アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 1 -

 期号アム・ダムール四五〇年。六月五日。

 公宮。蒼天を映して煌めくアール河のほとり
 青紫のクロッカスに囲まれた花嫁ロザインの屋敷――クロッカス邸。
 上品な深緑色を基調とする紳士の装いで、光希は晴れやかな表情を浮かべていた。
 これから、アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍本部基地を見学しに行くのだ。婚姻から半年、日々の説得が実を結び、ようやく軍部を訪れることを許されたのである。
 この半年――
 現公宮の頂点に君臨する光希だが、華やかで昏く深い女の世界には馴染めず、人の集まる場所には殆ど足を運ばなかった。
 ジュリアスの公宮は既に閉鎖しているが、三千人を超えるアースレイヤ皇太子の公宮は今なお健在である。彼の四貴妃の一人、西妃レイランであるリビライラからは茶会や観劇の招待状が何度か届いたが、ジュリアスと共に一度だけ出席しただけである。
 楚々としたリビライラは、およそ権謀術数とは縁遠い佳人に見えるが、棘も毒もある女性なのだと今は知っている。半年前に起きた宮女失踪事件の首謀者も彼女だ。光希には優しいひとだが、たおやかな女神の微笑を空恐ろしく感じるようになってしまった。
 自然と公宮から足は遠のき、クロッカス邸に引きこもる間、持てる殆どの時間を教養に費やした。
 大陸に広く普及する公用語、地理や歴史、武器、陣営、軍舎、軍規……軍事分野に関して広く学んだ。
 師事するサリヴァン神官は、ジュリアス以外では唯一の“宝石持ち”で、大変な高位神官でもある。多忙の身にありながら、神は勤勉な者をよみしたもうと、光希の為に快く時間を割いてくれた。
 今年で五十七歳になる彼は、未だ花嫁を得ていない。
 しかし“宝石持ち”の義務として複数妻帯しており、腹違いの子供が十人もいるらしい。
 軍部に行くにあたり、ジュリアスが選抜した光希の武装親衛隊候補の一人、ユニヴァース・サリヴァン・エルムはサリヴァンの息子の一人だという。先日十八になった光希と同い年とも聞いており、会えるのを楽しみにしていた。
 なにせ、気やすい同年代の友人はおろか、知人すら皆無に等しいのだ。
 安全で優雅な暮らしを享受しているが、友人がいないのは寂しい。
 贅沢な悩みといわれそうだが、時間を持て余してしまうのも不満だ。退屈で死にそうになる日もあれば、職探しに関してジュリアスと意見が衝突し、窮屈な思いをすることもある。
 それでもアール川の畔にある屋敷は快適で、好きな人と共に過ごせる満ち足りた日々を、概ね幸せだと感じていた。
 今は衣食住をジュリアスに頼りっきりだが、軍の内勤が叶えば、いずれ給金を得て、彼の為に何かしてあげたいと思っている。
 凱旋を終えたら穏やかに過ごしたい……なんて零していたジュリアスは、瞬く間に忙しくなってしまった。
 あまり明かそうとしないが、複数の任務を抱えているらしい。
 早朝から軍議に出席し、執務をこなし、鍛錬も欠かさない。朝課の鐘が鳴り終える頃に帰ってきて、朝早く出掛けていく。疲れているだろうに、愚痴の一つも零さない。
 今の光希では、彼の相談に乗れないことが口惜しかった。だから軍関係者になれば、苦労も多少は分かち合えるようになるのではないかと期待していた。

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 玄関ホールでしばらく待っていると、ジュリアスは二人の少年を連れて戻ってきた。
「光希、お待たせしました」
 凛々しい軍服姿のジュリアスは、滑らかな発音で“光希”と呼んだ。半年の間に、どこか異国の発音だった“コーキ”という呼び方は、とても日本的な光希という呼び方へと変わった。丁寧な口調は相変わらずだが、光希とふたりでいる時は、年相応の言動を見せてくれることも増えた。これも嬉しい変化だ。
「お帰りなさい!」
 満面の笑みで迎えると、ジュリアスも瞳を和ませた。
「同行させる武装親衛隊候補を紹介します。彼はユニヴァース・サリヴァン・エルム。光希と同じ十八歳で、サリヴァンの八番目の息子です」
 いわれてみると確かに、目元はサリヴァンに似ているかもしれない。
 しかし、落ち着いた雰囲気のサリヴァンと違い、彼の雰囲気は飛びぬけて明るい。
 整えられた灰銀の短髪は、左右に青い筋が入っていて、形の良い耳朶には銀細工が幾つも垂れている。こんなにお洒落な軍人を初めて見た。軍装のアイドルみたいだ。
 蒼氷色そうひいろの瞳を輝かせて、光希を遠慮なく見つめてくる。不躾に感じないのは、人懐っこい雰囲気のせいだろうか?
「そして彼は、ローゼンアージュ。私の小間使いで、年は十五。剣技の実力は私が保障します。今後は、ルスタムと共に光希の護衛に就いてもらいます」
 天使めいた容貌の少年は、澄んだ海水青色の瞳を和らげて微笑した。
 自分がなぜ照れているのかも判らないままに、光希は会釈した。背は光希より少し高いくらいで、アッサラーム人にしては小柄だ。十五歳なら、きっとこれから伸びるのだろう。
 ふたりとも恰好よくて綺麗で、素晴らしい容姿をしている。それが採用の理由かと誤解しそうになるが、ジュリアスが紹介するのだから、相当な実力者なのだろう。
「お世話になります。どうぞ宜しくお願いいたします」
 光希が彼らの目を交互に見て一礼すると、相手も姿勢を正した。
「「本日は殿下の護衛にご指名いただき、大変光栄に存じます。精一杯務めさせていただきます」」
 異口同音に唱和して、礼節に則った最敬礼で応えた。
 光希も快い緊張を感じて背筋を伸ばした。同年代と思うと、不思議な気安さを覚える。これから打ち解けていきたいものだ。