DAWN FANTASY

2章:最後の黄金 - 1 -

 七海は、鬱々とした気持ちで闇に沈む滝のような階段を、黙々と降りていた。
 もうどれくらい、このあなぐらにいるのだろう。
 時計も窓もないから、時間の感覚が判らなくなる。三日は経過したように思うが、もしかしたら、もっと過ぎているのかもしれない。
 邪悪な凪ぎのなか時が腐敗して、くらい巨大な空洞に、脚音だけがこだましている。
 黒闇こくあんのなか、ランティスの杖と七海の持っている角燈ランタンだけが明るい。
 無心で脚を動かすうちに、自然と虚ろな目になっていく。
 ぞっとする景に慣れてしまったが、不意打ちで顕れる異形の怪物には度肝を抜かれ、魂消たまげそうになる。
 都度ランティスが対処してくれるが、光の射さない暗闇のなか、異形に襲われるかもしれないという緊張感を強いられながら、延々と階段を降りねばならないのは、殆ど拷問だった。
 せめて会話で気を紛らわせたらいいのだが、ここには沈黙しかない。
 せきとして静まりかえった暗黒階段。

“あはははははははははははは、あはははははははははははは……”

 聴覚は敏感になり、螺旋階段の底から、凄まじい暗黒の哄笑こうしょうが聴こえてくるような気がする。
 幻聴は悩みの種だ。
 耳のすぐ後ろから聴こえることもあるし、頭のなかで囀っているように感じることもある。
 不思議と言葉を理解できるのだが、その内容は酷いもので、死を仄めかしたり、ランティスに対する疑心だったりと不愉快でしかない。頭にきて反論してしまうこともあり、一体自分は誰と喋っているのかと、正気を疑いそうになったりする。
 これも全部、沈黙がいけないのだ。
 普段の七海は、そこまで無口ではないが、この状況では会話も弾まない。
 言葉が通じないことを抜きにしても、ランティスは緘黙かんもく症かと思うほど、寡黙かもく過ぎる。
 或いは、この状況が彼をそうさせたのかもしれない。
 独りきりで、長い時間をあなぐらで過ごしているのだとしたら、会話を忘れてしまっても不思議はない。きっと言語学者だって喋り方を忘れてしまうだろう。
 いずれ七海もそうなるのかと思うと、絶望的に暗澹あんたんとなる。
 会話を望めないにしても、せめてどこまでおりればいいのか、今どのあたりなのか、あなぐらの全容と、ゴールまでの距離を知りたい。
 推し量ろうにも、ここは謎だらけだ。
 窓があれば良いのだが、あの聖域をでてから、ひたすら暗黒階段を歩き続けている。食事も睡眠も、階段のうえで済ませているのだ。
 清拭の魔法“スプール”のおかげで、清潔は保たれているが、寝間着にきがえることもなく、安らぎのない眠りに就いて、目が醒めて再び階段を降りていく繰り返しには、精神がこわれそうになる。
 忌々しい、禍々しい黒洞々こくとうとう
 相似形状を無限に繰り返す、狂気のフラクタル!
 気が遠くなるような無限階段を、人が築いたのだとしたら狂気の沙汰だ。
 どこの何某なにがしが、何のために、この塔を作ったのだろう?
 宇宙に届かんばかりの高さを、一体、どこの誰か、どのようにして築きあげたのだろう?
 おまけに侵入者を拒むように怪物が闊歩するなか、攻略を助長するような聖域があるのは、なぜなのか?
 全てが謎に包まれている。
 この塔は、人口の建築物というより、神秘の自然物、植物のように感じる。
 塔の全てが、茫洋としてはっきりしない。
 だが、なんといってもランティスの存在が一番の疑問だ。
 神の創り給う美貌もることながら、彼の操る秘儀も説明がつかない。
 なぜ、あの場所にいたのだろう?
 なぜ、七海を助けてくれるのだろう?
 超人的なランティスなら、七海というお荷物さえなければ、今頃とっくに脱出できているのではないか?
 突然目の前に顕れた、見ず知らずの正体不明の女の世話を焼きながら、心のうちでは面倒だと感じているのだろうか?
 ……そうは見えないが。そうではないと思いたいが。
 自分が足手まといでしかないことが辛い。
 悪い方にばかり考えてしまう……このわけのわからない世界で、沈黙していると、真に脳が混乱をきたしそうになる。
 もしかしたら、自分は今、地獄の底に向かっているのかもしれない。
 ここには、禍々しい強烈な磁場のようなものが働いていて、生者の魂を蝕んでいくのだ。
 日本で平和に暮らしていた七海が、このような場所にいるのも、全ては、この説明のつかない磁場が原因なのではという気さえしてくる。
 と、注意が散漫になって、脚がもつれた。
「わっ」
 平衡を崩して倒れると思ったが、振り向いたランティス胸のなかに飛びこんでしまった。図らずも抱き着く恰好になり、七海は慌てて離れようとした。
「すみません!」
 だが、彼はぐっと腕に力をこめて広海の腰を引き寄せた。
 七海は感電したように仰け反った。
「え? あの、えっと?」
 近い。近すぎる。綺麗な顔がすぐ傍にある。胸に手をついて距離をとろうとするが、離してくれない。
「****、ダイジョウブ?」
 七海は頷いて居住まいを正した。
「すみません、大丈夫です」
