DAWN FANTASY

3章:囁きと庇護者 - 7 -

「ん……」
 つんとする匂いに、七海の意識は覚醒した。
 天蓋から垂れる揺り香炉から、白い帯状の煙と共に、頭に響く匂いが漂っている。
 ここは旅館の寝室だ。七海は寝台に仰臥ぎょうがしており、傍にはランティスがいて、彼は椅子に座って目を閉じている。
(……いつの間に寝ちゃったんだろう? あれ? 違う? 確か教会にいって……それから……?)
 記憶が曖昧で、すぐには状況が飲みこめなかった。忙しなく眼球を揺らしながら、部屋の様子を観察する。
 緞子どんす沙幕カーテンはきっちり閉じられていて、古風な燭台の蝋燭に火が灯されている。もう夜なのだ。
 淡い琥珀色にきらめくランティスの銀髪を眺めながら、じっくり考えるうちに、彼女と言葉を交わした記憶が脳裏に鋭く蘇った。
(そうだ。私――)
 起きあがろうとしたら、水晶珠の連なりが擦れて音をたてた。
 教会では、これが彼女から護ってくれた。清めの魔法スプールのための魔法具と思っていたけれど、妖気を払いのける効果もあるのだろうか?
 瑠璃ヴァイドゥーリャの飾りを指で摘んで、めつすがめつ眺めていると、腕を組んでいたランティスが、ぱちっと目をあけた。
「七海、ダイジョウブ?」
 と、彼は寝台に腰かけて心配そうに七海の顔を覗きこんできた。
「はい、大丈夫です……ランティスさん、私、教会で倒れていましたか? あれ、森だっけ……? ランティスさんが助けてくれたんだですか?」
 腰のリボンと襟は緩められているが、でかけた時と同じ服を着ている。首から数珠を抜き取ろうとしたら、ランティスに手首を掴まれた。
「? つけていた方がいいですか?」
「ナナミ、*****隠れてリセトバ*****危険ヤドラ
 彼はいつになく厳しい眼差しでいった。怒られているのだと判り、七海はしゅんとなる。
 ……彼に気取られずに真相を探ろうだなんて、浅はかな考えだったのだろうか? 一つ謎が解けても今度は別の謎が生じて、いつまでも経っても決着がつかない。
 彼に対する大きな恩義と信頼のうえに、接ぎ木されかたのような彼女の恐ろしい秘密の面紗ヴェールのせいで、心に歪みが生じてしまうのだ。
 答えがほしい。誰でもいいから、正解を教えてほしい。七海がここにいる理由を。彼の目的を。彼女の正体を――早くこの思考の迷宮から脱したい。
すみませんカヒーム、お手数をおかけして……」
「***、いいえセテオ……****」
 ランティスは幾らか険を和らげると、七海の髪をひと無でし、そっと肩を押して寝台に横たえさせた。
 七海の手を胸の前で組ませ、動かないで、というようにその手をぽんぽんと軽く叩く。
「ランティスさん?」
「七海……*******」
 彼は透明な液体の入った硝子の器を手にとり、指先を濡らすと、七海の額、両頬、唇に触れた。檸檬のような柑橘の匂いがする。気になって、つい唇を舐めてしまう。
「七海、マキア**閉じてエィト
 七海はぴたりと唇を閉じた。祝福の祈祷というよりは悪魔祓めいて、不安を掻きたてられる。
(……何か、悪いことが起きているの?)
