DAWN FANTASY
3章:囁きと庇護者 - 4 -
宿泊四日目の朝。
暖炉の薪が爆ぜる音に、七海は目を醒ました。
窓の方を見ると、沙幕 は両端にまとめられ、薄紗を漉 して陽が射しこんでいた。傍机の上に、開かれたまま散らばっている本が数冊。紅茶のカップは冷めてる。
躰を起こすと、酷い頭痛が消えていることに気がついた。
(良かった、治ったんだわ……)
恐らく熱も引いたのだろう。躰の気だるさが失せている。
ほっとしてショールを肩にかけて室内履きをひっかけると、寝室の扉を開けた。
「……ランティスさん?」
予想に反して、彼は居間にいなかった。寝室や浴室も覗いてみたが、どこにも姿は見当たらない。居間の卓に、鍵が一つしか置いていない……ということは、外出しているのだろう。
ひとまず寝室に戻って、琥珀繻子 のワンピースドレスに着替えた。なんとなく窓辺に寄ると、硝子の薄汚れに目が留まった。よくよく見なければ判らない、透明感のある白……
「やだ」
汚れの正体に気がついて、七海はさっと青褪めた。
窓硝子の一面に、ぺたぺたと掌の跡が遺っている。小さいもの、大きいもの、指を開いたもの……様々な手形が、この時の絶妙な光の加減で映しだされていた。
一体いつから手形はついていたのだろう?
それにここは三階だ。誰が、どうやって、手形をつけたのだろう?
夜な夜な聴こえてくる、亡者めいた呻きが脳裡を流れ過ぎた。
まさか、死霊がこの部屋に入ろうとしていた?
……不幸にも、この塔で死んでしまった者たちが、亡霊になって塔をさまよい、恨みつらみを募らせながら、生者にちょっかいをだしているのだろうか?
背筋がぞっと冷えて、思わず両腕を擦ってしまう。
もし憶測の通りなのだとしたら、死霊が部屋に入ってこれないのは、ランティスのおかげだろう。宿泊初日に、彼は念入りに清めの儀式を施していた。あれがなければ死霊たちは……
七海は部屋にいるのが恐ろしくなって、鍵を掴むと、部屋の外へ飛びだした。
床の軋む音が妙に障 る。
熱病にうなされていた時は気にする余裕もなかったが、この建物は何かがおかしい。毎晩のように怪異が起こるのだ。
風もないのに揺れる沙幕 。燭台の焔。壁のなかから聴こえてくる話し声。窓の向こうから聴こえてくる呻き声。今では柱時計が秒針を刻む音すら、不気味に聴こえる。
外にでて陽射しを浴びた途端に、真綿のような柔らかな安堵に包まれた。冷えた肌に温もりが戻ってくるのに身を任せ、手をかざして空を仰ぐ。
暗黒階段や薄暗い部屋にばかりいたせいか、最近、目が眩く感じることが増えた気がする。
振り返って館を見あげると、奇妙な目眩を覚えた。
逆光に縁取られた建物は、神秘めいても見えるし、不吉を纏っているようにも見える。
首を一つ振って、視線を庭に戻した。
目も絢 な色彩の交響楽。規矩 整然たる花壇が敷かれ、滴 るような金盞花 が爛漫 と咲き乱れている。
涼風が吹けば、草花の馥郁 たる香りや、灌木の匂いが漂う。
光沢のある丸石を敷き詰めた遊歩道を歩いていくと、綺麗な池があった。青く澄んだ水面に儚げな睡蓮が浮かんでおり、小鳥が戯れている。
とても静かだ。
館のすぐ傍に、こんなにも穏やかで閑雅 な景色があるというのに、誰も歩いていないのはなぜなのだろう。七海とランティス以外に、宿泊客はいないのだろうか?
幻想的な光景をぼんやりと眺めていると、不意に妖しい胸騒ぎを覚えた。
彼女 の気配を感じとった途端に、戦慄が背中を疾 り抜けた。
「誰かいるの?」
応 えはない。四方に視線を彷徨わせるが、辺りは森 と鎮まりかえっている。
けれども、鋭敏になった第六感が警鐘を慣らしている。ここに長居してはいけない。踵を返そうとした一刹那 、彼女が囁いた。
“ナナミ……”
耳を押さえて振り向いた七海は、恐怖に凍りついた。
「ひっ」
すぐ近くに、背の高い黒い喪服姿の女性が立っていた。古風な衣装で、真珠の釦のほかに装飾はないが、きりりと立ち姿が美しい。羽根飾 のついた帽子を被り、黒い面紗 で顔の半分は見えない。そのせいか、官能漂う紅い唇に視線を吸い寄せられる。
「貴女は、誰なの?」
「わたくしは、ナナミの味方よ」
かすれた七海の問に、縹渺 たる答えが返る。想像していたよりも低い、蠱惑的なコントラルトの声で。
「味方……?」
七海は鸚鵡返しに呟いた。これまで何度も彼女の囁きを耳にしてきたが、姿を顕したのはこれが初めてだ。
「ええ、そうよ……教会へいらっしゃい。秘密を全て教えてあげるわ……」
面紗 の奥から、深淵のような眸に見据えられたように感じられた。
これまで耳にしてきた囁きの正体は、彼女なのだろうか?