 ランティスは頷いて、支えていた七海の肘から手を離した。
(うぅ、また迷惑かけちゃった……)
 ただの注意散漫だったのだが、ランティスは七海が疲れていると思ったのか、荷をほどいて休憩することにしたようだ。
 実際、少しばかり疲れていたので七海はほっとしたが、同時に絶望もした。
 休んだらまた、深淵をおりていかねばならないのだ。
 一体どこまで、いつまで……明日も、明後日も、明々後日も、この監獄から脱出できないのだろうか?
 鬱々としている七海の隣で、ランティスは、おもむろに筒を出現させた。蓋を開け、なかから三枚の地図を取りだすと、七海の前で地図を拡げてみせた。
「****地図グネス**見るタト
 いわれた通り、七海は身を寄せて地図を覗きこんだ。
「*****」
 彼は、四角い部屋の一つを指さした。七海は頷きながら、前回いた部屋を探そうとした。
 ランティスは杖をかざして、ペンライトのように、先端から光を放った。光を地図にあてて、説明をし始める。
「***歩くプリパ******コプリタス*****」
 ……よく判らないが、その地図に描かれている領域は、コプリタスというらしい。そこを目指して歩くといいたいのだろうか?
 難しい顔をしている七海を見て、ランティスは別の部屋に光をあてた。
「******ティ・ティ・パプラス」
 その響きは知っている。宇宙樹ユグドラシルのある聖域のことだ。
はいィオ。ティ・ティ・パプラス」
よくできましたラーチェ
 頭を撫でられ、七海は照れて唇を引き結んだ。
 それにしても、これまでに歩いてきた道、訪れた部屋、そしてティ・ティ・パプラスの場所は、てんでバラバラで、まるで繋がりがないように見えるのは、なぜなのだろう?
 思えば、あの火焔狼コゥダリにも、階段の途中に顕れた扉をくぐり抜けて、対峙したのだ。
 そういう仕組なのだろうか?
 この塔のなかでは空間の歪みのようなものがあって、部屋から部屋へとワープできるのかもしれない。
「ワープかぁ……だめだー、理解が追いつかない……」
 七海は力尽きように項垂れた。
 ランティスはこの難解な地図を理解しているのだろうか?
 そんな芸当は、神様でもない限り無理なように思えるが、地図に書きこまれた細かな記号や文字から、彼の巨大な知性が覗い知れた。
(ランティスさんは、宝探しをしているのかなぁ?)
 おびただしい数の黄金を集めていたし、難解な地図を前に、悲壮感や混乱といった感情は感じられない。表情に乏しい人だが、熱心に地図を見つめる横顔は、高邁こうまいな学者を思わせる。
 あの夥しい数の黄金を集めるのに、一体どれだけの時間がかかったのだろう?
 野外生活に慣れているようだが……よく気が狂わずにいられるものだ。
 退屈していると思ったのか、ランティスは七海に玩具を渡した。三つの輪が連結されている立体パズルで、知恵の輪に似ている。前回休憩した際にも挑戦したが、最後の一つがどうしても外せなかったものだ。
 七海がウンウン唸りながら知恵の輪と格闘している間に、ランティスは地図をしまい、調理を始めた。
 そのうち美味しそうな匂いが漂いだした時、七海はぱっと顔を輝かせた。
「外れた!」
 ばらばらになった三つの輪を見せると、ランティスは微笑した。
よくできましたラーチェ、******食べるノグー?」
 彼は七海の手から玩具を取りあげると、代わりにタプラを渡した。
「ありがとうございます」
 このじゃが芋に似た食べ物は毎食の定番で、素朴な味わいながら、味が濃くて美味しい。サイオンという岩塩をつけると甘みがいっそう引き立つのだ。
 小休憩をする時は、霊芝茶れいしちゃを煎れてくれたり、焼栗や煎り銀杏ぎんなん、金柑を分けてくれる。
 それから、食事の合間に、言葉を教わるのは日課になりつつある。
 今日新たに覚えた単語は、温かいエーミメトルトリル
 この塔をでる頃には、もう少し円滑に意思疎通できるようになっていたいが、実現できるかは怪しい……
 それに脱出したいと思う一方で、不安にも思っている。
 塔のなかが、これだけ奇想天外に満ちているのだ。外の世界に、どんな危険が潜んでいるのか想像もつかない。
 このてしない世界で一人放りだされたら、どうすればいいのか、まるで判らない。
 七海は膝を両腕で抱えて、その間に頭を埋めた。先の見えない不安に、胸が押し潰されてしまいそうだった。
(帰りたい……)
 家事や仕事といった面倒なこともあったけれど、あの平穏な生活に帰りたい……何事も事件らしいことの起きない、愛おしい平凡な日への郷愁。父と母、愛犬の武蔵が脳裏をよぎる。
 追憶の切なさに項垂れていた七海は、空気の動く気配に顔をあげた。
 隣に座ったランティスが、自分と七海をくるみこむように織物をかけた。
「七海。お休みなさいマカラ エルテナ
 優しみのこもった口調でいうと、そっと七海の肩を抱き寄せ、自分の方へもたれさせた。
 階段のうえで眠る時は、いつもこの姿勢で眠っている。最初は羞恥もあって遠慮していた七海だが、今は素直に寄りかからせてもらっている。
お休みなさいマカラ エルテナ……」
 小さく囁いて、目を閉じた。