アッサラーム夜想曲
公宮に咲く花 - 1 -
リビライラ・バカルディーノ――アースレイヤ・ダガー・イスハーク皇太子の西妃
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、公宮勢力をまとめあげ、援軍に苦しむノーヴァ防衛戦に貢献する。
ムーン・シャイターンの公宮が解散させる以前から、三千人の宮女を抱える公宮の最大勢力は西妃の生家――バカルディーノ家であり、その地位はもはや不動のものになっていた。
皇后不在の公宮における第一位は、本来であれば花嫁であるが、権威を誇示せず、また東西戦争では通門拠点に同行した花嫁に代わり、リビライラは公宮の頂点に君臨していた。
リビライラは、あらゆるものに恵まれて生を受けた。
輝くような美貌。艶やかな銀髪。神秘的な灰青色の瞳。何不自由なく暮らせる富と権力。
その代り、バカルディーノ家に背かぬ従順さを求められた。
淀 み、落ち窪 んだ昏い眼差しで“お前はいつか、皇太后の座を射止めるのだ”……呪詛のように吹き込まれて育った。
公宮へ来たのは、もう十年以上昔のこと。
春風駘蕩 の楽園。
出口のない牢獄。
幾つもの顔を持つ、この華やかな世界にもすっかり馴染んでしまった。
+
大きな全身鏡の前に立ち、リビライラは己の輝くような美貌を客観的に眺めた。
白い鈴蘭を頭髪に飾り、額には繊細な硝子玉の連なりが陽光を弾いて煌めいている。銀糸の刺繍で縁取りされた白い紗を纏 い、肌を晒す腰には、銀糸で編まれた薄緑の帯飾りを垂らしている。
儚 げな美貌を引き立たせる、白い衣装。
本当は、繊細で可憐な白よりも、鮮やかで眼を引く赤が好きだ。
それでも、今日のように大事な日には、己の魅力を最大限に引き出す白を着なくてはならない。
「ごきげんよう、西妃様」
リビライラが公宮を歩けば、そこら中から声がかかる。
ムーン・シャイターンがたった一人の花嫁の為に公宮を解散する以前から、公宮における最大勢力を固守してきた。
誰もが足元に傅 く。
ここへ来たばかりの頃、健在だった北妃 に殺されかけたことがある。
蝶よ花よと育てられてきたリビライラは、恐怖に震えたものだが、助けてくれる者などいなかった。アースレイヤですら……。
彼が日頃、妃を名で呼ばず、階位で呼ぶ理由が判った瞬間でもある。
――すぐに代わるから……名前を覚えるだけ、無駄……そういうこと……?
気付いた時には、愕然としたものだ。
星の化身、宮殿の花と謳われたリビライラの名を、口にしたがらない男がいるだなんて。
儚げと言われる容貌に反して気性の荒いリビライラは、自分を顧 みないアースレイヤが許せなかった。
必ず、名を呼ばせてみせる。
彼の中で自分の評価を、少しずつ上げて行った。公宮で対等しそうな女が現れる度に、どんな手を使ってでも蹴落とした。
四貴妃ですら手にかけた。北妃も影を使って片付けた。
最初は、アースレイヤの眼に留まる為。
いつしか怒りは愛情に代わり、傍で支えたいと思うようになってからは、より一層、西妃の立場を固守し続けた。
決して届かないのだと……気付くまでにそう時間はかからなかった。
十年を共にしても、アースレイヤの心を捉えたことは一度もない。
彼の視界に、公宮事情など欠片も映っていない。リビライラを含めて公宮の全ては、移ろいゆく背景。
宮殿にいても公宮にいても、視線はいつも遥か遠く――外の世界へ向けられている。あらゆる戦いの渦中に身を置く彼にとって、公宮は些事に過ぎない。
ただその時、傍にいる者を気まぐれに愛でるだけ……。
想いを募 らせても、虚しさが嵩 むだけ……。
振り向いて欲しいと願ったこともあるけれど、いつしか諦めた。
好きなだけ、外の世界に眼を向けていればいい。
リビライラは国母になる。
公宮の頂点に登り詰めてみせる。一大勢力を築いて、決してお飾りにはならない皇太后になってやろう。
宮殿に侍る貴顕 を、足元に跪 かせて、興が乗れば愛でてやってもいい。
誰にも媚びない。屈しない。
もはや生ぬるい感情で、寵を競ったりはしない。東妃も懐妊さえしなければ、手にかけようなど思わなかったのに……。
花嫁が気転を利かして神官宿舎に入れなければ、あの日、サンベリアの命は尽きていた。
そうなることを知っていながら、アースレイヤは止めたりしないのだ。
一時、気まぐれに愛でるだけ。
最も多く、彼の視線を集めてきたリビライラですら……。
ふと思う――
たとえリビライラが殺されても、顔色一つ変えず“残念ですよ”と片付けてしまうのではないだろうかと……。
そんな末路は、もはや恐怖だ。
今朝早く、サルビアのノーグロッジの主力部隊が、ノーヴァに集結したと知らせを聞いた。
近いうちに、必ずアッサラームから挙兵の声が上がる。
ぎりぎりで進軍を続けるアッサラーム軍は、どこかで枯渇する。
リビライラは、国を揺るがす局面にぶつかった時、支えとなれるように、密かに準備を進めていた。