 杖を手にしたランティスが、詩のような文句を唱え始めると、その思いはますます強まった。強烈な異変を身のうちに感じる。
「何? 怖い、ランティスさん」
 彼の声はとても好きだけれど、この韻律は聞いていたくない。
「*******」
 起きあがろうとすると、ランティスに肩を押された。じっとしていなさい、というように。
「え、でも……何なの?」
 我慢できずに、七海は起きあがった。ランティスは水にひたした指先を伸ばしてくる。
「厭よっ!」
 正体不明の恐怖に襲われて、七海はもがいた。ランティスが寝台に乗りあげて、七海の手首を掴んだ。
 その瞬間、燃えた焼鏝やきごてを押しつけられたような痛みがはしった。
「ああぁぁぁ゛ッ」
 絶叫しながら、顎を伝う鼻血を感じた。全身の血液が沸騰しそうなほど熱くて、躰がばらばらに砕け散りそうな激痛に貫かれる。
「――ッ!!」
 痛みのあまり、声にならない。寝台は血まみれだ。これは幻覚? それとも本当に血なのか?
 庇護者だと思っていたランティスによってもたらされる激痛。彼から、攻撃を受けるなんて!
 肉体と魂の苦痛に苛まれながら、癒やしの韻律も紡がれ、血煙をあげながら裂傷が生まれては消えていく。
 まるで悪魔祓いだ。七海のなかに、何が・・いるのだろう?
「七海、*******」
「痛い、痛い、怖い、やめて……っ」
 唇を戦慄わななかせて、七海は呟いた。ランティスは呪文を唱えるが、七海は唸り声を発した。
「“ソンナモノデ ワタシヲ オイハラエルト オモウカ……コトバ ハ……ウバッテイルゾ”」
 黒い瞳に、禍つ光が爛々と輝いている。
 邪悪の精髄せいずいに見据えられても、ランティスは臆することなく聖文句を繰り返した。
「“ウテカ……ワタシノ モノ……くふふふふふふふふふ”」
 気狂いじみた笑いをあげている途中で、七海は正気に戻った。
「ぁ……」
 自分の唇を抑えて、愕然となる。おこりにかかったように全身を震わせながら、七海は哀願した。
「……怖い。見捨てないで」
 一筋の涙が頬を伝い落ちていく。弱々しく震える手を、ランティスは両手で包みこんだ。そのどちらにもくちづけ、さらにもう一度くちづけ、それから腕を引いて七海を優しく抱きしめた。
「******……スプール」
 癒やしの光に包まれて、七海の躰は清浄に包まれた。血濡れたシーツも白さを取り戻している。
 優しい優雅な香り……ランティスの肌からたち昇る、魅力的な匂いが、器官を通って肺を満たし、七海に呼吸の仕方を思いださせた。
「七海」
 ランティスは少し躰を離し、七海の眸に理知の光が戻ったのを確かめた。唇に、そっと人差し指を押し当てる。
 一瞬、心象のキスモア ティナかと思ったが、丸薬の存在に気がついてうんざりした。躰から力が抜け落ちて、ぐったりと麻痺していくように感じる。
「厭、飲みたくない……」
 抗議の視線を送るが、強い意志力を灯した眸に跳ね返された。
「七海、飲んでアテー
 顔をそむけようとするが、ランティスは素早く水を飲み、そのまま七海に覆いかぶさった。
「っ!?」
 咄嗟に腕を突っ張ろうとするが、ランティスは腰を抱き寄せ、唇を重ねたまま、こじあけようと力を加えてくる。
「ふぁ」
 うっすら唇を開いた途端に、熱い舌がもぐりこんできた。口移しで水を飲まされている。驚いた拍子に、薬を呑みこんでしまった。
 混乱する七海を宥めるように、ランティスは優しく舌を搦めた。
「ぁ……ん」
 口腔を探られ、不安も恐怖も混沌も、唇と舌が奪いとっていく。
 艶めかしい音が立ち、ここが寝台のうえということを急に意識させられた。怖くなって逃げようとするが、鋼のような躰をふりほどけない。
「ん、んぅっ」
 苦しい。
 息を喘がせると、荒々しい唇は少し和らいだ。逃してはくれないが、唇を愛撫され、舌を搦め捕られるうちに、恐怖は鎮まっていった。
 不意に、眼裏まなうらに幻影が閃いた。
 艶めかしい唇に翻弄されながら、絶対に伝えるという、強い意志を感じた。
 それは驚嘆すべき真相を孕んでいた。あまりに悍ましい、凶悪な真実故に、七海の心胆を寒からしめるものだ。
 黄昏を告げる時計塔……
 琥珀と群青の光が交差するなか、変化していく住人たち。まさか……彼等はまさか――
 屍人。
 屍人だったのだ。
 だからランティスは、夕暮れに七海を外にだしたがらなかったのだ!
