アッサラーム夜想曲

幕間 - 4 -

聖戦の終わり

 東の脅威――サルビア軍の侵攻を、アッサラーム軍はバルヘブ西大陸の最東端、スクワド砂漠で迎え撃った。
 それから一年。
 アッサラーム軍は最後の牙城として死力を尽くし剣を振るうも、無尽蔵に湧く不気味なサルビア軍に、戦意を失いつつあった。
 そんな中、転機は訪れる。
 守護神シャイターンの花嫁ロザインが砂漠に降臨し、信心深い兵達の心に希望を灯したのだ。
 花嫁を手にする“宝石持ち”は神格が上がり、心を持ってシャイターンの神力を振るう高位人神として、アッサラームでは崇められていた。
 こうして兵達は息を吹き返し、士気はかつてないほど高まる。
 サルビア軍、十万の兵の総大将はガルトトという。“宝石持ち”の血を引く、知略に長けた名将である。
 対するアッサラーム軍、三万の兵を率いるは、亡き総大将に代わり、ジュリアス、アーヒム、ヤシュムの三大将である。
 アーヒムとヤシュムの二将は、亡総大将に肩を並べる壮年の戦士であり、また旧友でもあった。
 彼等は当初、後から五万の援軍を率いて現れたジュリアスを疎ましく感じていた。亡き友への弔いを胸に各々指揮を執り、陣は乱れ、二万の軍勢を失う。
 しかし、戦神の如しジュリアスの力量を目の当たりにして、次第に態度を改め、花嫁の降臨後は完全にジュリアスの前に膝を折った。

 決戦の時。

 双方、陣は整った。
 砂の対岸に、地平線を覆う赤い軍旗がはためいている。
 全軍並べても三万のアッサラーム軍に対し、開戦から増軍を繰り返し、十万の兵を崩さないサルビア軍との兵力差は歴然であった。
 それでも、兵達の目は死んでいない。
 ジュリアスの胸にも、恐れや敗戦の懸念は欠片も無かった。指先まで神力に満ちている。
 闘志に満ちたアッサラームの獅子達にげきは不要と思うが、アーヒムとヤシュムは軍旗を掲げてジュリアスの後方につくと、視線で“声”を促した。
 ならば。
 一つ頷くと、武装したトゥーリオの腹を蹴って全軍の前を駆けた。後方までよく通るように、声を張る。

「今日こそ決着の時。サルビアの侵攻を砕き、神罰を下そう。勇猛果敢なアッサラームの獅子達よ、黒牙を抜け!」

 オォ――ッ!!
 大気を裂くような、びりびりと鼓膜に響く咆哮が上がる。
 騎馬隊は黒い刃のほこを掲げ、歩兵は黒い刃のサーベルを抜いた。アーヒムとヤシュムが鼓舞するように軍旗を閃かせる。
 対岸のサルビア軍からも闘志を燃やす声が上がった。
 両者睨みあい――ジュリアスが飛竜隊に先制の号令を発すると、十万対三万のアッサラーム防衛戦、最後の火蓋が切って落とされた。
 総大将ガルトトは慎重な人物で、側近の近衛と共に、幾重にも守れた兵の最後方に構えていた。討ち取るには、まさに十万の軍勢を突破しなければならない。
 対してジュリアスは常に先陣を駆ける将で、飛竜隊同士の壮絶な空中戦が始まると、自らわずか千の機動隊を率いて敵陣に切り込んだ。
 敵陣に深く切り込まず、横ばいに兵を散らして数刻。
 檻に閉じ込めるように、敵陣が左右に伸びてきた。囲い込みである。
 頃合いだろう。
 進軍の合図、旗を揚げると、後方待機していたアーヒムとヤシュムがそれぞれ一万の兵を率いて、前のめりになっている敵陣の後ろに回りこみ、これを左右から挟撃きょうげきした。
 ジュリアスの首を狙って布陣は前のめりの状態。自然と最後方に構える総大将ガルトトは、自軍と引き離されて孤立していた。そこへ更に千ずつに小分けした騎馬隊を送り込み、一気に“王手”をかける。
 ところが、総大将ガルトトは増軍を後方から呼び込み、更に退却する。
 援軍のからくりは、この一年で読めていた。
 永らく中立でいたバルヘブ中央大陸の蛮族達が、サルビアについたのだ。
 サルビア軍は東から渡ってきているわけではなく、中央大陸に拠点を設けて、最短でこの戦場に駆けつける確実な行路を確保しているに違いない。
 アッサラームがこうまで追い詰められた最たる原因は、それほど大規模な軍事情勢を、開戦するまで気づけなかったことにある。
 陸続きの蛮族達とは常に争いが絶えぬ為、アッサラームの参謀は味方につけるなど考えたこともなく、またサルビアがそれを成し遂げるとは露程も考えていなかった。

(アッサラーム生存の活路は、拠点の制圧以外にない)

