DAWN FANTASY
3章:囁きと庇護者 - 5 -
七海は、夢のなかで無限階段を見おろしていた。
涯 てのない黒洞々 を鳥瞰 すると、巨大な螺旋を描いていることが判る。
暗黒の奥処 に、熾火 めいた昏い焔が燃えている。まるで地獄の釜だ。煮えたぎる暗黒が迫ってくる。
全 き絶望。
残酷に引き裂き、蹂躙するもの。
死をもたらすもの。
此の世に噴きだしてはいけない死の息吹が、現世 に顕れようとしている。
こんな光景は見たくない――けれども目を逸らせない。瞼を閉じているにも関わらず、地獄の景色が鮮明に見えてしまう。早く目を醒まさなくては。早くしないと、黒い渦に飲みこまれてしまう!
「……ぃやだっ!」
寝椅子で横になっていた七海は、己の悲鳴と共に目を醒ました。はぁはぁと荒い息をしながら、全身にびっしょり汗をかいている。
起きて待っているつもりだったのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
昼間、ランティスの前から逃げ去ってしまったことを七海は後悔していた。非礼を謝りたいが、いつ戻ってくるのだろう?
(……戻ってくるよね?)
彼の荷物はこの部屋にあるし、戻ってくるはず……けれども、あんな失礼な態度をとってしまったから、もう愛想を尽かされてしまったかもしれない。
時間が経つほどに、悪い想像は膨らんだ。
まんじりともせず居間で待っていたが、一刻が過ぎると、今夜は戻らないかもしれないという諦念に浸された。
ぼぉん、ぼぉん……柱時計が真夜中を鏤刻 する。
眠気は全く感じられなかったが、寝台に横になり、角燈 に覆いをかけた。
目を閉じると、心は遠くへと彷徨い始める。
……賑やかな東京に暮らしていたけれど、好んで独りでいることが多かった。平日は家と職場の往復、週末も出歩くより、家でくつろいでいる方が好きだった。
もしかしたら、ランティスという人も、そうなのかもしれない。なのに突然、七海の世話をすることになって、自分の時間を持てず、辟易していたりするのだろうか……
鬱々として、骨の髄にまで染み渡るよな静寂がひしひしと迫ってきた。
こんな時スマートフォンがあれば、今すぐ彼に連絡できるのに、連絡をとる手段が何もないことが辛い。言葉に不自由で、旅館の従業員に彼について訊くこともできない。
病的な猜疑心が七海を支配し始めていた。
もしかしたら、彼は七海を置いていってしまうのではないか?
或いは今夜は気晴らしに街へ繰りだして、他の誰かと夜を過ごすのかもしれない。
大勢の女性が彼に群がり傅 く様を想像し、七海は胸が苦しくなった。唇を噛み締めて、うめき声を呑みこむ。
想像の相手に嫉妬するなんて、どうかしている。
仮に実在するとしても、嫉妬するなんてお門違いだ。そのような権利は七海にない。彼が何をしようと彼の自由……自分にいい聞かせようとするが、愚かな心臓 がきりりと痛む。
不意に、窓を爪で引っ掻くような音が聴こえた。
射竦められたように、七海の全身が硬直した。窓を見るが、重たい群青の沙幕 が、僅かな光も遮っている。
分厚い布の向こうを透視するように凝視していると、再び聴こえた。
コツコツ……
ここは三階だ。窓の向こうに足場はない。一体、誰がどうやって、窓を叩いているのだろう?
心臓が烈しく鳴りだす。耳を澄ませていると、次第に音は乱暴に、烈しくなる。
ゴッ、ゴッ!
「ひ……っ」
七海は心の底から震えあがった。
このままでは窓を割られてしまうかもしれない。
恐ろしい音がひたすらに繰り返されて、夜に部屋をでるなといわれているが、気が気ではなく、今にも脳卒中の発作を起こしそうだった。
音がやんだ。
窓の方を見ないですむよう、躰を横向けたまま、背中で窓の向こうの気配を探る。
(……終わった?)
