COCA・GANG・STAR

2章:ビバイル - 1 -


 六月の日曜日。
 酸性雨の降りしきる東京、渋谷。
 鉛色の空の下で高圧線がじりじりと放電している。優輝は傘の咲いたスクランブルを抜けて、珈琲喫茶の扉を開いた。休憩室を覗くと、意外な人物と眼が合った。

「杏里じゃん。どうしたの?」

 今日はシフトは入っていないはずだ。

「ユッキーを待ってた。俺、今週でバイトを辞めるから。マスターには、もう話してある」

「えっ、辞めるの?」

「うん。ビバイルに入ろうと思って」

「はっ!?」

「でかい稼ぎがあるから、乗らないかって、誘われてさ」

「え……」

 嫌な予感しかしない。優輝が深刻そうに押し黙ると、楠はニッと笑った。

「ンな顔、すんなって。三商の人間は、大半がビバイルの構成員だ。どうってことねーよ」

「ビバイルに碌な奴いないよ。やめときなって」

「自給九〇〇円のバイトとは、稼ぎがダンチなんだよ。普通は数グラムの取引がせいぜいだけどさ、俺はキロ単位の取引に関われるんだ。成功報酬は、最低でも一〇〇万円だぜ」

「一〇〇万円!? 嘘くせー! そもそも、ビバイルってそんな簡単に入れるの?」

「うん。一つの細胞セルで、三人以上の口添えがあればね」

「細胞?」

「ビバイルの売人プッシャーは、四人構成なんだ。それを細胞って呼んでる。商品を管理している拠点ベースが地区ごとにあって、そこに入れたい奴を紹介すればいい」

「渋谷にも拠点があるの?」

「もちろん。組織幹部と繋がってる、重要拠点の一つだよ」

「組織って?」

「それはいえない。ビバイルの売人でも、知っている奴は殆どいないんだ」

 誰かが聞きつけることを畏れるように、楠は声量を下げて囁いた。妙な話だと、優輝は訝しげに首を傾げる。

「拠点で商品を管理してるんでしょ? 売ってる人間が、なんで知らないの?」

「そういうシステムなんだよ。末端が焦げても、親は傷つかないように、情報が規制されている。組織にとってビバイルは、金持ち学生専用の只の売人だ。連中は他にも山ほど売人を抱えていて、客層に合わせて使い分けているんだよ」

「杏里はどうして、そんなに詳しいの?」

「俺が入る細胞は、ちょっと特別でさ」

「増々ヤバそうじゃん……それさぁ、一度入ったら、抜けられないんじゃないの?」

「ヤバいと思ったら逃げるさ。俺、勉強も労働も嫌いだし、こいつは運命を変えるチャンスなんだ。ユッキーも一緒にどう?」

「嫌だよ」

 盛大に顔をしかめる優輝を見て、楠は悪だくみするように、にやりと笑った。

「歩合制だけど、商品を運ぶだけでも金もらえるんだぜ?」

「俺はやらないよ」

 真っ直ぐ眼を見て応えると、楠は茶化すのをやめて肩をすくめた。

「まぁ、断るだろうなって判ってた。眞鍋君がユッキーを誘えってしつこいから、一応声をかけたんだけど」

「誰? 友達?」

 小鼻に胡乱げな皺を寄せると、楠は露骨に嫌そうな顔をした。

「あんなイカれた奴、友達でもなんでもねぇよ……といいつつ、そいつの細胞に入る俺なんだけど」

「その眞鍋って奴が、どうして俺を誘えっていうわけ?」

「そりゃ、ユッキーが木下遊貴のお気に入りだからでしょ。今やちょっとした時の人だし?」

 思わず呻きそうになり、優輝は額を手で押さえた。

「勘弁してくれ。杏里は大丈夫なの?」

「三商は眞鍋君が仕切ってるし、ビバイルに顔も利くしな。俺は接客旨いから、一目置かれてるよ」

「考え直した方がいいと思うけど……」

「平気だって。気にすんな」

「おい、杏里」

 背中を向ける楠に、優輝は慌てて手を伸ばした

「今の話、マスターにはいってないんだ。内密に頼むな」

「待てよ、杏里!」

 追い駆けなければ、二度と会えない気がした。
 扉まで走ったが、楠は背中を向けたまま手をひらひらと振って、速足でいってしまった。
 看板を見ていた女性客と眼が合い、優輝は仕方なく遠ざかる背中から視線を剥がした。