FAの世界

1章:楽園の恋 - 1 -

 なんて美しいひとなのだろう。
 幻想世界のあらゆる美を溶かして創造した傑作としか思えない――繊細巧緻こうちに整った顔立ちは、柔和にして荘重さがあり、肌は雪花石膏アラバスターのように白く、きずひとつない。真珠粉をひと刷毛はけ薄くいたように煌めいている。
 凛とした眉には強い意志が顕れ、薄く色づいたくちびるは完璧な曲線を見せて、熾天使のように、あるいは堕天使のように官能的に虹に笑みかけている。
 そして、瞳は……どこまでも続いていく湖のような碧色だ。
 艶やかな銀色の長いまつげが、瞳の碧を際立たせている。
 静謐せいひつでありながら燦然と輝く双眸に虹を映して、絹糸のような月白げっぱくの髪は長く、毛先は泉のなかに沈んで広がり、たゆたっている。
 虹は、茫然自失のていで、ただただ美貌の青年を見つめた。
 ――人間? いや、精霊?
 もはや地上の美を超越して、この世界にはない、幻想の或いは伝説の美を思わせる。
 妖精めいた尖った耳といい、完璧な骨格と筋肉に覆われた彫刻のような肢体で、水晶のちりまとっているみたいに、きらきらと輝いているのだ。
 神々しくて、とても同じ人間とは思えない。人種というより種族が違う。
「“ファルル・アルカーン”……」
 天鵞絨びろうどのようになめらかな美声が、虹の耳元で囁いた。
「えっ……」
 ぶわっと全身が総毛たち、心臓は強く高鳴った。温泉独特の匂いは消え失せ、清廉せいれんでさわやかな、仄かに甘い匂いが漂う。彼の肌からたち昇る魅惑的な……くらくらするような、ゆかしいかおり。
「お待ちしておりました、我が水晶の君。比類なく輝かしき方。私は貴方様の水晶もり、アーシェルと申します」
 繊細なくちびるから、音楽的で優しい声がこぼれ落ちた。
 水晶のごとくくっきりした響きは、未知の言語であるにも関わらず、虹は不思議と理解することができた。
「水晶もり? ……ぁっ!?」
 訊ねた矢先、乳首を指で摘まれた。
「嗚呼、なんて可憐な」
「ちょっと! あなた一体……」
 背後の男をきっとにらむと、碧い双眸が甘やかに蕩けた。
「アーシェルと申します、我が水晶の君」
 不埒な指の動きは止まったが、頭のてっぺんにちゅっとキスをされて、虹はぶわっと顔が熱くなるのを感じた。
「離してくださいっ」
 アーシェルは少し顔を引いたが、二本の腕は虹を掴まえたままだ。しかしその腕はかすかに震えていた。
久遠くおんの歳月を祈りに捧げ、いつかお会いできる僥倖ぎょうこうを夢に見て、とうとう……このようなことが現実にありうるのでしょうか!」
 情熱的に欣喜きんきする麗人に、虹は驚愕し、動揺する。
「いや、人違いでは……僕は青峰あおみねこうといいますが……」
「アオミネコウさま」
 熱のこもった口調に、虹は奇妙な胸の疼きを覚えながら、律儀に訂正した。
「青峰は苗字で、名前はこうです。こうといいます」
 するとアーシェルは、万人を魅了するであろう微笑を浮かべながら、
「コウさま。御名をお赦し頂き、祝着至極しゅうちゃくしごくに存じます」
 彼は、まだ少し震えている白い手で、恭しく虹の手をとった。
「今まで生きてきて、これほど感動したことはありません」
 完璧に美しいくちびるが甲に触れた瞬間、虹は、歓びの燃える奔流を身のうちに覚えた。どうしたことか、胸苦しいほどの歓喜と哀切に襲われて、涙が勝手に溢れてくる。
「……あれ、なんで僕は泣いているのだろう……」
 するとアーシェルはその美貌を近づけて、虹の涙に、そっとくちびるをつけた。
 柔らかな触れあいはすぐに離れたが、虹は烈しく狼狽えた。女の子にするみたいに、こんな風に甘く慰められたのは生まれて初めてである。
「御煌臨こうりんを信じておりました。あるじを喪って千年、運命の経緯ゆくたては秘されても、この胸の水晶の輝きは失われませんでした。運命の法が働き、この国にコウ様はおりてくださった」
 奇跡のような麗人が、このうえなく美しい微笑を浮かべて、碧の瞳を潤ませて、恋焦がれるような熱っぽさで、じっと虹を見つめて囁いた。
 貴方を見ているだけで幸せ――そういわれているような錯覚がして、虹は視線を泳がせてしまう。