七海の味方だといい、ランティスへの警句を発していたのは、彼女の紅い唇なのだろうか?
混乱の極みで、七海は茫然と言葉を失くしていた。訊きたいことが山とあるはずなのに、舌がうまく動いてくれない。
「七海!」
唐突に声をかけられ、七海は弾かれたように振り向いた。
「ランティスさん……」
心臓が壊れそうなほど激しく鳴っていた。
傍にやってきたランティスは、意味深長に七海の顔を覗きこんだ。
「あの、こちらの女性――……えっ?」
七海が視線を戻した時、彼女の姿は消えていた。
一瞬、幻影を見たのかと己の正気を疑ったが、砒素 入りの砂糖のような甘さが耳に残っている。
再びランティスに視線を戻すと、彼もまた七海を見つめていた。心まで見透かすような凝視で。光放つ美貌に思案げな色を浮かべると、己の唇を指差した。
「……くちづけを 」
つい形の良い唇を凝視してしまい、七海は顔を赤らめ、ついで青くなった。
「……厭です」
「イヤ?」
ランティスが小首を傾げるのにあわせて、白銀髪が揺らめく。
「七海、******……***********」
彼は七海の手をとると、元気づけるように軽く叩きながら、穏やかな声で語りかけてきた。
けれども七海は、慰めよりも絶望を感じた。彼がくちづけを求める時は、危険の前触れなのだ。
「ごめんなさい、判りません。ただ私……」
「七海。*****、危険 。*****」
「危険 ? でもここの方が、他よりはましでしょう?」
怪異は起こるが、火焔狼 や砂髑髏 に比べたらかわいいものだ。夜は部屋に閉じこもっていればいいのだから。
ここから離れたくない――言葉では説明しがたい否定の感情が胸のうちに沸き起こる。
「*******……***黄金 、ウテ・カ・エリキサ***歩いて ****……」
諭すようにランティスがいう。また謎の“ウテ・カ・エリキサ”だ。七海のなかで、天の邪鬼が頭をもたげるのを感じた。
なぜランティスは、七海を連れていこうとするのだろう?
彼の親切だと思ってきたが、七海が尻込みする度に説き伏せようとするのは、何か目的があるからではないだろうか?
(……私の心臓が欲しいとか?)
何故 にいまさら疑うのかと、氷のような自己嫌悪が心に突き刺さる。唇を噛み締めて感情を制御しようとした。論理的に考えようと努力する。
これまでずっと、ランティスは七海を護ってくれた。それは疑いようのない事実だ。彼の目的は不明だが、そこにつけこむように疑心を植えつけようとする彼女の存在も十分疑わしい。だけど……教会へくれば秘密を教えるともいった。正体不明の女 ではあるが、言葉は通じる。一度、話を聞いてみるべきかもしれない。
「……せめて、あと数日だけ待って頂けませんか? まだ体調が万全ではないんです」
嘘ではない。けれども疚しさが勝って、七海は彼の目を見ることができなかった。澄み透った碧氷の瞳に見つめられたら、きっと何もかも見透かされてしまう。
俯いたまま七海は身を引いた。ランティスが手を伸ばしてくるのが判ったが、触れられる前に身を翻した。
「****、七海!」
聴こえないふりをして、屋敷へと小走りに急ぐ。彼が追いかけてこないのをいいことに、そのまま自分の寝室に逃げこんだ。
暖炉の薪が爆ぜる音に、七海は目を醒ました。
窓の方を見ると、
躰を起こすと、酷い頭痛が消えていることに気がついた。
(良かった、治ったんだわ……)
恐らく熱も引いたのだろう。躰の気だるさが失せている。
ほっとしてショールを肩にかけて室内履きをひっかけると、寝室の扉を開けた。
「……ランティスさん?」
予想に反して、彼は居間にいなかった。寝室や浴室も覗いてみたが、どこにも姿は見当たらない。居間の卓に、鍵が一つしか置いていない……ということは、外出しているのだろう。
ひとまず寝室に戻って、琥珀
「やだ」
汚れの正体に気がついて、七海はさっと青褪めた。
窓硝子の一面に、ぺたぺたと掌の跡が遺っている。小さいもの、大きいもの、指を開いたもの……様々な手形が、この時の絶妙な光の加減で映しだされていた。
一体いつから手形はついていたのだろう?
それにここは三階だ。誰が、どうやって、手形をつけたのだろう?
夜な夜な聴こえてくる、亡者めいた呻きが脳裡を流れ過ぎた。
まさか、死霊がこの部屋に入ろうとしていた?
……不幸にも、この塔で死んでしまった者たちが、亡霊になって塔をさまよい、恨みつらみを募らせながら、生者にちょっかいをだしているのだろうか?
