アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 20 -

 星の瞬く夜空の下、荘厳な都市は眠っている。
 辺りには暗闇と静寂が垂れこめているが、賭博の宮殿、ポルカ・ラセは眠ることはない。
 今宵、黄金の丸天井をいただく豪華な一室で、特別な遊戯が行われようとしていた。
 床には分厚い紫の絨毯が敷かれ、格天井ごうてんじょうから黄金の照明がぶらさがり、丸い遊戯卓を柔らかく照らしている。
 その光を浴びて、宝石を象嵌ぞうがんされた黒檀こくたんの椅子に座っているのは、ヘイヴン・ジョーカー、そしてクシャラナムン財団の大幹部、ジャプトア・イヴォーである。
「久しぶりに会えて嬉しいよ、マグヌス」
 男の顔をじっくり眺めながら、ヘイヴンはほほえんだ。
「私もです、ジャプトア様」
 如才ない笑みを浮かべながら、こんな男だったろうか、ヘイヴンは心に呟いた。
 といっても、最後に顔を見たのは十年も昔になる。違和感の正体は突き止められそうになかった。
「大盛況じゃないか。客足が途絶えないようだね」
「おかげさまで」
 先日の営業妨害の件には触れず、ヘイヴンはほほえんだ。
「ここは賭博の宮殿だ。久しぶりに、私と勝負しないかね?」
「カードで?」
「そう。お互いに山のような富を持っている。金銭ではなく、特別なものを賭けないか?」
「どのような?」
「君が勝てば、ポルカ・ラセの名は貶められることは今後なくなるだろう」
「……なるほど。貴方が勝てば?」
「競竜杯の賭博発行権を、譲ってもらいたい」
 泰然自若とした単刀直入な申し入れを、ヘイヴンは一笑に伏した。
「ご冗談を」
 だがジャプトアの瞳は少しも笑っていなかった。
「私は本気だよ」
「ポルカ・ラセの権利は、陛下もお認めになられた正当なものですよ。駆け引きの戦利品にできるようなものではありません」
 ジャプトアはヘイヴンの方へ屈みこんだ。
「できるとも。君が黙っていればいいだけの話だ」
「私に何の得があるのでしょう? 負けたら陛下の命に背かねばならず、勝っても妨害行為をやめるという口約束しかいただけないのですか?」
「ただの口約束ではない。私の名にかけた誓いだ。不服かね?」
 ヘイヴンは挑発的にほほえんだ。
「貴方が本当に、ジャプトア・イヴォーであるかもわからないのに?」
 ジャプトアは揶揄するように笑いながら、冷厳とした目で青年を見据えた。
「酷い侮辱だね、ヘイヴン。財団を抜けてから、礼儀を忘れてしまったのかな? もう一度戻ってくるかい?」
 濁った眼で見つめられて、ヘイヴンは警告の表情を浮かべた。
「ジャプトア様、警告をさしあげるのは今夜限りです。今後の営業妨害は、私への宣戦布告とみなしますよ」
「おやおや、いうようになったね……マグヌス?」
 ヘイヴンは顔色を変えなかったが、その名前で呼ばれることに強い不快感を覚えた。
「――いいでしょう。チェルカで遊びましょうか。私が最初に覚えた遊戯です」
「いいとも」
 ジャプトアはどうぞ、というように手を閃かせた。ヘイヴンは頷くと、軽やかな手つきでカードを配る。
「三枚目に幸運を祈って」
 ジャプトアは不敵に笑うと宝石をちりばめた酒杯に手を伸ばした。しかし、口に含んだあとに眉をひそめる。
「これは……」
「どうかしましたか?」
 顔をしかめるジャプトアを、ヘイヴンは怪訝そうに見つめた。
「う、ぐッ」
「ジャプトア様?」
 ジャプトアの手から杯が零れる。音を立て席を立つと、喉を押さえながら床に膝からくずおれた。
「き、貴様」
 彼は飛びかかろうとしたが、一歩も動けなかった。唇を戦慄わななかせ、顔は蒼白になり、恐怖の色が瞳にみなぎっている。
 ヘイヴンは彼の傍に膝をつくと、助けられるものか見極めようとした。
「何をしたッ?」
 ジャプトアは語気荒くいった。激しく震える指で喉を押さえている。
「貴方は何を口にしたのですか?」
 その冷静な問いかけに、ジャプトアの瞳に怒りの焔が燃え上がる。ヘイヴンはかぶりを振った。
(――無理だ。助からない)
 男は断末摩の苦悶でのたうちまわる。そうする間にも喉は焼け爛れていき、肌の焦げる匂いが鼻をついた。ジャプトアは呪詛を吐いているようだが、ひゅうひゅうと気管支から抜けた音が鳴るだけだった。
 濁った瞳から光が消えていく。
 ジャプトアの身体から青い燐光が漂い始めた。魂が昇華しようとしているのだ。
「……友よ、青い星へ帰り給え」
 ヘイヴンは朧になっていく輪郭を見下ろし、聖句を呟いた。右手を胸にあてて、死者を見送る。
 あとに残されたのは、大粒の宝石、華美な衣装だけだった。
「……厄介なことになったな」
 普段は泰然自若としているヘイヴンも、流石にため息をついた。
 前髪を乱暴にかきあげ、物憂げなため息をつく。
 だが、行動は早かった。
 ジャプトアの従者が、関係者専用の広間で待機しているはずだ。彼に知らせなければならない――主は今夜は帰らないと。