アッサラーム夜想曲

名もなき革命 - 5 -

 灰色の空から、雫が垂れた。
 石畳にぽつぽつと、濡れた染みが広がってゆく。
 張り詰めた緊張が満ちるなか、看守に挟まれ、手枷をつけた男がやってきた。
 リャン・ゴダールだ。
 項垂れている為、表情は判らない。髪はほつれたもやい綱のようで、破れた衣服から覗く痩身は、血で薄汚れている。拷問を受けていたことは一目瞭然だった。
 憐みを誘う無残な姿を見るなり、あるじは顔を歪ませた。
「酷い……」
 掠れた呟きを耳に拾い、看守は恐縮しきった様子でリャンの手枷を外した。
 今にも泣きだしそうなあるじを見て、エステルは動揺したが、ローゼンアージュは冷静にリャンの容体を判断した。
「殿下。大丈夫、生きています。死にそうにありません」
 それは大丈夫といえるのだろうか。口にはしないが、エステルは疑問に思った。あるじも微妙な顔つきで頷いている。
「リャン! 無事かっ?」
 下馬したヘガセイアが駆け寄ると同時に、革命軍の仲間が数人駆け寄り、傷ついたリャンの躰を左右から支えた。
 項垂れていたリャンはのろのろと顔をあげると、ヘガセイアを認めて、憔悴した顔に笑みらしきものを浮かべた。
「ついに幻が見えるぞ……なぁ、煙草を一本くれないか?」
「馬鹿が、何をいってる! 殿下の御前なんだぞ」
 ヘガセイアは焦ったように怒鳴った。リャンもようやく状況に気がついて、口をぱかっと開けた。
「嘘だろ……」
 顔を蒼白にし、これでもかと目を瞠り、いと貴き黒髪の救世主を凝視している。
「良かった、やっと会えた!」
 救世主が熱狂的に告げると、リャンは驚愕の表情のままに、勢いよくヘガセイアを見た。
「どうなってる?」
「ゴダール家とドラクヴァ家の抗争が始まる。その前にお前を解放しようと、殿下に助力をお願いしたのだ」
「抗争? ゴダール公は!?」
 リャンは叫ぶように訊ねた。
「お前の解放を求めて、ドラクヴァ家に宣戦布告した。お前が無事だと判れば、引いてくれるかもしれん」
 素早く情報をかわすふたりを、革命軍の同志は輪になって囲み、固唾を呑んで聞き入っている。
「くるぞぉ――ッ!!」
 怒号が会話を割った。門に注意を払っていた革命軍は、動揺を見せた。
「ヘガセイア、坂の下は封鎖されたッ!!」
 駆けてきた哨戒しょうかいが、息を切らして叫んだ。
 ゴダール軍の威容は、高所を押さえるこちらからよく見える。もはや説得は間にあわないと知り、ヘガセイアは覚悟を決めてリャンの肩を掴んだ。
「リャン、殿下と共にいけ」
「お前もこいッ!!」
 弱った腕を伸ばして、リャンはヘガセイアの袖を強く掴んだ。
「私は残る。仲間を見捨てるわけにはいかない」
 リャンの手を振り払い、ヘガセイアは周囲に向かって声を張りあげた。
「同志よッ!」
 全員の眼が彼に集まると、さらに続ける。
「行く道は険しく困難だが、恐れてはいけない! 黒牙を抜けッ!!」
 ヘガセイアが抜刀すると、幾人も従った。恐怖と興奮をないまぜた顔で、一心に彼を見つめている。
「リャンは希望だ! 彼を生かしてザインを生かす! 我々ならできる!」
「「オォッ!」」
「ここで闘うんだ! 恐怖したら隣を見よ! 同じ心を持つ同志が立っている!」
「「オォッ!」」
「必ず成し遂げられる! 恐れるな! 立ち向かえッ!!」
「「オオォッ――!!」」
 威風堂々たる声は空気を振動し、その力強い言葉は仲間を鼓舞する。闘いへの恐怖と疑懼ぎくを克服させたのだ。
 彼が足に不自由しながらも、人を引きつけ、愛される理由が垣間見えた気がした。
 革命が始まろうとしている。死を覚悟した瞳で、幼い子供までもが大弓に手をかけた。
 射程範囲の境に立つゴダールの指揮官は、こちらを見据えて、息を吸いこんだ。
「邪魔立てする者は容赦しないッ! 堤防を壊し、ドラクヴァに鉄槌を下してやるッ!!」
 双方の怒号が飛び交い、戦いの火蓋は切って落とされた。
 アルスランは乱暴にリャンの襟を掴むと、エステルに向けて放った。
「あの堤防じゃいくらも持たない。一緒にこい。ここにいても無駄死にするだけだ」
 エステルは強烈な臭いを我慢しながら、リャンを助け起こしてやった。
「待って、ヘガセイアが!」
 手を伸ばす主君を、ローゼンアージュは抱えるように持ちあげる。逃走に踏み切るさなか、蹄鉄の地響きが聞こえてきた。
 震動は膨れあがり、瞬く間に耳をろうする騒音に変わった。
「止めろぉ――ッ!!」
「リャンは無事だ! 監獄へいくな! 罠だッ! リャンは無事だッ!!」
 革命軍が繰り返し叫んでも、闘争心に燃えるゴダール家の者には届いていない。
 刃は火花を散らし、鮮血を噴きあげる。ザインを想う者たちが、それぞれの志を胸に互いを滅ぼしあおうとしている。
 非合理で、支離滅裂にして悲惨だった。
 死屍累々が誰の脳裏にもよぎった時、勃然ぼつぜんと、けたたましい鈴の音が曇天に響いた。
 進軍の合図だ。
 天に向かって垂直に、味方が鏑矢かぶらやを放ったのだ。この局面でついにシャイターンは軍を動かした――強制鎮圧が始まる。
「待てッ! ここで合流しよう」
 空を見てアルスランはいったあと、鋭い目でエステルたちを見据えた。
「エステル、アージュ。殿下をお守りしろ」
 いわれるまでもない。ローゼンアージュと共に最敬礼で応えると、護衛対象である主君が焦ったように身を乗りだした。
「アルスランはッ!?」
「味方が通る道を確保してきます。殿下、今度こそ大人しくしていてくださいよ」
 彼は、不敬にも己の主君を指差して睨んだ。しかし、不安に揺れる黒い双眸を見て、表情を和らげた。
「すぐに、きてくださりますよ」
 一言告げると、騎馬隊と共に堤防へ向かってゆく。もう前線は人の衝突で見通しが利かない。
 最初の衝撃ですり潰された兵士達は、既に倒れ伏していた。白い石床は瞬く間に血に染まり、昇魂――蒼白い燐光が昇り始めている。
 さりげなく立ち位置をずらし、辛そうに眺めやるあるじの視界を遮ると、震える白い手がエステルの腕を掴んだ。
「大丈夫、判るんだ。ジュリがくるって」
 遠くにあった雷鳴は、すぐそこまで近づいている。つぶてのような雨に混じって、青い稲妻が空を引き裂いた。
 耳を聾する雷鳴は、シャイターンの咆哮だ。我を忘れて剣をふるっていた者たちですら、慄いたように天を仰いだ。
「火矢を放てッ!」
 指揮官が攻撃を命じると共に、稲妻の一筋が、地上を貫いた。否、天を突く剣先に降りて、凄まじい一閃で周囲を蹴散らした。
「ジュリ――ッ!」
 喧噪のなか、その叫び声を、彼は正確に拾った。
 戦神とみまごう雄々しさで、騎乗のシャイターンが軍勢をものともせず一直線に駆けてくる。