 塔に脚を踏み入れ、未だ安寧の眠りを許されない、彷徨える魂たち。日中は生活を営み、深夜を過ぎると、街を徘徊する亡者となる。
 恐らく七海も、この塔の悪しき力の影響を受けてしまっている。放っておけばそのうち、住人たちのように、魂を奪われ、亡者になってしまうのかもしれない。
(じゃあ……ランティスさんがこの部屋に施した、あのまじないめいた儀式は、やっぱり亡者から身を護るためだったんだわ)
 彼はさらに情報を伝えようとしてきた。
 幾つもの扉が、稲妻の如く脳裏に閃いた。巨大な磐の扉。黄金の扉。暗黒階段、灰色の迷路で見た無数の疑似扉たち。それからこの旅館の扉。
(どうして扉を見せるの? どういう意図があるの?)
 意識を集中しようとするが、それを阻むように魔の手が忍び寄る。
 悪魔めいた奔放な誘惑に駆られた刹那、七海は彼の大腿に股間を擦りつけた。身を引こうとする頸に両腕を回し、唇を押しつけて、愛撫するように舌を絡める。
「ふ……っ」
 ランティスの唇から、艶めいた吐息が漏れた。
 思考の共有が途切れて、目の眩むような陶酔感に浸された。躰が燃えあがるのに身を任せ、自分じゃないみたいに大胆になって、全身で彼が欲しいと訴える。
 せきを切ったように欲望が溢れでた瞬間、往年の呪縛が発動した。
 ――お馬鹿さん。こんなに美しいひとから、本気で愛されると思っているの?
 心臓から血が流れた気がした。何度自分にいい聞かせても、ランティスに触れられると自分を見失ってしまう。
 求められたわけじゃない。キスじゃない。ただの儀式だ。それなのに、自意識過剰に反応してみっともない。
「ごめんなさい、離れてクォーツ
 低い声で告げると、七海は頸にからめていた腕をほどこうとした。その腕を今度はランティスが掴み、顔を覗きこもうとする。
「見ないで」
 弱々しい声がうつろに響いた。浅ましい顔を見られたくなくて、必死に顔をそむけようとする。
「*****、**……」
 ランティスはゆっくり躰を起こした。その隙に七海は、急いで着衣の乱れを直そうとした。めくれた裾を直しながら、一筋、二筋と、涙が頬を伝った。

“かわいそうなナナミ……愛してほしいのに、誰も貴女を欲しがらないのね”

 嘲弄のような慰めの声が、果たして自分の声なのか、或いは幻聴なのか、区別がつかなかった。
 ただ、全く同感だった。囁きは静かに心に浸透して、七海をさいなんだ。
「ごめんなさい、私、こんな……“くふふふふ。ナナミ……ニガサナイ……オマエハ ワタシのモノ……”」
 その低い声は、七海の意志とは関係なく、唇が勝手に紡いだ。
「ぁ、何、今私……」
 ぶわっと恐怖が膨らみ、全身を凍りつかせた。
 ランティスは再び七海を組み敷くと、じっと見おろした。禁欲的な碧氷の瞳に、じれったそうな焔が灯っている。
 それは奇妙な熱を孕んだ沈黙だった。
 彼は、視線で七海を縫い止めたまま、細く長い指を伸ばして、襟の釦をぷつんぷつんとはずしていく。
「んんっ?」
 我に返った七海は、慌ててその手を掴んだ。