DAWN FANTASY

1章:心臓に茨、手に角燈 - 10 -

 休憩を終えると、ランティスは七海に角燈ランタンを持たせて、扉の前に導いた。
 両開きの扉が独りでに左右に開き、暗闇に溶け消えているてしない階段が覗く。
 七海は身が竦むのを感じた。さっきまであった頑張ろうという気持ちは、いっぺんに霧散してしまった。
「厭……」
「イヤ?」
「すみません、私……無理そう」
 七海はランティスを仰ぎ見て首を振った。
「七海……**********、**********」
 瞳に案じる色が浮かぶのが見て取れたが、七海は憂愁の重たい翼が、心のうえに拡がっていくのを感じた。
「七海」
 肩に大きな手が乗せられると、ぱっと身を翻して陽のあたるところまで逃げた。
「もう階段をおりたくありません。怖いし、あんなの無理……」
「*******……」
 ランティスは扉の向こうへ脚を踏みいれると、階段を一つおりたところで立ち止まり、七海を振り向いた。
「七海、****」
 おいで、と手を差し伸べられるが、七海はどうしても一歩を踏みだすことができなかった。
 またあのような恐怖を味わうくらいなら、この場所に留まりたかった。少なくとも、ここにいれば得体の知れない魑魅魍魎ちみもうりょうはやってこないのだ。
「すみません、怖くて……本当にごめんなさい。無理なんです」
 ランティスの瞳に迷いがよぎった。彼は、七海の傍に戻ってくると、かすかに顫動せんどうする肩に手を置いた。
「七海、***********」
「うぅ……いきたくないよぅ」
 想像の範疇を超えた絶望的無限階段を降りることに、意味を見いだせない。
 彼は出口を知っているのかもしれないが、七海にはさっぱり判らない。ただ闇雲に進むように思えてならないのだ。そんな危険を冒すくらいなら、ここに留まることはできないだろうか?
 ここには閉塞的な安寧がある。
 苦痛に塗れたおぞましい死より、緩慢な餓死に至る方がまだマシだ。
「七海、*****」
 ランティスは七海の顔を覗きこもうとした。七海はさっと顔を背ける。
「ここで、救助を待つということは、不可能でしょうか? うぅ、無理なのかな……でも、いきたくないよぉ……っ」
 泣き言を止められない。
「七海……」
 伸ばされる手を見て、七海は明確な意思をもって後ずさりをした。
 普段なら申し訳なく思うところだが、この時は、反撥を感じた。彼のせいではないにしても、この世界の不条理に沸々と怒りが湧いてくる。これまで我慢に我慢を重ねてきた鬱憤が、ここへきて一気に噴出してしまったのだった。
「私に構わず、先へ進んでください。私はここに残りますから、ランティスさんは一人でいってください」
「*********」
 ランティスは諭す口調でいうが、聞きたくないと七海は首を振る。
「七海」
 彼は身を屈めて七海の目線にあわせた。頑なに七海が首を振ると、手首をやんわりと掴んだ。
「離してください」
「****」
 ランティスは断固たる調子でいうと、七海の膝裏に手をいれ、抱きあげた。
「ちょっと!」
「****……」
「おろして、ランティスさん!」
 七海が繰り返しても、ランティスは止まる気配はない。まっすぐに扉へ近づいていく。
「おろして……一人でいってよ……うぅ……っく」
 語尾は弱々しく潤んだ。ランティスは立ち止まると、困った様子で七海の顔を覗きこんだ。
「七海、*****……」
「すみません、泣いて……だけどもう、先に進む気力がなくて……っ」
 子供みたいにめそめそしていると、ランティスはその場に腰をおろして、七海を膝上に横抱きにして座らせた。
「っ!?」
 七海は焦って膝からおりようとするが、ランティスは七海を抱きしめたまま、子供にするように軽く揺すった。
「*******……」
 穏やかな慰めの囁きは、錆びた剃刀のように七海の神経を撫でた。
「おろして! 子供じゃないんですから」
 七海は涙ながらに笑った。けれど声は辛辣さと絶望に溢れていて、自分でも攻撃的だと感じた。
 耳の奥底で悪魔が囁いている。もっと怒れと七海を煽り立てる。
「もう私に構わないで。放っておいて!」
 苛立ち拒絶を口にしても、ランティスは七海を離そうとしない。優しい仕草で触れてくる。
「離してっ!」
 刺々しく怒鳴る七海の髪を優しく撫でて、頬やこめかみにくちづけをする。忍耐強く、何度も。
 そうされるうちに、七海の激昂も落ち着いていき、静かな悔悟かいごに浸された。
 何度も救ってくれた命の恩人に、子供じみた癇癪を起こして、手前勝手に感情をぶつけてしまった……
(……怒ってない?)
