アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 14 -

 午後になると、サンジャルは張り切ってジュリアスらと共に療養所を訪れた。
 今日こそ神殿祈祷師シャトーマニの助手から話を聞けると期待していたのだが、修道士から報告を聞くなり、出鼻を挫かれてしまった。
「いなくなった?」
 唖然とした顔でサンジャルが訊ねると、修道士も戸惑った様子で頷いた。
「昨晩は確かにいらっしゃったのですが、今朝は御姿が見当たらず……他の者にも探してもらったのですが、行方が判りません」
 慌てて病室を見にいくと、確かにもぬけの殻だった。
 がらんとした空間を見て、サンジャルは寒気を覚えた。勘違いであってほしいが、彼の身にいよいよ何か・・が起きてしまったのではないだろうか?
 彼の安否もることながら、唯一の重要参考人を失う懸念もある。昨晩は無事でいたのかと思うと、余計にやりきれなかった。
「身元が判っただけでも、大きな手柄だ。彼がどうやってここへきたのか、誰か見ている人はいないか、調べることは多いぞ」
 ハイラートの分厚い手が、励ますようにサンジャルの肩を叩くが、すぐには気落ちした状態を脱することができなかった。
 一瞬、沈黙が流れる。
「花切り鋏がありませんね」
 ふいにジュリアスが呟くと、全員の目が集まった。
「慰問した時は、この花瓶にだいだい色の扶郎花ふろうかが活けてあり、横に鋏が置いてありました。鏡にも映っていたものです」
 壁を背に設置された卓に、瑠璃色の花瓶が置かれている。今は花は活けられておらず、壁には例の丸鏡を外した跡があった。
「……本当に、よく覚えていらっしゃいますね」
 仔細な説明から想像していた通りの景だったので、ハイラートは畏敬の念に打たれたようにいった。
 まさしく映写機を超える視覚的記憶力だ。感動すら覚えるが、本人は無感動に犀利さいりな洞察力を発揮している。
 玲瓏れいろうな横顔に魅入っていると、目があった。
「ごく普通の黒い花切り鋏ですが、鏡に映っていた点が気になります。今どこにあるのか、確認してみてください」
 躰に電流が流れた心地でハイラートが頷くと、ジュリアスは、窓の向こうに広がる鬱蒼とした森に目をやった。
「ここにいた患者は、歩行は可能ですか?」
「はい、恐らく。少なくとも、身体的な問題はないそうです。虚脱状態であっても、修道士の補助があれば、足を動かして歩いていたそうですから」
 顔をあげたサンジャルが答えると、ジュリアスは顎に手をやり、森を見据えたまま口を開いた。
「昨晩まで病室にいたのなら、そう遠くない範囲で痕跡を見つけられるかもしれません」
「探してみましょう。応援を呼びます」
 ハイラートは即答した。
 間もなく招集された二十名を超える捜査隊員たちは、療養所とその周辺をの目たかの目で探した。
 数刻のうちに、湿った樹皮と濡れた腐葉土の漂う森のなか、薄汚れた貫頭衣を見つけた。療養所が患者に支給したものだ。
 ジュリアスは数秒ほど貫頭衣を眺めおろしてから、背後に聳える療養所に瞳を巡らせた。療養所からほとんど直線上にある。
「……茨に衣の端切れが残っています。大きな歩幅から、慎重に歩いていたとは思えません。急いでやってきて、ここで息絶えたのでしょう」
 ナディアも地面に残された貫頭衣を見つめながら頷いた。
「ここへくる必要があって急いでいたのか……あるいは逃げてきたのでしょうか」
「逃げてきた?」
 ヤシュムが鸚鵡返しに訊ねると、ナディアは顔をあげた。
「魂を刈り取る悪魔、もしくは呪いからです。あの病室には、」
「やめろ、いうな!」
 いきなり顔面蒼白になったヤシュムは、強引に遮った。
 じゃあなんで訊いた? と、ナディアは一瞬胸に思ったが、あらわにはせず、ジュリアスを振り向いた。
「慌てていた理由は何だと思いますか?」
 その問いにジュリアスが答えようとした時、奥から声があがった。
「別の貫頭衣が見つかりました!」
 茂みに分け入ったハイラートは、その衣を見て顔を歪めた。
 先ほどのものより劣化が酷い。元は無垢な白であったと思われるが、泥に塗れて、焦茶色に変色してしまっている。
「ピルヨムのものか?」
 感情を押し殺した声で訊ねた。
