アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 12 -

 聖都憲兵隊本部の特捜班調査室にジュリアスが入ると、ナディアを含め、数人が待ち構えていたように近づいてきた。
「お早うございます。幾つか気になる記録を見つけたので、ご覧になっていただけますか?」
 と、ナディアは二つの書類を差しだした。
「これは?」
「過去に起きた神殿祈祷師シャトーマニの、正式に失踪と認められた事例です」
 それぞれ八年前と十五年前の記録で、いずれも見出しに魂の巡礼と記されている。
 ジュリアスが目を注いでいると、ヤシュムも近づいてきて一緒に覗きこみ、感心した様子でいった。
「十五年前の記録なんか、よく残っていたな」
「もっと古い資料もありますよ。あまり遡ると、整理表記が今とは異なるので、探すのに苦労しますが」
「なんだ、“墓所”に籠もっていたのか? 姿を見ないから、お前まで失踪したのかと思ったぞ」
「……ええ、まぁ」
 ナディアは苦笑いで肯定した。
 地下にある広大な書庫には、おびただしい数の軍事資料が保管されている。極めて重要な施設だが、光が射さないことから、軍事関係者からはあなぐらだの墓所だのと呼ばれていた。
「だがまぁ、魂の巡礼なら事件ってわけでもなさそうだな」
「ええ、珍しいですが起こりえる話ですね」
 ヤシュムの言葉にジュリアスも相槌を打った。
 祈祷師マニが悟りの深淵を求めて姿を消すことは稀にある話で、そのまま戻らぬ人となっても、魂の巡礼を宣告している場合は、事件としては扱われず、死因や鑑識は行われないのだ。
「こちらをご覧ください。鑑識記録の方は、過去一年間の百二十八件を確認しましたが、いずれも失踪に繋がるようなものではありませんでした。そのうち、神殿祈祷師シャトーマニによる公開審問は三回行われています」
 ジュリアスは渡された書面に素早く目を注いだ。高額盗難がらみが一件、あとの二つは血縁の怨恨によるもので、いずれも原因と結果が明らかにされている。
「今回の件とは関係なさそうですね。引き続き、調べていただけますか?」
 ジュリアスは書類を閉じるとナディアに戻した。
「はい。ただ、少し時間がかりそうです。手伝っていただけると助かるのですが……」
 ナディアに期待の眼差しを向けられたヤシュムは、音速で視線をそらし、ハイラートを見つけるや勝鬨かちどきのように手を掲げた。
「おお、ハイラート! どこへいくんだ?」
「はっ。これからオセロ石切場に事情聴取にいって参ります」
「俺も一緒にいくぞ!」
「……はっ」
 ハイラートはちょっと面食らって答えた。
「いくぞ!!」
 やや困惑のていで、ハイラートは先導するヤシュムに続いた。そのままヤシュムは振り返りもせず、騒々しく意気揚々ようようといってしまった。
「……では、引き続き調べてみます。進展がありましたら、またご報告いたします」
 残されたナディアが健気に答えると、ジュリアスはいたわりの気持ちで彼の肩に手を置いた。
「憲兵に協力してもらうと良いでしょう」
「そういたします」
 ナディアがジュリアスの前から立ち去ると、また別の者が報告にやってきた。その者と話が済むと、また別の者がやってくる。
 一通り聞き終えて指示をだすと、今度は指揮官会議に列席した。文化展予行演習についてアーヒムから報告を受け、これから拠点視察に赴くアルスラン、そしてジャファールとも話をした。
 夕闇が迫る頃、再び本部に戻る前に、クロガネ隊の工房に顔をだすことにした。光希に一目会いたいと思ったのだが、余計な先客がいた。
 作業机の前に、なぜかアースレイヤがいる。ジュリアスは不快感を覚えながら、まっすぐ彼の方へ近づいていった。
「ここで何をしているのですか?」
 冷淡な口調で訊ねる。