「水晶の君……どうか交歓のお赦しを」
「こうかん?」
 恐る恐る、虹は視線を戻した。
「はい。どうか私に、ひとしずくの蜜に預かる栄誉を授けてくださいませ」
 彼は何をいってるのだろう? 言葉は判るのに、意味がよく解らない。
 危険な予感と突然の憧れ。そのふたつが綯交ぜになった気持ちにひどく戸惑って、とにかく躰を離したいのだが、軟体生物になったみたいに躰に力が入らない。
「あの……?」
 煌めく碧い瞳のなかに、恐ろしい飢渇きかつの焔を見た気がした。
 凍りつく虹を、アーシェルは吐息が触れるほど近くから覗きこんだ。逃げる間もなく後頭部を掌に包みこまれ、くちびるが重なった。
 なぜ――これは一体――茫然となった虹は、何が起きているのか了解しかねる状態で、されるがままだ。
 未知の陶酔に身を任せそうになるが、舌先がくちびるのあわいをなぞった瞬間、我に返った。アーシェルの肩に手を置くが、鋼の如くびくともしない。力強い腕に支えられ、さらに深いくちづけを求められてしまう。
「ん、ぅ……っ」
 くちびるの柔らかさ、あたかさ、喉からこぼれた己の甘い吐息に、虹は烈しく動揺した。冷静に対処したいのに、艶めかしいくちびるが思考を粉々にしていく。
「はぁ……っ」
 息を喘がせた瞬間、少し強引に、冷たくて熱い舌が口腔に入ってきた。
 経験のない虹は、舌が触れあった瞬間に目を瞠った。世界がひっくり返ったような衝撃だった。顔をもぎ離そうとするが、逃げられない。なすすべもなく舌を搦め捕られて、吸われてしまう。すべてを奪いつくすような情熱に飲みこまれて、呼吸もままならない。
 鋭い官能の矢がその舌から全身を貫いて、下腹部を刺激する。ぐっと尻を揉みしだかれ、硬い熱く脈打つ下肢を押しつけられた瞬間、虹は怯えのいりまじった呻きを漏らした。
 するとアーシェルは少し手加減して、手の位置を腰に戻して、宥めるように舌を舌でくすぐってきた。
(なんて気持ちいいんだろう……)
 永遠にこうしていたい。シナモンをまぶした林檎のような、甘い、陶酔を誘う味わいがする。それに月桂樹のような石鹸の香りと、彼自身の肌から立ちのぼる、甘く魅惑的な香りに包まれて頭がくらくらする。
「もっと……舌を……だしてくださいませ」
 靄がった思考で、おずおずと舌をさしだした。熱い舌に搦め捕られ、敏感な粘膜を舌で突かれるたびに虹の躰はさざなみのように震えた。
「ん、ふぅっ……ン」
 ゆっくり愛しあうように舌を搦め捕られ、濡れた水音がたち、鼓膜をなぶられる。甘ったるい声が自分のものだなんて信じられない。かすかに乱れた息遣いに煽られて、虹の呼吸もどんどん荒くなっていく。
 唇が離れたとき、虹は倒れてしまいそうだった。アーシェルも頬を上気させ、陶酔しきった眼差しで虹を見つめている。
「夢にも知りませんでした。かように芬芬ふんぷんたる香気とは……触れているだけで、煩わしい空腹感が癒されていきます」
 アーシェルは囁いて、虹の濡れたくちびるを指でぬぐった。
 彼の方こそ、えもいわれぬ香りがする。言葉を発するたびに、躰がうちから光を放ち、仄甘い柑橘の香り……うっとりするような香りが漂ってくる。
 見惚れていると、掌で背中をゆっくり撫であげられ、ぞくぞくとした震えに貫かれた。
(ヤバ、股間に響く……っ)
 慌てて腰を引かせようとするがが、目ざとくアーシェルは視線を落とした。
 時が止まったように感じられた。
 手が動くのを見て、虹は本能的な危機感からその手を掴んだ。
「どうか、うまし蜜を」
 アーシェルが欲望に濡れた目で訴える。
 その目に浮かぶ表情を見て、虹の心臓はどくりと脈打った。超俗した美貌に、獰猛さが、焔のような原始的な欲求が浮かんでいる。
 したたるような色香に眩暈を覚えながら、虹は頸を振った。
「待って、ちょっと待ってください」
 腕を突きだして彼から距離をとる。すると視野が広がって、空気も、匂いも、景観すら変わっていることに気がついた。
(――ここはどこだ?)
 果たして幻想の錯覚なのか、草津温泉にいたはずなのに、まるで知らない場所にいるではないか。