背筋がぞっと冷えて、思わず両腕を擦ってしまう。
もし憶測の通りなのだとしたら、死霊が部屋に入ってこれないのは、ランティスのおかげだろう。宿泊初日に、彼は念入りに清めの儀式を施していた。あれがなければ死霊たちは……
七海は部屋にいるのが恐ろしくなって、鍵を掴むと、部屋の外へ飛びだした。
床の軋む音が妙に
熱病にうなされていた時は気にする余裕もなかったが、この建物は何かがおかしい。毎晩のように怪異が起こるのだ。
風もないのに揺れる
外にでて陽射しを浴びた途端に、真綿のような柔らかな安堵に包まれた。冷えた肌に温もりが戻ってくるのに身を任せ、手をかざして空を仰ぐ。
暗黒階段や薄暗い部屋にばかりいたせいか、最近、目が眩く感じることが増えた気がする。
振り返って館を見あげると、奇妙な目眩を覚えた。
逆光に縁取られた建物は、神秘めいても見えるし、不吉を纏っているようにも見える。
首を一つ振って、視線を庭に戻した。
目も
涼風が吹けば、草花の
光沢のある丸石を敷き詰めた遊歩道を歩いていくと、綺麗な池があった。青く澄んだ水面に儚げな睡蓮が浮かんでおり、小鳥が戯れている。
とても静かだ。
館のすぐ傍に、こんなにも穏やかで
幻想的な光景をぼんやりと眺めていると、不意に妖しい胸騒ぎを覚えた。
「誰かいるの?」
けれども、鋭敏になった第六感が警鐘を慣らしている。ここに長居してはいけない。踵を返そうとした
“ナナミ……”
耳を押さえて振り向いた七海は、恐怖に凍りついた。
「ひっ」
すぐ近くに、背の高い黒い喪服姿の女性が立っていた。古風な衣装で、真珠の釦のほかに装飾はないが、きりりと立ち姿が美しい。
「貴女は、誰なの?」
「わたくしは、ナナミの味方よ」
かすれた七海の問に、
「味方……?」
七海は鸚鵡返しに呟いた。これまで何度も彼女の囁きを耳にしてきたが、姿を顕したのはこれが初めてだ。
「ええ、そうよ……教会へいらっしゃい。秘密を全て教えてあげるわ……」
これまで耳にしてきた囁きの正体は、彼女なのだろうか?
七海の味方だといい、ランティスへの警句を発していたのは、彼女の紅い唇なのだろうか?
混乱の極みで、七海は茫然と言葉を失くしていた。訊きたいことが山とあるはずなのに、舌がうまく動いてくれない。
「七海!」
唐突に声をかけられ、七海は弾かれたように振り向いた。
「ランティスさん……」
心臓が壊れそうなほど激しく鳴っていた。
傍にやってきたランティスは、意味深長に七海の顔を覗きこんだ。
「あの、こちらの女性――……えっ?」
七海が視線を戻した時、彼女の姿は消えていた。
一瞬、幻影を見たのかと己の正気を疑ったが、
再びランティスに視線を戻すと、彼もまた七海を見つめていた。心まで見透かすような凝視で。光放つ美貌に思案げな色を浮かべると、己の唇を指差した。
「……
つい形の良い唇を凝視してしまい、七海は顔を赤らめ、ついで青くなった。
「……厭です」
「イヤ?」
ランティスが小首を傾げるのにあわせて、白銀髪が揺らめく。
「七海、******……***********」
彼は七海の手をとると、元気づけるように軽く叩きながら、穏やかな声で語りかけてきた。
けれども七海は、慰めよりも絶望を感じた。彼がくちづけを求める時は、危険の前触れなのだ。
「ごめんなさい、判りません。ただ私……」
「七海。*****、
「
怪異は起こるが、
ここから離れたくない――言葉では説明しがたい否定の感情が胸のうちに沸き起こる。
「*******……***
諭すようにランティスがいう。また謎の“ウテ・カ・エリキサ”だ。七海のなかで、天の邪鬼が頭をもたげるのを感じた。
なぜランティスは、七海を連れていこうとするのだろう?
彼の親切だと思ってきたが、七海が尻込みする度に説き伏せようとするのは、何か目的があるからではないだろうか?
(……私の心臓が欲しいとか?)
これまでずっと、ランティスは七海を護ってくれた。それは疑いようのない事実だ。彼の目的は不明だが、そこにつけこむように疑心を植えつけようとする彼女の存在も十分疑わしい。だけど……教会へくれば秘密を教えるともいった。正体不明の
「……せめて、あと数日だけ待って頂けませんか? まだ体調が万全ではないんです」
嘘ではない。けれども疚しさが勝って、七海は彼の目を見ることができなかった。澄み透った碧氷の瞳に見つめられたら、きっと何もかも見透かされてしまう。
俯いたまま七海は身を引いた。ランティスが手を伸ばしてくるのが判ったが、触れられる前に身を翻した。
「****、七海!」
聴こえないふりをして、屋敷へと小走りに急ぐ。彼が追いかけてこないのをいいことに、そのまま自分の寝室に逃げこんだ。