 不思議な場所だ。
 広々とした碧の楽園――様々な濃淡の緑が、微風に吹かれるたびに、極光オーロラのように揺れている。
 もしかしたら己は、アンリ・ルソーの絵画のなかに迷いこんでしまったのだろうか?
 一瞬、そのような幻惑に襲われたが、太陽のない星光の静けさのなかで、大地のあらゆる芳香が発散していた。
 新鮮な海藻と草花の匂い。湿った土の匂い。仄かな柑橘の匂い。
 生々しい五感への刺激が、これは現実なのだと虹に訴えかける。圧倒的な情報量で、この世界が躰に染みこんでくる。
(どうなっているんだ? どこなんだここは? 俺は今、どこにるんだ?)
 混乱するばかりの虹と違って、アーシェルの足取りに迷いはない。椰子やしの樹々に囲まれた、宏壮こうそうな平屋建ての邸に向かっているようだ。
「あの、本当におろしてください。人に見られたら……」
 おろおろする虹に、アーシェルは優しく笑みかける。
「御心配には及びません。私と水晶の君のほかには、誰もおりませんよ」
「でも火が灯されています」
「常夜燈でございます。水晶の君の御煌臨こうりんに備えて、常に灯されているのです」
「本当に? 誰もいませんか?」
「はい。私と水晶の君のふたりきりでございます。ほかには天蓋てんがいに煌めく星だけが、水晶の君のしどけない御姿を見守っておられます」
 秘め事のように囁かれて、虹は紅くなる。身じろぐのをやめて、辺りに視線を彷徨わせた。
 丸い橄欖かんらん石の続く先に、平屋が見える。
 幾星霜を物語る神聖めいた佇まいで、幾重にもからまる蔓性の枝葉が木造の屋根や壁を覆い隠し、自然に溶けこんで見える。
 屋根の縁に、と翡翠の光彩を放つ華麗な鸚鵡おうむがとまっている。美しい冠毛かんもうの頭を横にかしげて、時ならぬ闖入者ちんにゅうしゃである虹を、王者然と睥睨へいげいしているように思えた。
“我があるじよ、ようお戻りになられた”
「ぅわ、しゃべった」
 虹はぎょっとして、思わずアーシェルの頸にしがみついた。
よわい三千年の“星を歌いし者タワ・ダリ”です」
「三千年?」
「はい。水晶の君にお仕えする守護鳥です。さあ、着きましたよ」
 両開きの黒い扉の前に導かれた。黒檀ではなく、遥かに根源的なもの、石炭と化した木だ。飴色に碧のまじった瑪瑙めのうの把手がふたつある。
 その優美な扉前に彼が立つと、片方は左に、片方は右に自然と動いた。
 扉が開くと、“星を歌いし者タワ・ダリ”も一緒に入ってきて、アーシェルの肩にとまった。
 木造廊下におろされた虹は、ほっと息をついた。
「お邪魔します……綺麗なお屋敷ですね」
 玄関天井から吊るされた、水晶の飾付のなかに、焔の鉢が据えられていて、空間を優しいオレンジ色に照らしている。
 絹の垂れ布をめくってなかに入ると、廊下天井にも等間隔に水晶の飾付が吊るされていて、なかで燭台が燃えていた。電気照明はひとつも見当たらないが、柔和で優しい明るさに包まれている。
「こちらです」
 廊下の先は、囲炉裏のある居室に通じていた。部屋のなかににれの巨木があり、そのまま屋根を突き抜けて、緑の樹冠を広げている。
「すごい……」
 樹齢を重ねた樹々は背が高く、太古の世界を思わせる。原始的プリミティブな様式美があり、古風でおもむきのある、異国の高級旅館みたいだ。
「御気に召しましたか?」
 足を止めた虹に、アーシェルが優しく訊ねた。
「ええ、ここは旅館ですか?」
「いと高きよろこびの住居すまいです。神をまつる聖堂であり、交歓の聖壇であり、水晶の君の御寝所でもあります」
 虹は不得要領のままに頷いた。
 扁額へんがくは見当たらないが、よろこびの住居すまい。それがこの旅館の名前なのだろうか?
 大きな囲炉裏で熾火が燃えていて、薬鑵やかんがかけられている。周囲に毛皮と繻子のクッションが配置されて、居心地はとても良さそうだ。
 アーシェルの肩にとまっていた“星を歌いし者タワ・ダリ”は、翡翠めいた翼を動かして、にれの枝に移動した。
「僕のほかに、どなたか宿泊されているのですか?」
 鸚鵡おうむを見つめながら虹が訊ねると、いいえ、とアーシェルは答えた。
「水晶の君の御寝所に、赦しもなく訪問する者はおりません」
「僕はいいんですか?」
 思わず虹はアーシェルを見つめた。
「もちろんでございます」
 先ほどから、どうして虹は水晶の君と呼ばれているのだろう?
 首を傾げつつ、虹は周囲を見回す。左は廊下に面していて、奥に拱門形の両開きの扉がある。
しとねはこちらです」
 アーシェルは優美な焼付硝子ステンドグラスの窓のはめこまれた扉を開いて、虹を奥へと誘った。
 しきいをまたぐと伽藍がらんとした空間があり、窓のない部屋の壁に、たくさんの豪奢な綴錦タペストリが垂れている。
 そこには牧歌の世界が、峨峨ががたる峰、蒼い泉、棕櫚しゅろ、神秘の月や星、豊穣ほうじょうの角が華麗奔放に織られていた。
 正面に拱門形の出入り口があり、扉の代わりに、群青に金糸の刺繍を施された金襴きんらんの垂れ布がさがっている。
 めくると、寝室に通じていた。
 枝付燭台キャンデラブラが琥珀の光彩を放ち、空間を柔らかく照らしている。分厚い絨毯を敷いた床に、大人が五、六人横になれそうな巨大な寝台が鎮座している。
「随分大きいですね」
 虹は思わず感想をくちにした。
 こんなに大きな寝台は見たことがない。
 優雅なおもむきで、寝台の四隅を、淡い翡翠色を帯びた六角水晶が支えている。かたえには立派な足台が置かれ、両側には、かしわの木に花草模様ギルランドと優雅な丸溝が彫られ、四本の柱が天蓋てんがいを支えて、金糸の縫い取りのある群青色の緞子どんすが、片側にまとめられている。
 頭の方は壁に面していて、左手に窓がある。閉じた沙幕カーテンの裾から星光がうしおのように流れこみ、床のうえに光の水たまりを広げていた。
 寝台の正面には火の灯された暖炉棚があり、その隣には花草模様ギルランドの絹に覆われた長椅子と、象牙の壇、花梨木かりんぼくの机がある。大きな硝子の器が乗っていて、果物や胡桃、オリーブの実が山と盛られている。
 天蓋てんがいの中央から黄金の円環燭台が垂れさがり、蜜蝋が燃えて、蠱惑的な香りを漂わせている。
 豪奢なしとねだが、仄甘い香りといい、どこか閨房風の秘めた雰囲気を帯びていた。
 やはり虹は、絢爛けんらんたる色彩の夢を見ているのかもしれない。
 しゃべる鸚鵡といい、超俗した麗人といい、これは虹の深層心理の発露なのでは?
 恋愛はもう諦めていると思っていたが、こういうロマンティックな世界で、愛を交わしたいという秘めた願望があったのだろうか……
 ぼんやり考え事をしていた虹は、絹のしとねに座らされ、アーシェルが覆いかぶさってきたとき現実に引き戻された。