アッサラーム夜想曲

幾千夜に捧ぐ恋歌 - 9 -

 夜が溶けていく。
 空が白み始める頃になっても、二人とも眠らずにいた。
 眠ったら、この奇跡のような時間が終わってしまう気がして、ぽつぽつ、とりとめのない話を続けている。
 ふと流れた沈黙に見つめあっていると、ジュリアスは陶然とした表情で唇を開いた。
「……黒水晶のような瞳ですね。いつまでも映っていたい」
 恋情をのせた言葉に光希はほほえんだ。
「ジュリの瞳も綺麗だよ。透き通った空を映しているみたい。この髪も……」
 柔らかな金髪を指で梳くと、ジュリアスはくすぐったそうに目を細めた。
黄金こがね色は、僕にとってジュリの色なんだ。アッサラームの遥かな尖塔や、斜陽に染まる街並みでもなく、ジュリの風に靡く金髪を連想する」
 少し臭い台詞だったかなと思ったが、ジュリアスは感動した様子で頬を染めていた。
「ありがとうございます。コーキにそんな風にいってもらえるなんて、とても光栄です。恋歌のようだ」
 くすぐったそうに笑うジュリアスを見て、光希もほほえんだ。
「そうだよ。ジュリを想って書いたんだ」
 期待に輝く瞳を見て、光希は逡巡した。
 本人の前で詩を詠むのはいささか恥ずかしいが、喜んでほしい気持ちの方が強くて、小さく咳払いをした。
「……夜闇に包まれても、ジャスミンと金香木チャンパックが、帰り道を教えてくれる」
 光希が詠み始めると、ジュリアスは目をきらきらさせて耳を傾けた。
「夢から醒めても、全身を黄金色きんいろの光輝に包まれる」
 帰る場所も眠る場所も、一つだけ。
「深淵に落ちても、稲妻が闇を切り裂いて、遥かな蒼穹を運んでくる。
 私をすくいあげる者よ。
 あけの明星のように、砂漠に沁みいる雨滴のように、優しい楽器の調べのように――
 天に浮かぶ青い星が過ぎた日を語りかけてきても、私には、蒼闇に浮かぶ黄金色が貴いのです」
 艶やかな髪を指で梳きながら、光希は目を細めた。
 開いた窓から入ってくる星明かりに照らされ、金糸の髪は神秘的に煌めいている。
「そこに輝く光は、昏れゆく年が迫っても、私の心を潤す清新の泉でしょう」
 朗読会で歌った詩をそらんじ終えると、ジュリアスは双眸を潤ませた。
「……どこにいても、私の傍に戻ってきてくださいますか?」
「傍にいてくれないとやだよ。僕をアッサラームに呼んだのは、ジュリなんだから」
 唇に触れるだけのキスを贈ると、たまらない、といったようにジュリアスは光希を抱きしめた。
 温かい。
 いつまでもこうしていたい……だけど、奇跡のような邂逅が終わろうとしている。
 隙間なく抱きしめあいながら、時の大河によって引き離されていくのを感じた。
 優しく切ない、揺り籠のような眠りに誘われて、意識は曖昧模糊あいまいもこに霞んでいく。
 互いに別れの時を察して、見つめあった。
「……こんなに幸せなのに、夢だなんて」
「うん……」
「私がコーキの泉であるなら、コーキは私を潤すオアシスです。貴方との永遠が欲しい」
「……」
「ここにいるのに。触れて、感じて、名を呼んでもらえるのに、これが、夢だなんて」
 切ない声に心が震える。心臓をぎゅっと鷲掴まれたみたいに胸が痛む。
「絶対、また会えるから」
 宝石のような青い瞳に、熾火が灯る。光彩を帯びて、薄闇のなかで輝いた。
「いかないで」
「ごめんね……」
「いかないでください」
 かける言葉が見つからなかった。言葉の代わりに頬を優しく撫でると、ジュリアスは潤んだ瞳で光希を見つめた。懸命に、自分を落ち着かせようとする姿に胸が潰れそうになる。衝動的に抱きしめると、ジュリアスも震える手でしがみついてきた。
「このまま、時が止まればいいのにッ」
「信じて。僕たちは必ずまた会えるんだ」
「コーキ……」
「もう眠って。大丈夫。目が醒めたら、いつもと同じように朝が始まるよ」
 秀でた額に優しい口づけを落とすと、ジュリアスは力なく首を振った。
「貴方を知り、運命が定まりました。霊魂不滅の啓示を、この身に刻んだのです。夜が明けても、私はきっとてしない渇望に苛まれるでしょう」
 哀切と諦念の入り混じった声に、光希も表情を曇らせた。
「待っているから。僕を探して。辛くても……諦めないで、僕を探してね」
 涙に濡れた瞳の縁にそっと口づけると、ジュリアスは歯を食いしばって光希を見つめた。宝石のような青い瞳は、涙で潤んでいる。
「探します、幾千の夜を越えても、必ず、貴方を見つけてみせるッ!!」
 こぼれ落ちる涙を、光希は優しく指でぬぐった。
「うん、待ってるね」
「必ず……! 次に出会えた時は、もう絶対に離しません。必ず貴方と添い遂げてみせる。だから、どうか待っていて……ッ」
「大好きだよ、ジュリ。僕の英雄。大切な人。たった一人の、最初で最後の恋人。未来で待ってる」
 重ねた唇は、涙で濡れていた。
 胸が張り裂けそうだった。身体を二つに裂かれるような苦しみを堪えて、震える手を離す――遠い時の向こうで、待っている人がいるから。