アッサラーム夜想曲

神の系譜 - 9 -

 いにしえの大都から、カリヨンの音が聞こえてくる。
 夜も明けやらぬ黎明に、礼拝を告げる鐘は、夜の静寂しじまを控えめに破った。
 浅い眠りのなかにいた光希は、淡々とした青年の声に意識を呼び醒まされた。薄く目を開けると、緞帳の向こうにひそやかな気配が感じられた。
「殿下、起きてください」
 ローゼンアージュの声だ。彼独特の淡々とした声に、いくらか緊迫感が滲んでいる。
 かすかな不安を覚えながら、どうぞ、と光希が返事すると、彼は遠慮がちに天幕のなかへ入ってきた。
「どうしたの?」
 光希は上半身を起こしながら訊ねた。薄暗くてローゼンアージュの表情はよく見えない。
「百数名の武装集団が、こちらへ近づいてきます」
「えっ?」
「革命軍の紋章旗を掲げています。時間がありません、お早く着替えてください」
 そういってローゼンアージュが照明を灯すと、
「殿下、起きていらっしゃいますか?」
 天幕の向こうから、今度はナフィーサが声をかけてきた。光希がなかへ入るよう声をかけると、軍服の着替えを手に持ったナフィーサが入ってきて、ローゼンアージュはでていった。
 光希は身支度を手伝ってもらい、準備を終えると照明を落とした。
 天幕のそとへでると、黒牙をいた兵がずらりと並んでいた。燃え盛る篝火かがりびに照らされて、足元に色濃い影を落としている。
 ものものしい雰囲気に、光希の心臓は不安で大きく跳ねあがった。
「誰なの? どうしてここへ?」
 ナフィーサに腕を引かれて歩きながら、光希は矢継ぎ早に訊ねた。
「判りません」
 ナフィーサも緊張した声で答えた。
 昨夜ジュリアスは光希の影武者を連れて、公式にザインへ入ったはずだ。一兵卒に扮する光希が花嫁ロザインだと、知っている人間がいるのだろうか?
 砂の対岸には、赤い松明が不気味に揺れている。
 東西大戦の記憶が胸をよぎり、光希はぎくりとさせられた。思わず歩みが鈍り、せっつくようにナフィーサに腕を引かれた。
「待って」
 光希は両足に力を入れて抗った。動悸がする。胸郭を内側から破りそうなほど、心臓が激しく鳴っている。だが不吉な既視感は、白い鳥の意匠された旗を目にした途端に消え去った。
 次の瞬間、光希はナフィーサに掴まれている腕を振り切り、アルスランの立つ野営の前線に向かって全力で駆けだした。
「殿下ッ!」
 ナフィーサも慌てて追いかけてくる。
 ローゼンアージュが光希を抱きとめるのと同時に、アルスランは鋭い口調で誰何すいかを発した。
「そこで止まれ! 何者だ!」
「敵意はないッ! 革命軍のヘガセイア・モンクレアだ! リャンのことで、話がある!!」
 臆せず答えたのは、まだ若い男の声だ。兵団の先頭で両腕を高くあげている男がそうなのだろう。顔は覆面に隠れて判別できない。怪我をしているのか、足を庇うようにして立っている。
「シャイターンの花嫁ロザインに会わせて欲しいッ!」
 ここに光希がいることを知っているかのような口ぶりに、野営の空気は張り詰めた。
「殿下、お早く」
 殆ど引きずるようにして、ローゼンアージュは光希を後方へ押しやろうとする。その力に抗い、光希は正面を見据えていった。
「彼の顔が見たい」
「いけません」
 前へでようと藻掻く光希を、ローゼンアージュばかりか、エステルも押しとどめようとする。
「お願いだ、どうか!! このままでは、リャンは殺されてしまう……ッ」
 ヘガセイアと名乗った男が悲痛な声で叫んだ。
 その姿は、幻で視た砂漠に立つ覆面の男に酷似していた。彼がリャンを助ける者かもしれない――光希の胸に予感がきざした。
「そこで跪けッ!」
 アルスランが命じると、ヘガセイアはいわれた通りに膝をついた。
「彼を失うわけにはいかないのです、どうか御慈悲をッ!」
 必死さの滲んだ震える声を聞いて、光希は心を決めた。護衛を振り返り、
「詳しい話を聞きたい。皆、力を貸して」
「殿下――」
「いう通りにして。早くッ!!」
 厳しい口調で一喝すると、周囲に動揺が走った。
 後方の異変に気がついたアルスランの目が、こちらを向いた。光希を見て眉をしかめている。非難の視線でめつけられ、
「アルスラン! 彼を連れてきて」
 負けじと光希も睨み返すと、苛立ったようにアルスランは舌打ちした。彼が指示を唱えるより早く、光希は腹心の護衛たちを振り向いて、いった。
「ナフィーサ、アージュ。彼と話したい。お願い、力を貸して」
 二人は光希の目を見て、表情を引き締めた。主の本気を知り、心を決めたのだ。
「仰せの通りに」
 表情を改めてナフィーサが応え、ローゼンアージュも無言で首肯した。ナフィーサは跪く護衛を振り返ると、
「淡い照明としゃを用意してください。私が殿下の代わりを務めます。護衛は私の後ろに。エステルはローゼンアージュと共に殿下の傍へ」
 厳粛な顔つきで、的確に指示をくだし始めた。
 しかし駆け寄ってきたアルスランは、天幕の影に光希を押しこむや、氷の眼差しで見おろした。
「おやめください。危険です」
「彼は敵じゃない! リャンを助ける者ですっ!」
「貴方を危険に晒すわけにはいかない」
「シャイターンの思し召しですッ!」
「――ッ、いいから、隠れてろ!」
 苛立ったようにアルスランがいった。
「僕は彼に会う為に、ここまでやってきたといってもいい! 信じてッ!!」
 冷たいくろがねの右腕に触れて、光希は訴えた。
 月日を費やして命を吹きこんだ鋼腕は、アルスランを以前と変わらぬ飛竜隊最高最速の騎手として、最前線に戻した。苦悩と蹉跌さてつを乗り越えて手にいれた奇跡であり、ふたりの絆の証でもある。
 冴えた蒼氷色そうひいろの瞳には、案じる光が灯っている。逡巡、歯がゆそうな色から諦念、覚悟と表情を変え、しまいには据わった目つきに変えると、指示を待つ兵士を振り向いた。
「あの男を連れてくる。少しでも不審な点があれば、迷わず殺せ」
「「「はっ」」」
 氷の刃のような口調でアルスランが命じると、全員が一瞬の躊躇もなく、即答した。
 賽は投げられた。もう後戻りはできない――光希は震えるそうになる手を硬く握りしめた。