アッサラーム夜想曲
クロガネの応援歌 - 2 -
クロッカス邸。真夜中。朝課の鐘が鳴る頃。
工房に籠ったままでてこない光希を心配して、ジュリアスは様子を見にいった。
扉をノックすると返事が聞こえたので、なかに入ると、光希は背を丸めて手元の作業に没頭していた。
「まだ起きているのですか?」
背中に声をかけると、光希は手を休めて振り向いた。
「もう寝る?」
机の傍に近づいたジュリアスは、光希の手元を覗きこんだ。小さな部品が幾つも散らばっている。
「何を作っているのですか?」
「ちょっと復習というか、明日の準備をしていただけ」
「復習?」
「うん。新人に教育がてら簡単な受注を任せているんだけど、鏨 の扱いに難航していたから、制作工程のお手本を用意してみようと思って」
鉄 の指南書もあることにはあるが、基本的な知識の羅列に過ぎず、実際の受注ではあまり役に立たないのだ。
目まぐるしく受注の舞いこむクロガネ隊では、技術の伝達は殆ど口伝でなされる。
特に光希は、ほぼ独学で研鑽を積んできた。
言葉に不自由していたこともあり、説明を受けるよりも、とにかく人の作品を眺めて、手元を覗きこみ、制作工程を盗み見ながら成長してきたのだ。
今でこそ一人で受注をこなしているが、決して楽な道のりではなかった。
「なるほど。具体的な手本があれば、下の者は学びやすいでしょうね」
「うん、僕もそう思って。いやぁ、人に教えるのって難しいね」
腕を組んで唸る光希を見下ろして、ジュリアスは頷いた。
「判ります。私も、自分にとって当たり前のことが、他の者には当てはまらないということを理解するのに、先ず時間がかかりました」
「軍のお仕事?」
「はい。初めて小隊の指揮を執った時、味方の動きの悪さに驚きました。なぜ、視野が狭いのか、逐一機動の判断が遅れるのか、不思議でなりませんでしたよ」
淡々と告げるジュリアスを仰いで、光希は苦笑いを浮かべた。
「……そりゃぁ、ジュリと比べたら、他の人がかわいそうだよ」
「神力の優劣に関わらず、個々の努力の怠慢に映ったのです。実際はあらゆる要因があったのですが、その時は少々手厳しく指摘してしまい、味方を余計に委縮させてしまいました」
彼を基準にして周囲を評価するのは、あまりにも酷であろう。光希は苦笑いを浮かべてジュリアスを見た。
「まぁ、誰にでも失敗はあるよね」
「人には得手不得手があると知り、要所を押さえて人に任せるようになってから、大分変わりました。指導も、今では得意とする者が務めています。尤も私より厳しいかもしれませんが」
「なるほどねぇ……人を上手に使うって、一つの才能だよね。その点において、僕はアルシャッド先輩に遥かに及ばないな」
いかな修羅場であっても、彼の穏やかな態度は一貫している。仕事の不手際を見つけようとも、不機嫌を表にださず、苛立ちを人にぶつけることもない。
類稀な才能に恵まれながら、少しも奢ったところがなく、手が空けば新人に混じって雑事もこなす。
彼は、どんな状況でもよく人を見ている。
どれだけの受注が舞いこみ、誰の手が空いていて、誰が苦戦しているのか。
個人技も神の領域だが、全体最適で動ける彼の総合能力の高さには、感服せずにはいられない。
「充実しているようですが、困ったことはありませんか?」
ジュリアスの言葉に、光希はほほえんだ。
「ん、平気。忙しいけど、楽しいよ」
新人教育は良い刺激になっている。仕事に張りあいが生まれて、創作意欲も掻きたてられている。
「でも、ほどほどにね。もう休みましょう」
後ろから抱きしめられて、光希は肩から力を抜いた。
工房に籠ると、つい時間を忘れてしまう。きりの良いところまで進んだし、今夜はもういいだろう。
「そうする。ありがとう」
