アッサラーム夜想曲

神の系譜 - 7 -

 見おろす眺望ちょうぼうは、砂の海原うなばら
 空は黄昏めいて、低くなった陽が雲の端を金色に輝かせている。
 壮麗な空だ。
 斜陽は砂にくずおれた石柱を、神秘的に煌めかせて、眺める者を無垢で敬虔な心境にさせる。
 飛竜のうえから光希は、往時を偲ばせる遺跡の数々を眺めおろしていた。そうするうちに、心は遥か数千年へと遡ってゆく。
「光希」
 かしいだ姿勢を正すように、腹に回された腕に力がこめられた。
「ごめん」
 美しい景に見入るあまり、前傾姿勢になっていたようだ。軽く胸を反らせると、こめかみにくちづけられた。
「疲れましたか?」
「平気。景色に見惚れていただけ」
「もう少し飛んだら、休みましょう。じきに雨が降る」
 ジュリアスの言葉に、光希は黄昏を仰いだ。
 西大陸には今、本格的な雨期が訪れている。空模様が急に悪化することは珍しくなく、南下する途中も、何度か透き通る雨に南風が溶けこんだ。霧雨なら気にせず翔けるが、つぶてのような雨が降る日は、行軍を諦めねばならない。よって、飛べる日はひたすら長く、昼夜兼行して飛び続けるのだ。
 操縦を人任せにしている光希でも、長時間を飛竜の背で過ごすのは楽ではない。しかしジュリアスは、始終手綱を握りながらも、その手は少しも危うくなかった。
「少し代わろうか?」
 答えを知りながら、光希は控えめに訊ねた。
「平気ですよ」
 微笑しながらジュリアス。
「でも、疲れない? たまには僕にもたれて、うたた寝していいよ」
 何度かこうして申しでているのだが、ジュリアスが頸を縦に振った試しがない。少し意地になって、代わるよ、と繰り返すと彼はくすりと微笑した。
「怖くて、任せられません」
「平気だって」
「お構いなく」
 強引に、ジュリアスの手から手綱を引ったくろうとすると、ぺしっと軽く手を叩かれた。
「……」
「……」
 何事もなかったかのように、ふたりの間に沈黙が流れる。
 飛竜の背にいる間は大体こんな感じで、一度も運転を任せてもらえなかった。

 アッサラームを出発してから、十三日目。
 古の大都を目前に、ジュリアスは軍隊を四つに分けて、東西南北の門に合わせて配置した。ヤシュムは東、ジュリアスと光希は西で、ナディアやアルスランも同じである。南北にもそれぞれ小隊が控えている。
 ザインに潜入している哨戒しょうかいからの報告を待つ間、ジュリアスと光希は簡素な天幕を張り、休息をとっていた。
 しとしと降る優しい雨の音に耳を澄ませていると、背中からジュリアスに抱きしめられた。
「寒くありませんか?」
 白い息を吐きながら、光希は首を横に振った。
 陽がかげり雨が降ると、砂漠を渡る風も冬の息吹のように感じるが、分厚い布地の天幕は風から護ってくれる。それにナフィーサが山ほど厚着させてくれた。
 半刻もしないうちに、哨戒しょうかいが戻ってきた。
「伝令! 早朝、ドラクヴァ家が襲撃を受けました。仕掛けたのは、ゴダール家だと。西の郊外までお迎えにあがると、グランディエ公からの言伝です」
「襲撃って?」
 天幕の内側で聞いていた光希は、思わず緞帳をめくって顔をのぞかせた。眉をひそめるジュリアスに気づかないふりをして隣に並ぶと、跪いた兵士は、呆けたように光希を仰ぎ見た。
「……続けてください」
 仕方なくジュリアスが先を促すと、兵士は呆けた顔を引き締めた。
「はっ。襲撃の仔細について、ザインに入った先発隊が調べております。密偵から、これを」
 壮年の兵士は、ジュリアスに小さな筒状の紙を渡した。なかを検め、ジュリアスは一つ頷く。
「いってみないことには判りませんね。出迎えは不要、こちらから伺うとグランディエ公に伝えてください」
「はっ」
 兵士は一揖いちゆうすると、すぐに引き返していった。
「いくの? 遠視は?」
 懸念が先立ち、光希は思わずジュリアスを仰いだ。額に輝く青い宝石は、シャイターンの神秘の証。千里の彼方を見渡すことができるはずだ。
「私と関わりの少ない事象では、視ようにも鮮明さに欠けるのです」
「そう……」
「実際にこの目でザインの様子を見てきます。疲れていると思いますが、もう少しここで待っていてください」
「判った」
「すぐに戻ります。後で隊商宿キャラバン・サライに移動しましょう」
 長身を屈めて光希の額にくちづけたあと、身を翻そうとするジュリアスの服を、光希は無意識に掴んだ。
「気をつけて」
 自分でも頼りげない声に聴こえた。するとジュリアスは足を止めて、躰ごと振り返った。
「はい、気をつけます。光希も気をつけてくださいね」
 碧眼が優しく細められる。こくり、とうなずくと髪を撫でられた。
「すぐに戻りますよ」
「うん……気をつけて」
 繰り言になってしまう。周囲を待たせていることに意識が向いて、光希はジュリアスの服から手を離そうとした。彼はその手をとると、もう片方の手も持ちあげて、そのどちらにもくちづけ、さらにもう一度くちづけ、それから腕を引いて光希を優しく抱きしめた。
「私なら大丈夫です。すぐに戻りますから、光希はここで待っていてください」
「うん」
 思いのこもった視線を交わしてから、ジュリアスは今度こそ身を翻した。
 凛々しい後ろ姿は遠ざかり、砂漠にそびえる大都へと消えゆく。
 流れる金髪の奔流を見送りながら、ふと宮殿の庭で見かけた、金色の蛇を思い出した。
 幻が、脳裏をよぎる。
 豪華絢爛なお屋敷、神聖な礼拝堂。
 斜陽が降り注ぐ神聖な祈りの場で、敬虔な人たちが祈りを捧げている。部屋に飾られている、杯と葡萄の意匠されたドラクヴァ家の紋章旗。
 彼等の背中に、音もなく忍び寄る影。手にした短剣には、月桂樹の紋章――ゴダール家のもの。
 先の知らせが脳裏を過る。ドラクヴァ家が襲撃されたとは、まさか――
「殿下、天幕にお入りください」
 ローゼンアージュの声に、光希は我に返った。嫌な予感を断ち切るように頭を一つ振り、天幕のなかに入った。