アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 19 -

 ハーランはうんざりしていた。
 クシャラナムン財団の大幹部、ジャプトア・イヴォーを邸に招いてからというもの、彼は寝所に美しい少年や少女を侍らせ怠惰な饗宴に耽ってばかりいるからだ。
 このように性根の腐った男と知っていたら、いくら彼が財団の幹部で、有益な情報に通じているかといって、共謀を担ごうとは思わなかっただろう。
 だが今更だ。
 ジャプトア・イヴォーに面通りする為に、少なくない金額を投資している。彼との関係が露見すれば、ハーランの政治生命は断たれる。
 引き返せない以上、計画を遂行するしかない。
 そう、ポルカ・ラセの支配人、ヘイヴンを脅して、或いは評判を穢し、公式賭博場の権利を返上させるのだ。
 そうすれば、議長のアースレイヤと理財長のハクネスは管理責任を問われる。
 彼らが糾弾される場面を思い浮かべるだけで、腹の底から笑いがこみ上げてくる。
 最後は公式賭博場の権利を白紙に戻し、クシャラナムン財団に介入させ利潤を巻き上げる――筋書きはできている。
 その為にも、今夜はジャプトアに明晰な思考のままでいてもらわねば困る。だというのに、彼はお楽しみの真っ最中だ。
 饗宴の場に踏み入るのは嫌で、ハーランは応接間にジャプトアの従者、マシャーロを呼びつけた。
「ジャプトアを呼んできてくれ。大事な話があるんだ」
「かしこまりました」
 長身巨躯の従者は、余計なことは一切口にせず部屋を出た。堕落しきったジャプトアより、遥かに良い仕事をする男だ。
 間もなく、応接間に甘ったるい香をまとったジャプトアが現れた。この男は、人の邸で麻薬を服しているのだ。
「こんばんは、ハーラン様」
「ジャプトア殿。首尾はいかがですか?」
「いい気分ですとも」
 とぼけた回答をする男を、ハーランは冷めた目で見つめた。ジャプトアは肩をすくめると、革張りの椅子に腰をおろした。
「冗談ですよ。先ほど、ヘイヴンから内密に招待状が届きました」
「ヘイヴン・ジョーカーが面会に応じたのか?」
「そうですよ。明日の晩、ポルカ・ラセに出かけます」
「一体どうやって、招待を受けたのだ?」
「簡単ですよ。私に飼われていた頃の名前を呼ぶだけで、彼は私を無視できなくなる」
 にんまりする男を見て、ハーランは鼻白んだ。
「彼は大人しく、公式賭博場の権利を返上するだろうか?」
「そうしてくれると楽なのですが、恐らく断るでしょう。けれど、結果は同じですよ。彼は返上せざるをえない」
 ハーランは胡散臭そうな一瞥を送った。視線で先を促すと、ジャプトアは饒舌に喋り始めた。
「ポルカ・ラセは今、玄関広間を改装中です。そこに飾る遊戯卓の装飾をシャイターンの花嫁ロザインに依頼したらしい。納品されるところを襲撃させます」
 世間話のような調子でいわれて、ヘイヴンはぎょっとした。
「何をいっている」
「納品するところを襲撃すれば、ヘイヴンの信用は地に落ちるでしょう」
「厳重に警備されているに決まっているだろう。それに、殿下が乗り合わせていたらどうするのだ」
「構いませんよ。シャイターンも同乗していたら、まとめて始末してしまえばいい」
「……正気か?」
 ハーランは信じられない思いで問うた。
 ジャプトアは薄笑いを浮かべている。能のない快楽主義者と思っていたが、今は底の知れない怪物に見える。
「もちろん正気ですとも。彼を消せば、競竜杯の利益を軍が巻き上げることも阻止できる」
「世迷言を申すな! 狂気の沙汰だぞ。彼がこの国の英雄であることを忘れたのか?」
「戦争で稼ぐ時代はもう終わりました。過剰な力を持った英雄は、商売の邪魔になるだけです」
 その言葉に強烈な嫌悪感を掻き立てられ、ハーランは苦々しげに呻いた。
「私はハクネスとアースレイヤに報復したいのであって、シャイターンと争うつもりはないッ!」
「恐れることはないでしょう? 闘うのは貴方ではなく、私なのですから」
 ハーランの堪忍袋の緒が切れた。こめかみに青筋が浮かべ、
「お前の口から私の名が漏れた瞬間に、全てが終わるのだッ!」
 叩きつけるように糾弾した。悠々と笑む男を、射殺さんばかりに睨みつける。
「どんな奸計かんけいも、シャイターンがその気になれば筒抜けですよ。悟られる前に仕掛けるしかありません」
「彼が西方諸国の真の支配者だと、判っているのか?」
「時代の転換期を迎えようとしているのです。これからの世界で力を揮うのは、軍事家ではなく、我等のような資産家ですよ」
「炯眼のつもりか。貴様は、アッサラームの軍事を取り仕切る、恐ろしく強力な男を敵に回そうとしているのだぞッ!」
「やれやれ、貴方は思ったより臆病なようだ」
 無礼千万な台詞に、ハーランは口元を歪めた。ジャプトアは揶揄するように笑う。
「私と貴方のどちらが正しいか、すぐに証明してみせますよ。明日の晩を楽しみにしておくと良い」
 ジャプトアは慇懃な仕草で敬礼をしてから、部屋を出た。
 一人になると、ハーランの口から沈鬱なため息が漏れた。頭痛を和らげるように、指で眉間を揉む。
(あの男と手を組んだのは早計だったか?)
 ジャプトアの申し出を受けてから、計画は思わぬ方向へ転がっていく。あの男は、少しの計算違いが命取りになることを判っていない。シャイターンがその気になれば、アッサラームのどんな暗がりの出来事でも見透すことができるのだ。  超常の力を自在に操る男を出し抜くのは容易なことではないのに、ジャプトアの迂闊な言動は目に余る……
 束の間、ハーランの胸に悔悟かいごよぎった。
(……アースレイヤと戦うつもりはなかったのだがな)
 今となっては忌々しく感じられるが、最初は、彼に尽くそうとすら思っていた。
 ハーランはおのが明晰さに自信があった。
 損得勘定に聡く、したたかで計算に強い。理財長に相応しいのは、ハーランをおいて他にいない。
 だが、アースレイヤは品のよい微笑で、ハーランを切り捨てたのだ。
 翳った瞳の中に、怒りの焔が燃えたつ。
(必ず報復してやる)
 煮えくり返る思いで胸に呟き、ハーランは明晰な思考回路で計画の修正を計算し始めた。