COCA・GANG・STAR

4章:恋 - 2 -


「今度の土曜日にしよう」

 昼休み。屋上で弁当を広げながら、優輝は隣で珈琲を飲んでいる遊貴に訊ねた。
 楠の見舞いの話だ。乗り気ではない様子を見て、なら一人でいく、と優輝が話を切ると、不承不承俺もいくと頷いた。

「杏里、麻薬はやってなかったみたい。全治二ヵ月だって」

「運が良かったね」

「良かったのかなぁ? 重傷に変わりはないけど……でも、小宮先輩の弟さんは、治療に半年かかるらしい」

 麻薬に手を染めた代償に、依存症を抱えているのだ。専門医師の下で、しばらく療養すると聞いている。

「半年で終わるなら、早い方だと思うよ」

 一連の事件の渦中にありながら、優輝は麻薬の効果や依存性について、いまいち理解していなかった。

「……中毒性って、そんなに酷いのかな?」

「種類によるよ。廃人になるヘロインや、甘ったるく、リラックスできるマリファナと違って、コカインは一定時間、頭が冴え渡って、何をするにも効率が上がる」

「でも副作用があるんでしょ?」

「あるよ。コカインは個々の細胞の間に入り込み、神経細胞同士をつなぐ隙間――シナプス間隙かんげきの根本的なメカニズムをブロックするんだ。結果、神経細胞は常に興奮状態に陥るけど、次第に憔悴していく。脳も心臓もやられて、ペニスは機能しなくなり、内臓は爛れる」

「うへぇ……」

 ぞっとした顔で、優輝は呻いた。

「だけど、そうなるまでは全能の神でいられるよ」

「どんなに素晴らしい効果があっても、リスクが高過ぎる。副作用を知らないってことはないだろうに、どうして依存しちゃうんだろう……」

「麻薬に手を出すような、刹那的に生きてる人間に、将来を見据える能力なんてない。今、この瞬間が全てだ。依存が進めば、個人の意志では絶対にやめられないしね」

「……どうして、この世には麻薬があるんだろう?」

「三千年もの間、ホメロスからエドガー・アラン・ポーまで、多くの作家が書いてきたじゃない」

「麻薬の魅力について?」

「“心を突き刺す悲しみも怒りも消し去り、あらゆる辛い記憶を拭い去る力を持った薬”って、紀元前八〇〇年の頃から言われている。アヘンは、人類が知るもっとも効果的な鎮痛剤だよ」

「そりゃ副作用がなければ、素晴らしい鎮痛剤かもしれないけどさ……」

 不本意げな口調で優輝が呟くと、遊貴は人の悪い笑声をこぼした。

「判っていても、手を出してしまう。人間のさがじゃない」

「いっそ、魅力的な効能なんて一切なく、ただの激薬なら誰にも見向きもされなかったろうにね」

「神が創り給う万能薬か、悪魔の囁く誘惑なのか。何世紀も交わされてきた議論だ。油田をも凌ぐ資金の源であることは確かだけどね」

「そうかぁ? 油田があれば、国全体が潤うじゃん」

 胡乱げに首を傾げると、遊貴は緩く首を振った。

「仮に自分の領地に油田があったとしても、金に換えるには、高度な掘削技術に、パイプライン整備、大規模な設備投資と人の手が必要だ。でもコカは違う。商品さえ手元にあれば、即金になる。少量の粉を封筒に入れて、ポストに投函することだってできるんだ」

「なるほどねぇ……だけど、ハイリスク過ぎる。違法だし、見つかれば逮捕されるのに」

「if you risk, all you have all. you know?」

「判らん」

 真顔で優輝が応えると、楽しげに遊貴は口端を上げた。

「麻薬のもたらす利益率は、他のどんな商売よりも圧倒的に高いんだ。驚くほど短い期間で、農園の貧しい男が億万長者にのし上がった実例が少なからずある」

「へぇ?」

「日本人には判らないだろうけど、麻薬に携わるしか、収入を得られない地域が世界にはある。そこで人より稼ごうと思ったら、ただ関わっているだけじゃ駄目だ。いくばかの賃金で栽培する隷属民でいては、どれだけ働いても得られる金は変わらない」

 遊貴のいわんとすることが、優輝にも何となく判った。

売人プッシャーになれってこと?」

「腕利きは別として、数グラムの取引でマージンを得るような、末端の売人では駄目だ。現地価格の何百倍に化けるのが、コカだよ。グラム単位一〇〇円のコカが、売る時には五〇〇〇〇円になったりする。価格管理に携わり、その差額を懐に入れられる立場の人間が、巨万の富を手にするんだ」