席を立ってジュリアスに抱きつくと、笑いながら抱きしめ返してくれた。優しいジュリアス。一日の終わりに彼が労ってくれると、不思議なほど明日も頑張ろうと思える。
しかし――
その後も、三人の教育に頭を悩ませる日々が続いた。
ノーアの失敗が続くうちに、彼の落ちこみようは目に見えて酷くなっていった。周りが気遣う言葉をかけても、無理して笑顔を鎧 い、頑なに一人でやり遂げようとするのだ。
やっきになって鏨を打つノーアの姿は、少し前の光希を思いださせた。
かつて、鉄 に神力を思うように宿せず、倒れるほど思いつめたことがある。あの時味わった苦しみは、今も忘れていない。
業務終了後の工房。
鉄 の端切れを鞄に入れているノーアを見かけて、光希は思わず声をかけた。
「ノーア、ちょっと待って」
「殿下!」
肩を撥ねさせたノーアは、視界に光希を認めると罰の悪い表情を浮かべた。
「軍舎に戻った後も、練習しているの?」
「……はい、照明を点けていられる間は」
「きちんと休んでいる?」
「はい……」
力なく、警戒気味に返事するノーアを見て、光希は内心で息を吐いた。この分だと、碌に睡眠を取っていないのだろう。
「無理をし過ぎないようにね。疲れが取れなければ、鉄 も綺麗に響かないよ」
「はい、申し訳ありません」
叱られたと思ったのか、ノーアの声は沈んだ。絞りだすような謝罪を聞いて、光希は歯痒い念に駆られた。
彼の苦悩が判る。そして、あの時のアルシャッド達の気持ちが、今こそ判る。
どうにかしてやりたいが、これは彼が自分で乗り越えねばならないことだ。
数日後。
朝一の工房で、光希は三人の進捗を確認していた。
やはり、三人の中ではノーアが一番遅れている。見落としているのか、手つかずの案件も一つあるようだ。騎馬隊の訓練武具の修繕といった、さほど難しい内容ではない。ただ、納期が三日後に迫っている。
(さて、どうしたものか……)
今朝も早くから工房で精をだしているノーアの姿を見、光希は手にした発注書に再び眼を落とした。
彼の怠慢でないことは、判っている。ノーアは今、いっぱいいっぱいなのだ。
いいや、代わりにやっておこう――ノーアの苦戦ぶりを見て、光希は彼の発注書の確認漏れを指摘しなかった。
とはいえ、日中は光希も別件で立てこんでいる。
加工班は今、義手制作に総力を挙げて取り組んでおり、光希とアルシャッドは中心的役割を担っていた。
日中は義手制作と教育指導がある為、独りでできる作業は後回しにせざるをえない。
工房で残業すると周囲に気を遣わせてしまう為、光希は仕事を屋敷に持ち帰るようになった。
作業に没頭していた光希は、手元に影が射すまで、工房にジュリアスが入ってきたことに気がつかなかった。
「――光希?」
「あっ、もうこんな時間か……」
顔をあげた光希は、遠くから聞こえてくる鐘の音に目を瞠った。
時間の経過を意識した途端に、どっと疲労が押し寄せてきて、肩に重荷がのしかかったように感じられた。
「最近、遅くまで起きていますね」
「うん、ちょっと」
探る様な眼差しを向けられて、光希は笑って誤魔化した。
机の上に散らばった発注書の一枚に、ジュリアスは徐 に手を伸ばした。よりによって、ノーアの名前の記されたそれを、光希は慌てて取り返そうとした。
「他の隊員の受注を、どうして光希が?」
「ちょっとね……返して」
「また、無理をしていないでしょうね?」
「してない、してない。返してよ」
発注書を取り返すと、光希はいそいそと鞄にしまった。
「……最近、遅くまで仕事をしているのは、新人の指導が影響しているのですか?」
否定的な気配を読み取り、光希は姿勢を正した。
「無理をしているわけじゃなくて、僕がしたくてしているんだ。教えるのも勉強になるし、僕の為にもなっているよ」