「そのようです。名札も一緒に落ちていました。神殿に連絡して、検魂鑑識を手配いたします」
 鑑識を行えば、彼の生死が明らかになる。
 だが、この場にいあわせた全員が、彼の死を確信していた。ピルヨムは療養所を飛びだして、森を彷徨い……ここで息絶えたのだ。
 束の間、彼等は静かな沈黙を捧げた。
 森閑しんかんとした松林の奥深くで、ふくろうだけが一羽不気味に啼いている。
「本部に戻りましょう。情報を整理したい」
 ややしてジュリアスがいうと、捜査班の面々は従う素振りを見せた。
「先にお戻りください。私は、ピルヨムの母親に知らせなければなりません」
 ハイラートは悄然しょうぜんとした様子でいった。
 幾つもの悲しげな視線がハイラートに寄せられる。辛い役目だが、彼の責務だった。ジュリアスらも思い遣りのこもった視線で黙礼し、去っていく。
「お供いたします」
 その場に残ったサンジャルは静かにいった。彼はピルヨムの同期で、仲も良かった。その心中を察して、ハイラートも黙って頷いた。
 陽が傾き始めた頃、ハイラートとサンジャルは現場を撤収し、その脚でサミーラの家に向かった。道すがら、互いにほとんど言葉は交わさなかった。
 幾度経験しても、こればかりは慣れない。一歩が重く、憂鬱で、苦しい。死を覚える過酷な任務よりも、辛い任務だった。
 玄関扉を叩いて間もなく、戸口にサミーラの娘、サンジョラが顕れた。男たちの硬い表情を見て、眉宇びうを曇らせる。
「母を呼んで参ります」
 サンジョラは会釈してから奥へひっこむと、間もなくサミーラを呼んで戻ってきた。
 やつれた面輪おもわのサミーラは、ハイラートの表情を見るなり、全てを察したように口を手で覆った。
「……療養所の裏の森で、ピルヨムの名札と貫頭衣が見つかりました」
 力なくハイラートが告げると、彼女は声をつまらせた。
「……あの子の……っ」
「サミーラ、すまない。こんな知らせで、私も本当に残念だよ」
「いいえ、判っていたのです、最後に会いにきてくれたから……っ」
 両手に顔をしずめて泣き崩れるサミーラの背中を、娘のサンジョラが撫でさする。母親を慰めながら、彼女は涙に濡れた目でハイラートを仰ぎ見た。わずかに躊躇うように息をつぎ、それから遠慮がちに訊ねた。
「兄は、誰かに……殺されたのでしょうか?」
「判らないが、病気や自死でないことだけは確かだ。同室の男の衣類も、近くの森で見つかった。何か恐ろしいものから、逃げていたようにも見えたが、はっきりしない。だが必ず突き止めてみせる」
「ああぁぁ……っ」
 母親の、身を引き裂かれるような歔欷きょきが大きくなる。
 ハイラートはかける言葉が見つからなかった。どんな慰めの言葉も、上滑りすると判っていた。
 諦めるのはまだ早い――
 まじめくさった顔でよくもそんな言葉をかけれたものだ。浅慮にもほどがある。無責任に希望を抱かせて、結局悲しませているのだから性質たちが悪い。聖都憲兵隊の支部長と呼ばれていたって、彼女にしてやれることが何もない。ピルヨムを家族のもとに帰してやれなかった。
 悲しみの煉獄れんごくのなか、痛いほどの無力感を噛み締めながら、サンジャルもまた泣き崩れる母娘を見守っていた。じっと黙って、拳を硬く握りしめて。

 その晩はとても眠れなかった。
 明かりを消して目を閉じても、瞼の奥に泣き崩れる母娘の姿が焼きついて離れない。鼓膜に啾々しゅうしゅうと咽ぶ声が残っている。
 ――悔いても仕方あるまい。
 そう自分にいい聞かせても、今日という日は身に堪えた。ハイラートとサミーラが話している横で、自分は馬鹿みたいに棒立ちでいることしかできなかった。
 もっとできることがあったはずだ。こんな結末を迎える前に、もっと他にすべきことがあったはずだ。
 あの男にしても、面会の場を設けさえすれば良いと思いこみ、事情聴取を怠ってしまった。彼が消えた時、手掛かりの全てが灰燼かいじんに帰すのだという、危機感が足りていなかった。
 全てが遅い。
 もっと早く事態に気がついていれば。もっと早く療養所を訊ねていれば。もっと早くピルヨムの異変に気がついていれば、彼を助けてやれたかもしれないのに――忸怩じくじたる思いに取り憑かれ、空が白み始めるまで寝台のうえで輾転てんてんとしていた。