「価格破壊も甚だしいな。殆ど詐欺じゃん!」

 しかめ面で優輝が吠えると、いかにも、という風に遊貴も頷いた。

「嵩増しすることを、俗語でカットというんだけど、儲けようと思ったら、これが必要不可欠だ。悪質は良質を凌駕する、グラシャムの法則と同じだよ」

「よく判らん……薄めて売るってこと?」

「そうそう。ヨーロッパでも平均二五~四三%、アメリカで三〇%、一番低いのはデンマークの一八%……そこまで薄まったら、流石の俺でも詐欺だといいたいけど。九五%以上の高純度なコカは、とてもレアなんだ。今回、北城組が黒田組から盗んだ麻薬には、ヘロイン、マリファナ、メタンフェタミン、エルにエス、その他諸々だが、中でも一〇〇キロ相当の貴重な真珠ベルマータをやられたのは痛かった」

「はー、そうなのか……そんなに純度が劣化して、吸う人は判らないのかな?」

 カレーの辛さの度合いなら、細やかに区別できる自信がある……とぼけた思考の優輝を見て、遊貴はにやりと笑った。

「そこは腕の見せ所だ」

「でも、売れるってことは、需要があるってことだよね……世の中には、そんなにも麻薬を欲しがる人がいるのか」

「麻薬の金額もピンキリだよ。購入するのは、富裕層の娯楽とは限らない。それに、戦争にも欠かせない必需品だ」

「戦争?」

「戦場に立つ人間は、想像を絶する暴力に晒される。銃弾が身体にめり込み、骨が砕かれ、肉が裂かれ、身体の一部が吹き飛ぶ。気が狂いそうな痛みから救ってくれるのは、国でも家族でも恋人でも神でもない。モルヒネだ」

「……」

「戦争には大量のモルヒネが、アヘンが必要不可欠だ。だから、戦争している国は、広大な芥子けし畑と流通をコントロールしている。麻薬カルテルは、そうした戦争背景を土壌に繁栄してきた一面もあるよ」

 それが戦争なのかと、優輝は表情を曇らせた。話を聞いているうちに、どうしようもなく気分が沈んできた。

「俺だって、モルヒネを医療に使うことは知ってるよ。戦争に限らず、病気の人を助けるためだろ。科学的なことは判らないけどさ……」

「ちゃんと説明すると、アヘンの科学的な分析は、一九七三年、メリーランド州ボルチモアの二人の科学者によって解明された。アヘンが摂取されると、脳と脊髄の中枢系神経のレセプターと呼ばれる細胞グループを刺激する。アヘンは特に脳の視床に有効に作用するんだ。視床は二・五センチほどの卵形部分で、痛みを司っている器官だよ。アヘンの成分は、視床のレセプターにとりつき、痛みのメッセージの到達を妨げる。同じ科学的な作用が、幸福感も感じさせる。脳の働きは鈍るが、同時に至福感に浸らせ、創造的で哲学的、ロマンティックな気分になれるのさ」

 学者然とした口ぶりで滔々とうとうと解説した遊貴を、間の抜けた顔で優輝は見た。

「すげぇ詳しいな。にしても、それだけ聞くと、麻薬とは思えない万能っぷりだ」

「ちなみにアヘン系薬物、モルヒネやコデイン、それらの女王と称されるヘロインも同じ働きをするよ」

「……C9Hは、麻薬を売ってるの?」

 緊張気味に優輝が訊ねると、紫の瞳は真っ直ぐに優輝を捕えた。

「C9Gとして、世界中に売っているよ。競争相手を殺して、賄賂で政府を支配し、万能薬にもなる麻薬を、何世紀にも渡って支配している。そうやって、誰も手を出せないほどの莫大な富を築いてきたんだ」

 視線を逸らせずに、優輝は喉を鳴らした。遊貴の瞳を見たまま、口を開いた。

「遊貴も、麻薬をやっているの?」

「原則やらない。仕事内容を考えると矛盾の極みだけど、組織の人間には、服用を禁止しているんだ。健康管理は、一般企業より遥かに徹底しているよ」

「原則ってことは、例外があるの?」

「まぁ、そうだね。不眠不休で、殺し合いをしないといけない時とか?」

「……マジでいってんの?」

「マジだよ」

「正真正銘の億万長者なのに。なんで、そんな危険なことをしているんだよ……」

 法も道徳も通用しない無政府主義者アナーキストだが、遊貴が億万長者であることに違いはない。
 世界富裕層〇・一%の中でも、頂点に立てる正真正銘の超がつくほどのエリートなのに。