「こんなに疲れた顔をしているのに?」
目元を親指で擦られて、気まずげに光希は視線を逸らした。
「今だけだよ。もう少ししたら、落ち着くと思うから」
「本当に?」
「うん」
「倒れない?」
「倒れません」
澄ました顔で光希がいうと、不満そうな顔をしたものの、ジュリアスもそれ以上はいわなかった。
工房に籠ったままでてこない光希を心配して、ジュリアスは様子を見にいった。
扉をノックすると返事が聞こえたので、なかに入ると、光希は背を丸めて手元の作業に没頭していた。
「まだ起きているのですか?」
背中に声をかけると、光希は手を休めて振り向いた。
「もう寝る?」
机の傍に近づいたジュリアスは、光希の手元を覗きこんだ。小さな部品が幾つも散らばっている。
「何を作っているのですか?」
「ちょっと復習というか、明日の準備をしていただけ」
「復習?」
「うん。新人に教育がてら簡単な受注を任せているんだけど、
目まぐるしく受注の舞いこむクロガネ隊では、技術の伝達は殆ど口伝でなされる。
特に光希は、ほぼ独学で研鑽を積んできた。
言葉に不自由していたこともあり、説明を受けるよりも、とにかく人の作品を眺めて、手元を覗きこみ、制作工程を盗み見ながら成長してきたのだ。
今でこそ一人で受注をこなしているが、決して楽な道のりではなかった。
「なるほど。具体的な手本があれば、下の者は学びやすいでしょうね」
「うん、僕もそう思って。いやぁ、人に教えるのって難しいね」
腕を組んで唸る光希を見下ろして、ジュリアスは頷いた。
「判ります。私も、自分にとって当たり前のことが、他の者には当てはまらないということを理解するのに、先ず時間がかかりました」
「軍のお仕事?」
「はい。初めて小隊の指揮を執った時、味方の動きの悪さに驚きました。なぜ、視野が狭いのか、逐一機動の判断が遅れるのか、不思議でなりませんでしたよ」
淡々と告げるジュリアスを仰いで、光希は苦笑いを浮かべた。
「……そりゃぁ、ジュリと比べたら、他の人がかわいそうだよ」
「神力の優劣に関わらず、個々の努力の怠慢に映ったのです。実際はあらゆる要因があったのですが、その時は少々手厳しく指摘してしまい、味方を余計に委縮させてしまいました」
彼を基準にして周囲を評価するのは、あまりにも酷であろう。光希は苦笑いを浮かべてジュリアスを見た。
「まぁ、誰にでも失敗はあるよね」
「人には得手不得手があると知り、要所を押さえて人に任せるようになってから、大分変わりました。指導も、今では得意とする者が務めています。尤も私より厳しいかもしれませんが」
「なるほどねぇ……人を上手に使うって、一つの才能だよね。その点において、僕はアルシャッド先輩に遥かに及ばないな」
いかな修羅場であっても、彼の穏やかな態度は一貫している。仕事の不手際を見つけようとも、不機嫌を表にださず、苛立ちを人にぶつけることもない。
類稀な才能に恵まれながら、少しも奢ったところがなく、手が空けば新人に混じって雑事もこなす。
彼は、どんな状況でもよく人を見ている。
どれだけの受注が舞いこみ、誰の手が空いていて、誰が苦戦しているのか。
個人技も神の領域だが、全体最適で動ける彼の総合能力の高さには、感服せずにはいられない。
「充実しているようですが、困ったことはありませんか?」
ジュリアスの言葉に、光希はほほえんだ。
「ん、平気。忙しいけど、楽しいよ」
新人教育は良い刺激になっている。仕事に張りあいが生まれて、創作意欲も掻きたてられている。
「でも、ほどほどにね。もう休みましょう」
後ろから抱きしめられて、光希は肩から力を抜いた。
工房に籠ると、つい時間を忘れてしまう。きりの良いところまで進んだし、今夜はもういいだろう。