「おやおや……休憩がてら、発注した燭台の様子を見にきたのですよ。完成が楽しみですねぇ」
 振り向いたアースレイヤは、ジュリアスに笑みかけてから、再び作業台に視線を落とした。作成中の燭台がずらりと並んでいる。
 この場所でくつろいだ様子を見せるアースレイヤに、ジュリアスの苛立ちは増したが、近づいてくる光希を見て態度を改めた。
「ジュリ! どうしたの?」
 満面の笑みを浮かべて光希はいった。
「こんにちは。様子を見にきました」
「ちょうど良かった! 休憩しようと思っていたんだよ。一緒にお茶でも飲んでいく?」
 光希がにこやかに誘うと、耳をそばだてていた周囲の同僚たちが、おっ? という顔でそわそわし始めた。ノーアは手袋をはずして、給仕の準備を始めようとしている。
 ジュリアスは苦笑を浮かべながら、頸を横にふった。
「せっかくですが、すぐに戻らなくては。貴方の顔を見に寄っただけなので」
「そっかぁ」
 光希は照れたような、がっかりしたような、複雑な表情で頷いた。
「残念ですね。せっかく殿下が誘ってくださったのに。私はまだ時間があるので、お茶をいただこうかな」
 横から割って入ったアースレイヤが笑顔でいうと、ジュリアスは遠慮の欠片もない冷笑を向けた。
「貴方の休憩は今終わりました。戻られてはいかがですか?」
「おやおや、随分と冷たいじゃありませんか。そんなに私が邪魔ですか?」
 白刃の耀きを宿した碧眼に睨まれても、アースレイヤはどこ吹く風だ。
「……おやおや、ご存知ではないのですか?」
 ジュリアスは嘲弄ちょうろうめいた口調で訊ねると、さらにこう続けた。
「なら教えてさしあげますが、貴方は砂漠の砂嵐です。商隊キャラバンを襲うクラシャムナン財団です。行く手を阻むサルビア軍の重騎兵隊です」
 酷い例えように、光希は口元を引きつらせた。もはや宿敵ではないか。いと高貴なこの国の皇太子に対して不敬の極みだが、アースレイヤは声にだして笑った。彼にとっては、追従ついしょうよりよほど当意即妙な打ち返しだった。
「なかなか気のきいた洒落ですね」
「そうですね」
 と、ジュリアスは今度も皮肉のきいた賛成の意をしめして、不本意ながらアースレイヤを微笑させた。
「ふふ……心配しなくてもそろそろ戻りますよ。捜査の方は順調ですか?」
「順調ですよ。サリヴァンにも協力してもらいます」
「それは重畳ちょうじょう。引き続き、よろしくお願いしますね」
 そういって皇太子は、軽やかに手を閃かせて工房を去っていった。
 ふたりのやりとりを、光希はずっと楽しそうな様子で見ていた。
「あはは……確かに、ちょっとした嵐みたいだったね」
 にこにこしている光希を見て、ジュリアスも微笑を禁じ得なかった。ようやく邪魔者も消えたことだし、今こそ彼を両腕で抱きしめてくちづけたいと思ったが、衆目があるので頬を撫でることがせいぜいだった。
「……では、もういきますね」
 全く。貴重な癒やしの時間が、アースレイヤのせいで無駄に削られてしまった。
「気をつけてね」
「ええ、また後で」
 名残惜しい気持ちを断ち切り、ジュリアスは踵を返した。
 部屋をでて少し歩いたところで、口笛を吹く音が聴こえてきた。光希が何やら喚いている。
 思わずジュリアスは口元を綻ばせた。光希が長く在籍していることもあり、クロガネ隊の雰囲気は明るく、独特だ。彼等は崇敬の対象だからと距離をおかず、ごく自然な敬慕をもって光希に接している。
 それは光希にとって、恐らくジュリアスにとっても、喜ばしいことだった。

 あくる日の夜。
 閲兵えっぺいと執務を終えたジュリアスは、聖都憲兵隊本部に向かう途中で足を止めた。
 頭上で羽ばたく音が聞こえる。ジュリアスの放った鷹だ。口笛を吹くと、黒い影はくるりと旋回し、こちらに向かって滑空してくる。
 腕をさしだすと、器用に翼を折りたたんでとまった。