 ジュリアスが自ら囮役であるように、敵の総大将ガルトトもまた拠点をくらます為の囮役なのだ。衝突の度に、後方に構えては姿を晒す。
 そうと気づきながら、中央大陸の拠点に攻め込めずにいたには理由がある。
 中央不可侵、スクワド砂漠防衛というアースレイヤ皇太子の命令に背く権力を、ジュリアスが有しておらず、アーヒム、ヤシュムが承服しなかったのである。
 しかし、花嫁を手にした今、ジュリアスの階位は皇帝に次ぐ神剣闘士アンカラクスとなり、権力の上でアースレイヤ皇太子を越えた。
 ついに、拠点制圧の策に二将は頷いたのだ。
 空を制する最大火力――飛竜隊を目先の布陣に仕掛けるのではなく、中央大陸の拠点制圧に向けて動かす。
 この作戦の要を、ジャファール、ナディアの二名に任せていた。いずれもジュリアスの側近である。
 総大将ガルトトは驚きに目を瞠るだろう。開戦からずっと中央に仕掛けずにきたのに、ここへきて突然不可侵を破るのだから。
 しかし、空に火力を欠く分、地上に被害が及ぶ。
 空中戦で負けが見え始めた。
 敵の飛竜隊により、遥か頭上から油樽が投げられ火矢を放たれる。瞬く間に辺り一面炎の海に包まれ、赫灼かくしゃくたる赤に、孤立した部隊は飲みこまれた。苦痛の断末魔が大気を揺るがす。

「シャイターン! お下がりくださいッ!」

 立ちはだかる火の壁を前に、側近が声を張り上げた。

「引いても活路はない! 進め!」

 砂を抉るように、青い雷を叩きつけた。巻き上がる砂塵で炎が弱まると、一気に敵陣を進む。
 トゥーリオはいかなる戦場も恐れない、誇り高い黒獣だ。燃え盛る炎を飛び越え、単騎で総大将ガルトトに迫った。
 知略に長ける軍将なので、決闘は避けると思いきや、目前に迫るジュリアスを睨みつけ動かなかった。

「決着をつけよう」

 ジュリアスの呼びかけにガルトトは応じた。止める側近の声を無視して、単騎で前に出る。
 敵の総大将を間近に見るのは初めてだ。年は三十後半だろうか。武装していても、鍛え抜いた体躯の戦士であると判る。
 それでも一対一で負ける気はしない。向こうも気迫は同じ。ガルトトは、不敵な笑みを浮かべた。

「お見事。背後を取られるとは思わなかった。しかし単騎で乗りこむとは、シャイターンの御子は勇猛なのか、浅慮なのか」

「剣を交えれば判ること」

「いかにも」

 鋼が閃き、火花が散った。
 巨大な鋼を、ジュリアスはしなやかな流線で受け流す。速剣はアッサラームの型の基本である。
 剣戟けんげきが激しさを増すにつれて、ジュリアスの速度にガルトトは遅れを取るようになった。
 青い炎が剣に宿る。
 最期の一閃は、彼は視界に捉えることすらできなかった。
 大将同士の一騎打ちで、ジュリアスは見事敵将の首を跳ね飛ばした!
 自軍から歓声の声が上がり、敵軍からは怨嗟の咆哮が上がる。
 将の首を取った後は、殲滅戦へと移行した。圧倒的な神力を以てして広範囲を薙ぎ払う、士気が高いままに残兵を蹴散らした。
 アッサラームの飛竜隊が拠点を制圧し、勝敗を決した。
 開戦から三年。
 長き戦いは、ついにアッサラームの勝利で幕を閉じた。
 しかし戦禍の爪痕は深く、双方何万という兵が死んだ。
 命が尽きると、アッサラームの民達は屍を晒さず、青い燐光を燃やしながら天に還っていく。神々の世界アルディーヴァランに召されるのだ。
 一方、サルビアの民達は何も残さず大気に消える。冥府の神ハヌゥアビスに導かれ、生前の記憶を抱えたまま輪廻に還るといわれている。

 スクワド砂漠は、一面青い燐光で覆われた。

 多くを失いながらも、凱旋に臨むアッサラームの兵達の顔色は、決して暗くない。心を寄せる、聖都アッサラームにようやく戻れるのである。
 天幕の中、眠る光希を見つめながら、ジュリアスも穏やかな表情を浮かべていた。朝まで一緒に過ごせるのは久方ぶりだ。
 手の甲で頬を撫でていると、うっすらと目を開き、黒い双眸はこちらを向いた。眠そうな眼差しをして、かわいらしくほほえむ。

「お早う、ジュリ」

「お早う」

 前髪を分けて額に口づけると、ふ、と子猫のように笑った。ほほえみ一つで、煩いほど鼓動が高鳴る。
 光希に、一生に一度の恋をしている。
 姿を瞳に映す度に、声を聞く度に、光希に落ちていく。
 もう抜け出せないほど深いというのに、ほほえみ一つで胸が高鳴り、更に落ちていく。果たして、どこまで落ちていくのだろう……
 この幸せを守る為に、すべきことは山とある。
 凱旋が決まったのだ。
 先ずは、光希を公宮に迎える準備をしなくてはならない。
 アール川のほとりに屋敷を建てよう。光希の好きな湯を楽しめる、大きな浴場を作ろう。星空の見える浴場はどうだろう。正門には水路を引いて泉を張ろう。庭園には空が闇夜に染まる青紫のような、クロッカスを一面に敷こう。きっと光希に似合う。
 金色のアッサラームを見て、彼は喜ぶだろうか?
 未来に思いを馳せて心湧きたつのは、生まれて初めての感覚であった。同時に失う可能性を思い、不安にも駆られる。全て光希が隣に居ればこそ。

(サルビアは、必ずまた攻めてくる)

 もう、宿命を負って単騎駆けるだけでは駄目なのだ。光希を守る為に、先ず国を守らなくては……
 この戦いで名だたる将が死んだ。戻ったら軍の立て直しを急がなければならない。単騎駆けるのではなく、アッサラームを率いて駆けなくてはならない。

 愛する者を守る為に――ジュリアスが、将としての自覚を改めた夜であった。