恐る恐る振り向いた時、沙幕 の奥、窓の向こうにいる誰かと、目が遭った気がした。
「っ」
心臓が凍りつきそうになった。いてもたってもいられず、勢いよく寝台から起きあがった。
もうこれ以上この部屋にいたくない。一階の食堂か応接間にいこうと、ショールを肩にかけて扉へ急いだ。把手が思いのほか固くて力みそうになる。他に宿泊客はいなさそうだが、扉を開く時は、なるべく柔らかく響くように気をやった。
廊下には誰もいない。
壁に沿って控えめに具えつけられた照明が、蜂蜜色の仄かな光を放っている。
ふと階段を見、大きな金縁の鏡に自分の姿が映るのを見て、はっと脚を止めた。
優美な鏡だが、薄暗いなかで見ると少し不気味だ。
気のせいではなく、鏡を通りすぎた途端に、項 がぴりぴりとした。
耳のあたりに風を感じて、ぎくりとなる。
(後ろに、誰かいる?)
怖くて振り向けない。
おまけに階段のしたから、ギッ、ギッ、ギッ……床の軋む音が聞こえてくる。
(怖い怖い怖い……!)
どこにも逃げ場はない。一体何がやってくるのかと慄いていたが、銀髪が煌めくのを見た途端に、七海は深い安堵に包まれた。
「お帰りなさい……」
彼の存在に勇気をもらい、ぱっと後ろを振り向いた。誰もいない……鏡は不気味に沈黙している。
「七海?」
視線を戻した七海は、思わず顔をしかめた。妙な匂いがする。ランティスの持っている揺り香炉から、薬草めいた香りが漂っている。
「それは何ですか?」
「****、ノワール」
翡翠より艷やかな緑釉 の香炉だ。どうやらノワールと呼ぶらしい。
ランティスが香炉を持ちあげると、七海は思わず後ずさりをした。美しい香炉だが、不快な香りがする。
「歩いて 」
香炉に近づきたくないが、ランティスに肩を抱き寄せられてしまったので、並んで歩くしかなかった。
部屋に戻り、彼から白湯と丸薬を一粒渡されると、気分はますます悪くなった。窓を開けて清浄な気を招きいれたいが、亡者が入ってくる危険性があるから叶わない。嗚呼、気分が悪い……
“親切なふりをして、毒を飲ませているのよ”
脳裡に、不吉な警句が蘇った。
毒――思い返してみると、彼から与えられる飲み物は、大抵は酸味が強くて苦手な味だった。彼もそれが判っているから、最近では予 め蜂蜜を溶かしてくれたり、後から砂糖を舐めさせてくれる。
思えば高熱にうなされている時も、薬を飲んだあとは特に辛かった。
毒……
熱病に苦しんだ記憶が脳裡を過り、胸の奥がきりりと痛んだ。
薬を凝視している七海を、ランティスが見つめている。心配してくれているのかもしれないが、邪 な心を、見透されているように感じられた。
(これは薬? それとも……)
これまで、彼から与えられたものは何でも口に入れてきたけれど、この夜は初めて拒んだ。
舌で薬を隠して、飲んだふりをしたのだ。
暗黒の
残酷に引き裂き、蹂躙するもの。
死をもたらすもの。
此の世に噴きだしてはいけない死の息吹が、
こんな光景は見たくない――けれども目を逸らせない。瞼を閉じているにも関わらず、地獄の景色が鮮明に見えてしまう。早く目を醒まさなくては。早くしないと、黒い渦に飲みこまれてしまう!
「……ぃやだっ!」
寝椅子で横になっていた七海は、己の悲鳴と共に目を醒ました。はぁはぁと荒い息をしながら、全身にびっしょり汗をかいている。
起きて待っているつもりだったのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
昼間、ランティスの前から逃げ去ってしまったことを七海は後悔していた。非礼を謝りたいが、いつ戻ってくるのだろう?
(……戻ってくるよね?)
彼の荷物はこの部屋にあるし、戻ってくるはず……けれども、あんな失礼な態度をとってしまったから、もう愛想を尽かされてしまったかもしれない。
時間が経つほどに、悪い想像は膨らんだ。
まんじりともせず居間で待っていたが、一刻が過ぎると、今夜は戻らないかもしれないという諦念に浸された。
ぼぉん、ぼぉん……柱時計が真夜中を
眠気は全く感じられなかったが、寝台に横になり、
目を閉じると、心は遠くへと彷徨い始める。
……賑やかな東京に暮らしていたけれど、好んで独りでいることが多かった。平日は家と職場の往復、週末も出歩くより、家でくつろいでいる方が好きだった。
もしかしたら、ランティスという人も、そうなのかもしれない。なのに突然、七海の世話をすることになって、自分の時間を持てず、辟易していたりするのだろうか……
鬱々として、骨の髄にまで染み渡るよな静寂がひしひしと迫ってきた。
こんな時スマートフォンがあれば、今すぐ彼に連絡できるのに、連絡をとる手段が何もないことが辛い。言葉に不自由で、旅館の従業員に彼について訊くこともできない。
病的な猜疑心が七海を支配し始めていた。
もしかしたら、彼は七海を置いていってしまうのではないか?