「そうする。ありがとう」
席を立ってジュリアスに抱きつくと、笑いながら抱きしめ返してくれた。優しいジュリアス。一日の終わりに彼が労ってくれると、不思議なほど明日も頑張ろうと思える。
しかし――
その後も、三人の教育に頭を悩ませる日々が続いた。
ノーアの失敗が続くうちに、彼の落ちこみようは目に見えて酷くなっていった。周りが気遣う言葉をかけても、無理して笑顔を
やっきになって鏨を打つノーアの姿は、少し前の光希を思いださせた。
かつて、
業務終了後の工房。
「ノーア、ちょっと待って」
「殿下!」
肩を撥ねさせたノーアは、視界に光希を認めると罰の悪い表情を浮かべた。
「軍舎に戻った後も、練習しているの?」
「……はい、照明を点けていられる間は」
「きちんと休んでいる?」
「はい……」
力なく、警戒気味に返事するノーアを見て、光希は内心で息を吐いた。この分だと、碌に睡眠を取っていないのだろう。
「無理をし過ぎないようにね。疲れが取れなければ、
「はい、申し訳ありません」
叱られたと思ったのか、ノーアの声は沈んだ。絞りだすような謝罪を聞いて、光希は歯痒い念に駆られた。
彼の苦悩が判る。そして、あの時のアルシャッド達の気持ちが、今こそ判る。
どうにかしてやりたいが、これは彼が自分で乗り越えねばならないことだ。
数日後。
朝一の工房で、光希は三人の進捗を確認していた。
やはり、三人の中ではノーアが一番遅れている。見落としているのか、手つかずの案件も一つあるようだ。騎馬隊の訓練武具の修繕といった、さほど難しい内容ではない。ただ、納期が三日後に迫っている。
(さて、どうしたものか……)
今朝も早くから工房で精をだしているノーアの姿を見、光希は手にした発注書に再び眼を落とした。
彼の怠慢でないことは、判っている。ノーアは今、いっぱいいっぱいなのだ。
いいや、代わりにやっておこう――ノーアの苦戦ぶりを見て、光希は彼の発注書の確認漏れを指摘しなかった。
とはいえ、日中は光希も別件で立てこんでいる。
加工班は今、義手制作に総力を挙げて取り組んでおり、光希とアルシャッドは中心的役割を担っていた。
日中は義手制作と教育指導がある為、独りでできる作業は後回しにせざるをえない。
工房で残業すると周囲に気を遣わせてしまう為、光希は仕事を屋敷に持ち帰るようになった。
作業に没頭していた光希は、手元に影が射すまで、工房にジュリアスが入ってきたことに気がつかなかった。
「――光希?」
「あっ、もうこんな時間か……」
顔をあげた光希は、遠くから聞こえてくる鐘の音に目を瞠った。
時間の経過を意識した途端に、どっと疲労が押し寄せてきて、肩に重荷がのしかかったように感じられた。
「最近、遅くまで起きていますね」
「うん、ちょっと」
探る様な眼差しを向けられて、光希は笑って誤魔化した。
机の上に散らばった発注書の一枚に、ジュリアスは
「他の隊員の受注を、どうして光希が?」
「ちょっとね……返して」
「また、無理をしていないでしょうね?」
「してない、してない。返してよ」
発注書を取り返すと、光希はいそいそと鞄にしまった。
「……最近、遅くまで仕事をしているのは、新人の指導が影響しているのですか?」
否定的な気配を読み取り、光希は姿勢を正した。
「無理をしているわけじゃなくて、僕がしたくてしているんだ。教えるのも勉強になるし、僕の為にもなっているよ」
「こんなに疲れた顔をしているのに?」
目元を親指で擦られて、気まずげに光希は視線を逸らした。
「今だけだよ。もう少ししたら、落ち着くと思うから」
「本当に?」
「うん」
「倒れない?」
「倒れません」
澄ました顔で光希がいうと、不満そうな顔をしたものの、ジュリアスもそれ以上はいわなかった。