バカルディーノの権威を示すいい機会だ。
ここには高貴な親に持つ娘も、バカルディーノと懇意にしている皇家筋の娘も数多くいる。
そして、彼女達の頂点に立っているのは、リビライラなのだ。
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、公宮勢力をまとめあげ、援軍に苦しむノーヴァ防衛戦に貢献する。
ムーン・シャイターンの公宮が解散させる以前から、三千人の宮女を抱える公宮の最大勢力は西妃の生家――バカルディーノ家であり、その地位はもはや不動のものになっていた。
皇后不在の公宮における第一位は、本来であれば花嫁であるが、権威を誇示せず、また東西戦争では通門拠点に同行した花嫁に代わり、リビライラは公宮の頂点に君臨していた。
リビライラは、あらゆるものに恵まれて生を受けた。
輝くような美貌。艶やかな銀髪。神秘的な灰青色の瞳。何不自由なく暮らせる富と権力。
その代り、バカルディーノ家に背かぬ従順さを求められた。
公宮へ来たのは、もう十年以上昔のこと。
出口のない牢獄。
幾つもの顔を持つ、この華やかな世界にもすっかり馴染んでしまった。
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大きな全身鏡の前に立ち、リビライラは己の輝くような美貌を客観的に眺めた。
白い鈴蘭を頭髪に飾り、額には繊細な硝子玉の連なりが陽光を弾いて煌めいている。銀糸の刺繍で縁取りされた白い紗を
本当は、繊細で可憐な白よりも、鮮やかで眼を引く赤が好きだ。
それでも、今日のように大事な日には、己の魅力を最大限に引き出す白を着なくてはならない。
「ごきげんよう、西妃様」
リビライラが公宮を歩けば、そこら中から声がかかる。
ムーン・シャイターンがたった一人の花嫁の為に公宮を解散する以前から、公宮における最大勢力を固守してきた。
誰もが足元に
ここへ来たばかりの頃、健在だった
蝶よ花よと育てられてきたリビライラは、恐怖に震えたものだが、助けてくれる者などいなかった。アースレイヤですら……。
彼が日頃、妃を名で呼ばず、階位で呼ぶ理由が判った瞬間でもある。
――すぐに代わるから……名前を覚えるだけ、無駄……そういうこと……?
気付いた時には、愕然としたものだ。
星の化身、宮殿の花と謳われたリビライラの名を、口にしたがらない男がいるだなんて。
儚げと言われる容貌に反して気性の荒いリビライラは、自分を
必ず、名を呼ばせてみせる。
彼の中で自分の評価を、少しずつ上げて行った。公宮で対等しそうな女が現れる度に、どんな手を使ってでも蹴落とした。
四貴妃ですら手にかけた。北妃も影を使って片付けた。
最初は、アースレイヤの眼に留まる為。
いつしか怒りは愛情に代わり、傍で支えたいと思うようになってからは、より一層、西妃の立場を固守し続けた。
決して届かないのだと……気付くまでにそう時間はかからなかった。
十年を共にしても、アースレイヤの心を捉えたことは一度もない。
彼の視界に、公宮事情など欠片も映っていない。リビライラを含めて公宮の全ては、移ろいゆく背景。
宮殿にいても公宮にいても、視線はいつも遥か遠く――外の世界へ向けられている。あらゆる戦いの渦中に身を置く彼にとって、公宮は些事に過ぎない。
ただその時、傍にいる者を気まぐれに愛でるだけ……。
想いを
振り向いて欲しいと願ったこともあるけれど、いつしか諦めた。
好きなだけ、外の世界に眼を向けていればいい。
リビライラは国母になる。
公宮の頂点に登り詰めてみせる。一大勢力を築いて、決してお飾りにはならない皇太后になってやろう。
宮殿に侍る
誰にも媚びない。屈しない。
もはや生ぬるい感情で、寵を競ったりはしない。東妃も懐妊さえしなければ、手にかけようなど思わなかったのに……。
花嫁が気転を利かして神官宿舎に入れなければ、あの日、サンベリアの命は尽きていた。
そうなることを知っていながら、アースレイヤは止めたりしないのだ。
一時、気まぐれに愛でるだけ。
最も多く、彼の視線を集めてきたリビライラですら……。
ふと思う――
たとえリビライラが殺されても、顔色一つ変えず“残念ですよ”と片付けてしまうのではないだろうかと……。
そんな末路は、もはや恐怖だ。
今朝早く、サルビアのノーグロッジの主力部隊が、ノーヴァに集結したと知らせを聞いた。
近いうちに、必ずアッサラームから挙兵の声が上がる。
ぎりぎりで進軍を続けるアッサラーム軍は、どこかで枯渇する。
リビライラは、国を揺るがす局面にぶつかった時、支えとなれるように、密かに準備を進めていた。
バカルディーノの権威を示すいい機会だ。
ここには高貴な親に持つ娘も、バカルディーノと懇意にしている皇家筋の娘も数多くいる。
そして、彼女達の頂点に立っているのは、リビライラなのだ。