或いは今夜は気晴らしに街へ繰りだして、他の誰かと夜を過ごすのかもしれない。
大勢の女性が彼に群がり
想像の相手に嫉妬するなんて、どうかしている。
仮に実在するとしても、嫉妬するなんてお門違いだ。そのような権利は七海にない。彼が何をしようと彼の自由……自分にいい聞かせようとするが、愚かな
不意に、窓を爪で引っ掻くような音が聴こえた。
射竦められたように、七海の全身が硬直した。窓を見るが、重たい群青の
分厚い布の向こうを透視するように凝視していると、再び聴こえた。
コツコツ……
ここは三階だ。窓の向こうに足場はない。一体、誰がどうやって、窓を叩いているのだろう?
心臓が烈しく鳴りだす。耳を澄ませていると、次第に音は乱暴に、烈しくなる。
ゴッ、ゴッ!
「ひ……っ」
七海は心の底から震えあがった。
このままでは窓を割られてしまうかもしれない。
恐ろしい音がひたすらに繰り返されて、夜に部屋をでるなといわれているが、気が気ではなく、今にも脳卒中の発作を起こしそうだった。
音がやんだ。
窓の方を見ないですむよう、躰を横向けたまま、背中で窓の向こうの気配を探る。
(……終わった?)
恐る恐る振り向いた時、
「っ」
心臓が凍りつきそうになった。いてもたってもいられず、勢いよく寝台から起きあがった。
もうこれ以上この部屋にいたくない。一階の食堂か応接間にいこうと、ショールを肩にかけて扉へ急いだ。把手が思いのほか固くて力みそうになる。他に宿泊客はいなさそうだが、扉を開く時は、なるべく柔らかく響くように気をやった。
廊下には誰もいない。
壁に沿って控えめに具えつけられた照明が、蜂蜜色の仄かな光を放っている。
ふと階段を見、大きな金縁の鏡に自分の姿が映るのを見て、はっと脚を止めた。
優美な鏡だが、薄暗いなかで見ると少し不気味だ。
気のせいではなく、鏡を通りすぎた途端に、
耳のあたりに風を感じて、ぎくりとなる。
(後ろに、誰かいる?)
怖くて振り向けない。
おまけに階段のしたから、ギッ、ギッ、ギッ……床の軋む音が聞こえてくる。
(怖い怖い怖い……!)
どこにも逃げ場はない。一体何がやってくるのかと慄いていたが、銀髪が煌めくのを見た途端に、七海は深い安堵に包まれた。
「お帰りなさい……」
彼の存在に勇気をもらい、ぱっと後ろを振り向いた。誰もいない……鏡は不気味に沈黙している。
「七海?」
視線を戻した七海は、思わず顔をしかめた。妙な匂いがする。ランティスの持っている揺り香炉から、薬草めいた香りが漂っている。
「それは何ですか?」
「****、ノワール」
翡翠より艷やかな
ランティスが香炉を持ちあげると、七海は思わず後ずさりをした。美しい香炉だが、不快な香りがする。
「
香炉に近づきたくないが、ランティスに肩を抱き寄せられてしまったので、並んで歩くしかなかった。
部屋に戻り、彼から白湯と丸薬を一粒渡されると、気分はますます悪くなった。窓を開けて清浄な気を招きいれたいが、亡者が入ってくる危険性があるから叶わない。嗚呼、気分が悪い……
“親切なふりをして、毒を飲ませているのよ”
脳裡に、不吉な警句が蘇った。
毒――思い返してみると、彼から与えられる飲み物は、大抵は酸味が強くて苦手な味だった。彼もそれが判っているから、最近では
思えば高熱にうなされている時も、薬を飲んだあとは特に辛かった。
毒……
熱病に苦しんだ記憶が脳裡を過り、胸の奥がきりりと痛んだ。
薬を凝視している七海を、ランティスが見つめている。心配してくれているのかもしれないが、
(これは薬? それとも……)
これまで、彼から与えられたものは何でも口に入れてきたけれど、この夜は初めて拒んだ。
舌で薬を隠して、飲んだふりをしたのだ。