 恐る恐る顔をあげると、視線がぶつかった。
 綺麗な顔が近づいてくる……身動きができずにいると、ゆっくり唇は重なった。舌が唇を開かせようとして、七海は我に返った。
「あのっ?」
 腕を突きだすと、ランティスは少し躰を離したが、肘を掴んだまま、じっと見つめてくる。
 これだけ密着していても、碧氷の瞳に情欲はうかがえない。心の奥底まで見透すように、静かに凪いでいる。
 七海は違う。こんな風に密着して、見つめられて、頬に触れられて冷静でいられるはずがない。
「ナナミ。モア ティナ」
 その言葉の意味は判らないけれど、恐らく理由があるのだ。最初にくちづけた時も、七海を助けるためだった。
 そう思っても、腰を引き寄せられ、顎に手をかけられると、否応無しに胸は高鳴った。物事を正常に考えられない。逃げださずにいるのが精一杯だ。
 覚悟を決めて目を閉じると、吐息が頬に触れた。柔らかな感触を唇に感じた時、魅惑的な熱が全身を駆け巡るのを感じた。
「ん……」
 啄むような優しいキスが繰り返され、えもいわれぬ陶酔感に浸される。開かせようとする舌の動きにあわせて、おずおずと唇を開くと、熱い舌が忍びこんできた。
 舌が触れあった瞬間、電流が流れたように感じられた。
 思考にジャミングがかけられ、微細な電子パケットのように神経回路から脳へと、一方的に映像を共有される。
 二度目なので多少心構えは持てたが、それでも情報が多くて混乱する。
 無限階段を進んでいく――扉をくぐり抜けて、また扉……無数の扉。
 ぱぁっと視界は明るくなって、滴り落ちるような緑に覆われた。
 亜熱帯の森である。八ツ目で覗いたような景観は、昆虫の視界を覗いたみたいだ。
(厭だ、気持ち悪い)
 嫌悪感が走ると、映像はまた切り替わって、今度は熱砂の砂漠が視えた。
 亜熱帯に砂漠?
 映像の関連性は全くの不明で、塔の中なのか外なのかも判らない。
 移ろう幻影のなかで、ランティスが伝えたい景はどれなのだろう?
 答えを探していると、観音開きの扉が見えた。
 驚くことに、扉の向こうに空と森が拡がっている。
 ということはつまり、出口だ。彼は出口があることを伝えようとしているのだ!
「ん……っ」
 情報を整理したいが、思考回路が鈍ってきた。
 いくら情報伝達のためとはいえ、こんなに官能的なキスをしていいのだろうか?
 ランティスは以心伝心の手段だと割り切っているのかもしれないが、七海には無理だ。舌が触れるたびに、ぞくっとした震えが全身を貫いて、心臓を鷲掴まれたような衝撃が走る。うまく呼吸ができない。鼓動が強く跳ねては止まり、また跳ねて止まるを繰り返す。
(もぉ無理……っ)
 両腕を前に突きだすと、大して力はこめられていなかったが、ランティスは唇をほどいた。
「七海……」
 細く長い優美な指が、だらしなく開いた七海の唇をぬぐった。
 ぞくっとする艶めいた仕草で、七海の願望かもしれないが、眸のなかに情熱が灯っているように感じられた。
「ぁ……大丈夫、立てます」
 頭を振って立ちあがろうとしたが、ちっとも大丈夫ではなかった。
 脚に力は入らないし、肌が燃えるように熱くて、両手が震えている。
 精神の混線はだんだんと薄れ、現実世界に心が戻ってきたが、頭は陶酔したようにぼぅっとしている。
 彼は少し躰を引いたが、軟体生物みたいにぐにゃぐにゃになってしまった七海を、片腕で支えている状態だ。
「ダイジョウブ?」
 思わず七海はランティスに笑みかけた。もう日本語を理解している。気遣いが嬉しい。優しい……ますます彼のとりこになってしまう。
(――こらこらこら、しっかりしなさい七海。頭働いている? 今視た光景を、きちんと心に留めておくのよ)
 ふわふわした思考に喝を入れると、少しずつ呼吸が整ってきた。
 七海は数回瞬きをすると、今度こそランティスの腕を借りて立ちあがった。
「扉が視えた。出口があった……ちゃんと、出口があるんだ」
 殆ど独り言のように呟いた。
 まだ心臓はどきどきしているが、思い切ってランティスを見あげた。彼は、七海の表情を注意深く見守っていた。
「いきましょう。歩くプリパ
 扉を指差しながら七海が告げると、ランティスは安堵の表情を浮かべた。長身を屈めて、感謝を捧げるように七海の額にくちづける。
(ひぇっ)
 せっかく冷静になりかけた思考が、またしてもかき乱された。こんな風に触れられるたびに、自分はいちいち赤面してしまうのだろうか?
 黙りこくった七海の肩を支えて、ランティスは扉へと誘う。
 さぁ、暗黒階段の始まりだ。
 七海は角燈ランタンを持ちあげると、勇をして暗闇へと脚を踏みだした。