 足首の筒から手紙をとりだすと、サリヴァンの直筆で次のことがしたためられていた。
 あと二日ほどでアッサラームへ戻ること。すぐに霊顕れいけん審問――いわゆる公開で行われる霊的、或いは摩訶不思議な現象を明らかにするための審問――を執り行うこと。
「……ありがとう」
 鷹の羽をそっと撫でると、頸を傾ける親愛の仕草をしめした。成人と共に雛から育て、爾来じらい方方へ伝達してくれる友である。
 部下に餌と文を指示すると、今度こそ本部に向かった。
 部屋にはまだ明かりが点いており、ヤシュムが声をかけてきた。
「総大将、お戻りですか」
「ええ、そちらも。いかがでしたか?」
「ハイラートとマルタイ納材会社にいってきましたよ」
 ナディアとハイラートも机の傍に集まってきた。ヤシュムは調書を二人の前に拡げて見せた。
 マルタイ納材会社では、今年に入ってから二人、オセロ石切場も三人が失踪している。
 いずれも二十代から三十代の健康な男で、病気の兆候はなかったという。借金や同僚や隣人との揉め事もなし。家族を養っており、仕事を投げだす理由もない。
「お気の毒に」
 ナディアの言葉に、ヤシュムも重々しい表情で頷いた。
「全くだ。家族を養っている者ばかりだ。かわいそうに……今度、組合関係者で鎮魂儀式を行うようです」
「いつですか?」
 ジュリアスが訊ねた。
「五月五日だそうです」
供犠くぎは何を捧げるのですか?」
 ヤシュムは、なんだっけ? といいたげにハイラートを見た。
「豊穣の五穀と葡萄酒、それから羚羊れいようの血肉だとか」
 真面目なハイラートがヤシュムに代わって答えると、ジュリアスは思案げに頷いた。
 どれも一般的なものだが、時期が時期なだけに、生き血という言葉が妙に耳に残る。アースレイヤも懸念していたが、祈祷師マニにとどまらず、民草までもが贄の儀式を執り行なおうとしている。露を祓うための儀式というよりは、凶兆のように感じてしまう。
「参列者について調べて頂けますか?」
 ジュリアスの言葉に、ハイラートは如才なく頷いた。
「サンジャルの方はどうだ?」
 ヤシュムが訊ねると、サンジャルは居住まいを正した。
「療養所の男の身元が判りました。鋳物いもの屋に派遣された神殿祈祷師シャトーマニの助手だそうです」
「本人が話したのですか?」
「いえ、彼を知る者が偶々療養所にきておりまして、話を聞くことができました」
 それは全く幸運な偶然だった。サンジャルは療養所の男の姿絵をもとに、民間の祈祷師マニを訊ねて回ったのだが、アッサラームで腕のたつ専門家は、ことごとく謎の体調不良をきたして店の看板をおろしているのだ。
 情報収集に苦慮するなか、療養所に偶々居あわせた植木屋の男が、記憶喪失の男と同じ地区に住んでいるようで、顔見知りだったのである。
「よく調べてくれました。事情を聞けそうですか?」
 サンジャルは残念でならないというように、頸を振った。
「それが、まるで廃人でして。修道士の話では、療養所に運ばれてから一度も喋っていないそうです。自分が誰かも判らない様子で……植木屋の男がいうには、普段は朗らかな人柄だそうですが」
 ほぼ毎日面会しているが、情報を引きだすどころか、声を聞くことすら叶わずにいる。
 生気の感じられない瞳を見る度に、ぞっと背筋が冷たくなる。昏い、動かない、生きながら死んでいるような目。
 一体彼の身に何があったのだろう? どのような経験をすれば、あのような目になるのだろう?
 判らない――何か目には見えぬ悪しきものに蝕まれているような気がする。
「彼はもう、長くはもたない・・・・かもしれません」
 サンジャルが苦い顔でいうと、ジュリアスは思案するように瞬きした。
「判りました。明日は私も同行させてください。朝は霊顕れいけん審問があるので、午後になりますが」
「承知いたしました」
 サンジャルは感謝の意をこめて、敬礼で応えた。